新聞に投稿しました
かつて勤務していた西日本新聞に投稿し8月25日の朝刊に掲載されました。「こだま」という読者の投稿欄で、週に一度「戦争ー次の世代へ伝言」のテーマで募集しています投稿して3週間やっと載りました。担当編集者は良く知った後輩記者。「没にしてもいいよ」と添え書きをしていましたが、採用してくれました。現役の時は記事が紙面に載るのは当たり前でしたが、一読者になってみると自分の記事が紙面に載るのは感激でした。初めて自分の署名記事が載った時の感激を思い出しました。


 私の母は21年前、89歳で永眠した。遺品を整理していたら「八十年の歩み」の自分史が見つかった。
 父は職業軍人で主計大佐、陸軍省経理局に勤務、機密を扱っていた。。昭和16年12月8日、日米が開戦した。年が明けて2月次女が肺炎で死亡、四月には次男を髄膜炎で相次いで愛児を失った。激務の父はお通夜にも出られなかった。失望のどん底にある母を襲ったのは夫の戦線への派遣命令だった。

 「いよいよ来るものが来た。昭和17年12月、主人が南方に出征することになった。隣組の方が千人針を作って持って来てくださった。日の丸に家族の名前を書き込み持たせた。

出征当日は見知らぬ人まで大勢が見送ってくださった。 覚悟はしていたものの主人の行く先は不明、いつ帰ってくるかもわからない。私はまだ38歳、これからどうして家を守り、子供を守って暮らせばよいのか、一生のうちでこんなに不安になったことはなかった。こんな気持ちになるのも戦争という恐ろしいことが起きたからである。軍人の妻として、覚悟はしていたつもりで、顔には出さなかったが、二,三カ月は落ち着かぬ日々が続いた」

 父親の行方は分からぬまま。東京への空襲が激しくなり昭和20年2月に母は子供二人を連れて父の実家の宮崎へ引き揚げた。終戦から半年ほどたった昭和21年1月父から東京へ帰ってきたとの知らせが届いた。
「『4月には宮崎に帰る』との便りがあり、飯野に帰ってきた。母は駅に出迎えたが「出征の時はたくさんの見送りで万歳、万歳で送られたが、敗戦になって誰一人駅への出迎えもなく,大佐の襟章も腰のサーベルも取り、裏道からこっそり我が家に帰ったわびしい気持ちは忘れることができない」

 八〇年を生き抜き一番苦しかったのは戦争の記憶で、その思いを次世代に伝えたくて、書き残したのだろう。母の遺言は「戦争は二度としてはならない」ということだった。
小冊子にして兄姉や子供、孫、親戚、知人に配った。生前親孝行はできなかったが、少しは母の苦労に報いられたのではないかと思っている。
                                                                                  (宮崎県えびの市)