秋丸次朗の経歴とエピソード

 

秋丸次朗の経歴とエピソード秋丸次朗は昭和63年に「朗風自伝」を出版している。誕生から終戦までの47年間の自叙伝である。また、昭和17年に南方戦線に派遣された間、日記をつけている。それらに従って、経歴とエピソードを綴る。なお、朗風は日本詩吟銀学院より授与された雅号である。

1898(明治36)年9月10日
宮崎県西諸県郡飯野村大字原田3457に於いて、父秀強(27)、母ミネ(25)の次男として生まれる。「次郎」として届け出たが、戸籍係の従兄弟が平凡だとして「次朗」に改めて登記したと言う

1905(明治38)年
飯野尋常小学校に就学。小学校の6年間は無欠席で、常に首席、級長を続ける優等生であり、将来に向かってエリート意識が強かった。当時は日露戦争に勝利して、子供心に軍人になって出世したいと心に決めていた。

1911(明治44)年
県立宮崎中学校に入学。成績は100人中50番ぐらいで世間に出ると学力の低いことにやや自信を失う。

1912(明治45)年
陸軍幼年学校を受験、身体検査で心臓の動悸が高いと不合格になり涙をのむ。県立都城中学に転校。

1916(大正5)年
中学卒業、4年間無欠席。卒業式で品行方性、学術優等で賞状を受ける。海軍兵学校を受験するが、近視との理由で不合格。再起を図り、鹿児島の軍人養成予備校の三省舎に通う。軍人志望は変わらず、軍医か主計官なら身体検査に支障はないと思い、長崎医学専門学校を受験合格、1学期在学したが、陸軍経理学校も合格したため、熊本歩兵第13連隊に主計候補として入隊。

1918(大正7)年
東京の陸軍経理学校に入校、会計経理の専門教育と軍事訓練を受ける。

1920(大正9)年
1年半の生徒科課程を履修し、原隊に復帰曹長に進級、12月に主計少尉に任官、歩兵第45連隊付に補せられ、鹿児島に勤務する。いとこの森アサさん宅をたびたび訪問、人をそらさぬアサ姉の接客振りに魅せられる。

1926(大正15)年
森アサの一人娘ミキと結婚。前年から陸軍高等経理学校を受験するも失敗、1930(昭和5)年に合格するまでの5年間血のにじむような受験勉強に没頭する。

1932(昭和7)年
陸軍高等経理学校をトップの成績で卒業、東京帝国大学経済学部に派遣される。

1935(昭和10)年
東京帝国大学経済学部の選科生として修了、関東軍交通監督部部員兼奉天航空廠員に補され、渡満。満州航空会社の会計監督官として勤務。翌年、関東軍参謀付に補され、新京に赴任、経済参謀として農業を担当、日本人開拓団の導入、定着に力を注いだ。そのご商工部門に変わった。当時の参謀長は東條英機中将、満州国側の商工関係は岸信介、椎名悦次郎など大物揃いだった。主な仕事は、満鉄改組に伴う満州重工業開発会社の設立であった。日産コンツェルンの満州移駐のため鮎川義介、野口窒素社長島津寿一氏など当時の日本財界の大物を相手に手腕を発揮する黄金時代の活躍で「関東軍に秋丸参謀あり」と日本内地の財界に知られていた。
 この頃、内地から財界人が来満すると必ず料亭に招待された。程度を越すと公務員のスキャンダルに陥りやすい。そこで料亭では一切公務の話はしないとの条件で招待に応じることとした。必ず、羽織袴を着用し、午後10時には辞去することで3年間の要職を大過なく果たすことが出来た。

1939(昭和14)年
陸軍主計中佐に昇進、陸軍経理学校研究部員、陸軍省経理局課員、軍務局課員に転任となり東京へ。任務は陸軍省に経済戦研究班を創設、班長を命じられる。

1941(昭和16)年
陸軍主計大佐に昇進、大本営野戦経理長官高級部員と研究班長をかねる。12月8日、太平洋戦争開戦。

1942(昭和17)年
6月5日、ミッドウェー海戦の大敗により大本営は南太平洋進攻作戦を中止、米英連合軍は反撃に転じ日本軍の敗色は濃くなった。大本営野戦経理長官部としては、食糧の補給継続にもっとも苦心した。制空権、制海権を失った日本軍としては海軍の護衛による輸送しかなかったが、海軍にもその余力はなく内地からの食糧補給は殆ど不可能になり戦地部隊は現地自活によって継戦するしかなかった。将兵はマラリアに苦しみ、飢餓に耐え、悪戦苦闘を続けた。この様な戦地の将兵の苦労を思うと一身上のことを考える気分になれなかった。

1月31日に次女の紀子(3歳)が肺炎で死亡したが、通夜にも出ずに役所にとどまった。4月7日には次男満男(7歳)が脳脊髄炎で死亡したがやはり戦地のことを考えると悲しんでばかりはいられなかった。子供には済まぬことをしたが、戦地で多くの兵士が倒れているのだと思い直して悲しみをこらえた。

7月、陸軍大学の経済戦術の教官を兼務、戦局の推移に伴って総力戦研究所は閉鎖、陸軍省の経済戦研究班も解散となる。12月15日、比島派遣第16師団経理部長に補され、同月19日に出征。当日の日記に「いよいよ出発の日となった。早朝起きて、心静かに神に祈る。東京駅には栗橋局長はじめ多くの見送りを受ける。研究班関係の人々が多いのは嬉しい。家族3人が車窓に立つ。信夫の元気な声が姿が今も残る。さらば行ってきます。汽車は静かに南へ走る」

1943(昭和18)年
12月、北豪派遣第19軍経理部長としてアンポン島に着任。

1944(昭和19)年
第19軍セラム島移駐のため、先遣隊長となる。

1945(昭和20)年
3月、第19軍は解散となり、本土決戦のため空路立川に帰着、第6航空軍経理部長となる。8月15日終戦、第1復員省復員官となり残務整理。

1946(昭和21)年
3月残務整理終了、飯野に帰る。その後6年間、公職追放を受ける。

1954(昭和29)年
公職追放解除後、助役を経て飯野町長に当選、2期務める。町長時代東京出張した折、東京駅に岸信介が出迎えに来ており、一流料亭で歓迎会を開いてくれて、お付で行った町役場の職員がびっくりしたエピソードが残っている。

1986(昭和61)年
町長を退いたあと社会福祉協議会の設立に参加、15年間務め、そのうち13年間は会長として社会福祉に尽くした。

1992(平成4)年8月23日
老衰のため死去、享年94歳