ショック 我が新聞が消える

 10月13日付け西日本新聞の社告を見て愕然とした。来年3月末をもって鹿児島、宮崎で本紙およびスポーツ紙の発行を休止するというのだ。南九州撤退である。その理由としてデジタル時代にふさわしメディア企業への転換の一環として部数の少ない両県の発行を休止するという。「デジタル時代にふさわしい転換」とはよく言ったものだ。まさに紙媒体を自ら否定するものだ。取材拠点は残すという未練たらしい。

 昭和55年から3年間デスクとして宮崎総局に勤務した。ふるさとというだけでなく、思い入れの多い勤務地だった。6年半の東京勤務ののち北九州支社編集部へ異動となった。北九州は事件の多くやりがいがあった。しかし1年で北九駐在の経済担当になった。東京支社で経済担当はしたものの最も不得手な分野。北九州での取材対象はほとんど民間企業で「御社の経営は」などと取材するのは苦手だった。どうしてこんな人事になったのかわからなく、腐りきってあまり仕事に身が入らなかった。編集長が見かねて宮崎の異動を本社に働きかけてくれた。

 それで私は生き返った。北九州編集部のデスクは3人で交代制。自分の思うような紙面の企画や記者教育はできたかった。宮崎はただ一人。存分に腕が振るえるがそれだけ責任も重い。着任そうそう総局長から「総局が老朽化し近く移転新築する。それを機会に何か連載企画をやってもらいたい」とのことだった。着任のあいさつがてら以前から顔見知りだったえびの出身の県観光協会の専務理事を訪問した。宮崎は新婚旅行で観光が隆盛と思っていた。話しているうち全くの認識違いであることが分かった。今や新婚旅行は沖縄、ハワイへと移り、宮崎は時代遅れの観光地となっているということだった。「そうだこれを取り上げよう」と思い付いた。「甦れフェニックス」の長期連載でなぜ観光王国が寂れ、どうしたらかつての隆盛を取り戻せるか様々な角度から切り込んだ。幸い企画は好評でぜひ参考にしたいという声が寄せられた。
 
 これまで下関、福岡本社、北九、東京と勤務してきたが、いつも出稼ぎ気分だった。宮崎に来てなじみの地名、方言が懐かしかった。当時松形県知事はえびの出身、宮交社長は小林、宮銀は頭取はえびのと親しみが持てた。やっと足が地に着いた仕事ができる感じだった。総局は総局長以下記者6人、女性のパンチャー3人、女性の庶務、販売担当と総勢11人の体制だった。管内の支局は5か所、他社とも引けを取らなかった。前知事の汚職事件の一審判決、松尾鉱山ヒ素公害の判決、統一地方選挙、大きな事件もそっなくこなした。宮崎市在住の世界的イラストレーターを新年号に起用して他社「あっ」と言わせる大胆な紙面つくりもやった。。

新人記者2人とも付き合った。大学出たての世間知らずの若者を一人前の記者に育てるのもデスクの大切な仕事だ。自分が下関支局の新人だった時支局長が手取り足取り、ある時は厳しくある時は丁寧に記者の基本を教えてくれた。「べた記事を社会面トップにするのがデスクの腕だ」と何度か特ダネに仕立ててもらった。それと同じことを新人たちにも叩き込み、かなり厳しいでデスクだったようだ。しかし何度か社会面を特ダネで紙面を飾った。日々の地方版にも新しい企画を打ち出し心血を注いだ。総局長は新社屋新築とシンパの人脈作りで紙面はデスクに任せきり、総局夫人は料理上手で夕方になると酒の肴の差し入れで宴会となり、家庭的雰囲気だった。 部数も1万近くはあったと思う。紙面に対する反応もあった。宮日の幹部が「朝一番に見るのが西日本」と言ってると耳にした。総局長の人脈作りのお陰で総局を訪れる人も多く、情報や取材のヒントを得ることも多かった。宮崎勤務は記者生活の折り返し点で多くのことを学んだ。

平成10年に定年退職になったが、そのころから、景気の低迷による広告収入の減少、デジタル媒体による部数の減少と経営環境が悪化してきた。このため北部九州に取材網を集中させ経営の効率化、合理化を図った。平成13年には山口から完全撤退。次いで宮崎、鹿児島の南九州の支局廃止、総局の人員削減が進んだ。取材拠点が減ると部数が減る。さらに取材網を縮小するという悪循環に陥った。現在宮崎総局は、総局長と取材記者2人、支局は延岡だけ。地方版も宮崎、鹿児島の合版で1ページのみ。そしてついに来年3月末で発行休止となる。

 宮崎総局長を務め販売局長を経験した先輩は「南九州撤退とは、恐れ入ったやり方ですね。おそらく残存部数を他社販売店に預けた結果、ほとんど無くなってしまったのでしょう」と経営のまずさを指摘する。鹿児島出身で副社長を務めた後輩は「今の経営者は「武士のやせ我慢」の言葉を知らない。140年間、先輩諸氏が築いてきた歴史をいとも簡単に捨て去ります。わが故郷に、新聞がいかないとはーーーー言葉がありません。無念さとはずかしさ。「上が馬鹿だから」で済む話ではありません」と痛烈に批判する.

 昭和37年入社以来新聞つくりに携わり、定年になって一読者として読み続けてきた西日本新聞。来年3月から読めなくなるとは・・・ショックである。