えびの地震の思い出〜あれから50年(018’2、21)

 えびの地震は昭和43年2月21日午前8時51分M5.7、震度5に続き、午前10時44分にはM6.1、最大震度6の本震に襲われた。当時えびの町は昭和41年11月に飯野、加久藤、京町の3町が合併(45年12月に市制を施行)したばかりだった。霧島連山の麓を震源とした本震、余震は半年前から3月末まで続いた。京町を中心に負傷者35人、罹災所帯3477、罹災者13639、家屋の全壊451、半壊896など家屋の被害4,944、その他鉄道、道路、田畑の陥没、山崩れなど被害総額は64億5千5百万円にのぼった。

 当時、私は西日本新聞に入社して7年目、社会部に配属になって2年目だった。わが故郷の大地震にぜひ取材に行かせてくれと志願した。本社から写真記者と私、途中から熊本総局から一人記者が加わった。まだ高速道路はなく、八代ー人吉ーえびの間は雪で通行止めの箇所があり水俣周りで余震が続く中、現地入りした。宮崎総局からは総局長以下4人が現地入りしており、えびの通信員を加えた8人の取材陣だった。通信員宅を取材本部に、国民宿舎「矢岳荘」(現在コスモス)を宿泊地とした。道路には大きな亀裂か入り、田畑は陥没して、家は倒壊して、避難者は公民館などの避難所のほか雪が積もった畑の中のビニールハウスに布団などを持ち込み避難していた。半年ばかりの地震続きで疲労したのかみんな元気失っていた。

 地震被害の取材は初めてであり、どこから手を付けてよいかわからなかった。どんな原稿を書いたか忘れたが「出稼ぎ地帯で男手なし 復興遅れる」と社会面のトップを飾った一本だけは覚えている。時は高度成長時代で建設ラッシュ、農閑期で働き手の男たちはほとんど都会に出稼ぎに、残っているのは老人と女子供だけ。崩れた家をただ茫然と眺めているだけ。ここに育ったものだけが書けるレポートだったかもしれない。
 
 傾いた通信員宅の取材本部で記事を書いていると時折余震が来る。「ご〜」と地鳴りがしてぐらっと来る。あわててストーブを消して外に飛び出す。そんなことの繰り返しだった。当時の町長は中間俊範さん。現地のマイクロバスで陣頭指揮。ところが全くの鹿児島弁で、記者が質問しても答えの言葉かわからない。そこは地の者の強味で通訳を買って出た。この中間町長は私の父親を破って当選して2期目。私に向かって「おはんげ、おやっどんが、ひっちゃれたから、わいがこげんくろすど(あんたの親父が落選したものだから、私がこんな苦労をしている」というのである。私はノーコメントだった。

 失敗もあった。本社から空撮のためヘリを飛ばした。現地で河原に降りて記者は地上の取材もはじめた。そこにちょうど私が通りががったので「地上で取材中と本社に連絡してくれ」と頼まれた。近くの家で電話を借りたが、当時はダイヤルでなく申し込み方式。混んでいてなかなつながらない。そのうち疲れが出てついウトウトと寝込んでしまった。その間本社とヘリが連絡が取れず、ヘリが不明になったと大騒動になったらしかった。あとで大目玉を食った。

 宿舎の「矢岳荘」で思い出すのは務めていた女性が初恋の人の友達。初恋の人とは高校2年後輩で大学時代2年ほど文通で付き合っていた。ふとしたことから文通が途絶えて音信不通になっていた。その友達が「彼女は結婚した」と耳打ちした。自分も結婚して、半年前に子供も生まれていたのにショックで、しばし呆然として被災地をさまよい、しばらく仕事にならなかった。ふるさとで味わった青春のほろ苦い思いだった。

 「矢岳荘」は3,4日して地震による被害か水道が出なくなった。食事や入浴ができなく、それならと飯野の我が家を宿舎にと提案して、大勢で押しかけて大広間で雑魚寝をした。両親はびっくりしたことだろう。それでも大勢の食事を作ってくれた。その後2,3日で余震も収まり、本社へ引き揚げたが、その時泊まった記者たちからは後々まで「あの時はお世話になった」と言われた。母親はお寺の婦人部会長をしており、被災者への炊き出しをしていた。そのことを地方版のに写真入りで書いた。それがせめてものお礼だった。

 50年たった今、様々な思い出がよみがえる。えびの市内には被害の痕跡は全くない。京町駅横にひび割れた半円形に「えびの地震記念碑」と刻まれいる。市の郷土資料館では「えびの地震の記録」という写真展をしている。


    

 京町駅前にある「えびの地震記念碑」    郷土資料館で開かれている「えびの地震の記録」写真展