軍国主義の旗の下で

               有澤 広巳

 裁判の進行中、僕は保釈の身で、軍の仕事を手伝ったことがある。その頃、満鉄にいた僕のかつての学生だった神崎誠君が来て、こんど秋丸中佐(主計)が首班となって、日・英・米・独・ソの各国の経済力の調査をすることになった。ついては、僕に援助をしてもらえまいかと希望しているが、出馬してもらえないだろうかと言う。
 秋丸中佐はかつて東大経済学部に聴講生として派遣され、僕の講義を聞いたことがあるし、僕の演習に参加しようと申し込んだが、選にもれた人だという話である。それでともかく一度会って直接話を聞くことにした。

 中佐の話も神崎君の話と同様だったが、とくにこの調査は軍が世界情勢を判断する基礎資料とするためのものだから、科学的な客観的な調査結果が必要なので、学者達の参加を求めその自由な調査研究に待つことになった。そのため経済調査班も軍の機構の外に置くことになっているといわれた。それで僕はさらに遠藤主計課長と岩畔軍事課長にも会って、その点を確かめた。両課長とも科学的客観的調査の必要を力説され、保釈の身分であることを承知の上で、あなたの援助を求めるのだと言う。それで、僕もひとつやってやろうという気になった。

 経済調査班の仕事が始まったのは、翌昭和15年の2月ごろだったと思うが、軍人は秋丸中佐と経理担当の山科さんのふたりで、ふたりともいつもわざわざ背広姿で出勤していた。場所も最初はある銀行の二階を使っていた。
 春になってだんだん組織が出来上がった。どうゆうふうに関係者を集めたか、その間のことは分からないが、日本班、英米班、ドイツ班、ソ連班の4つのグループが出来、日本班は中山伊知郎君が主査で森田優三君たちがそれに属していた。ドイツ班とソ連班はたしか武村忠雄君がやっていたと思う。英米班は僕が主査で、宮川実君が副主査として手伝ってくれた。それに神崎、村本、豊田などの諸君が働いてくれた。

 ほかの班も同様であったが、英米班の調査も初めのうちは遅々として進まなかった。その間、僕は軍の経済調査を手伝っていると言うので、そのために検事局に呼び出され取り調べられたこともあった。また、秋丸中佐のところへは、軍内部からも、外の右翼団体からも、何度か僕がその機関で働いているのがけしからんと言う抗議がきたらしい。僕には知らせずに、その都度秋丸中佐はそれを拒否して、僕らの班がそうゆうことにかかずらうことなく調査研究を進めることが出来るよう配慮してくれた。(中略)

 16年春になると(ヨーロッパの)戦局の膠着状態と日本の生産能力の天井うちとで、ようやく戦争指導にあせりが見え始めた。これでは日本はジリ貧になるという声が聞かれるようになった。人力でも物量でも、戦争消耗による欠乏がはっきりと日本経済の上に現れていた。それまでゆっくりと構えていた秋丸中佐にも多少あせりが見えて、我々の結論をせきたてるようになった。言いにくそうに夏休み中にだいたいの結論を出してもらえまいかと、催促を受けた。
 日本班の中間報告では、日本の生産力はもうこれ以上増加する可能性はないということだった。軍の動員と労働力の間の矛盾がはっきりと出てきた。ドイツ班の中間報告もドイツの戦力は今が峠であると言うことだった。

 僕達の英米班の中間報告の暫定報告は9月下旬に出来上がった。日本が約50lの国民消費の切り下げに対し、アメリカは15-20lの切り下げで、その当時の連合国に対する物資補給を除いて、約350億ドルの実質戦費を賄うことが出来、それは日本の7.5倍に当たること、そしてそれをもってアメリカの戦争経済の構造にはさしたる欠陥は見られないし、英米間の輸送の問題についても、アメリカの造船能力はUボートによる商船の撃沈トン数をはるかに上回るだけの増加が充分可能である…と言った内容のものであった。それを数字を入れて図表の形で説明できるように表した。秋丸中佐は我々の説明を聞いて、たいへん良く出来たと喜んでくれた。

 9月末に秋丸中佐はこの中間報告を陸軍内部の会議で発表した。これには杉山参謀総長以下、陸軍省の各局課長が列席していたらしい。無論僕達シビリアン(民間人)は出席できなかった。秋丸中佐は多少得意になって、報告会議に臨んだようだったが、杉山元帥が最後に講評を行った時、中佐は愕然と色を失った。
 元帥は、本報告の調査および推論の方法はおおむね完璧で間然するところがない。しかしその結論は国策に反する。したがって、本報告の騰写本は全部直ちにこれを焼却せよ、と述べたという。

 会議から帰ってきた中佐は悄然としていたそうだ。そして班員に渡してあった謄写本を全部回収して焼棄したので、無論、僕のところにも残っていない。報告に使った数字も今でははっきりさせることが出来ない。(中略)
 この当時、両親を相次いで失った。母の葬儀を済ませて帰郷して秋丸中佐から事の次第を聞かされた。僕は別に驚かなかったが、また、秋丸中佐を慰める言葉もなかった。陸軍首脳部では既にルビコン河を渡る決意を決めていた。決意が出来ているところに、河を渡ることの危険を論証する報告書などは、それこそ百害あって一利もないというのだろう。謄写本を全部焼却せよという厳命はそういう意味だったのだろう。

 これで秋丸機関としての経済調査班の活動はいっぺんに支離滅裂となった。僕はまもなく秋丸中佐に呼ばれて、至急に僕を辞めさせなければならなくなった旨を聞かされた。東條大将の厳命だといって赤松大佐がきたので、もう自分としてはいかんとも致し方ないという。僕は中佐にたいへん迷惑を掛けてまで残っていたいなどという気持ちは初めからないからその場ですぐ辞めた。

 経済調査班はその後2、3ヶ月は存続していたが、そのうち廃止になった。もう太平洋戦争が始まって、秋丸中佐も第一線の経理部隊長としてハルマヘラあたりに飛ばされたという話だった。
 秋丸さんは現在、九州の郷里の町の町長をしている。上京の折には、今もその当時の連中と一緒になって会食するが、それに僕も出席することにしている。

付記

この一文は昭和31(1956)年7月、毎日新聞社発行の「エコノミスト」に「支離滅裂の秋丸機関」と題して掲載された。おそらく秋丸機関について最初に書かれたものだろう。しかし、当時はたいした話題にもならなかった。それは、戦後10年以上経ち戦記ものや戦中秘話があふれておりその中に埋没した。また、掲載誌が経済人向けのもので、読者が限られていたこともある。読んだ知人から掲載誌が送られていたが、本人は何もコメントせず、また、見せびらかすようなこともなかったので何時しか忘れられていた。
 この文で興味あるのは、有澤氏も報告書は焼却されて残っていないとしているが、どのような経過かわからないが有澤氏の死後、氏のもとから発見されている。さらに20年経過しているにもかかわらず、かなり正確に報告書の内容を書き記している。
 また、秋丸中佐が多少得意げに陸軍省首脳に説明したところ、参謀総長から一喝されて悄然となったことなどは、本人は語らなかった秋丸次朗の心情をうかがい知れる。