ベトナム戦争は、1960年代初頭から1975年4月30日までベトナムの地で繰り広げられた南ベトナムと
北ベトナムの武力衝突をいう。しかし、戦争の実体は南を支援したアメリカと北を支援したソ連・中国との
国の威信をかけた政治戦略的な戦争といえる。
 米国はケネディ、ジョンソン、ニクソンと3代の大統領が関与、1,500億ドルの巨費とピーク時には年間
54万人の軍人を派遣した。結果的には来たベトナムの勝利に終わり、アメリカ軍は撤退を余儀なくされた。
この戦争にはアメリカからの経済援助と引き換えに韓国、タイ、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン
から兵士が送り込まれた。日本は平和憲法の趣旨を守り、派兵こそしなかったが沖縄、厚木などの基地が
アメリカ軍の後方支援の重要な役割を果たした。今回のイラクへの自衛隊派遣は憲法の歯止めがかからず、
時代の変化といえ大きな違いだ

1975年4月30日、北ベトナム軍の戦車を先頭に兵士たちが南ベトナム大統領官邸に攻め込み、屋上に
北ベトナムの国旗を掲げた。ニュースで何度も見た光景である。いまも当時の戦車のレプリカが置いてある。

大統領の執務室

屋上にはヘリポートがある。

今の統一会堂は南ベトナム政府の大統領官邸として使われていた。上階は大統領の執務室や家族の住まい、
地下は秘密の軍事施設だった。現在は観光客に一般公開されている。豪華な貴賓室、ビリヤードのある娯楽室、
映画室、屋上のヘリポートなどを見学することができる。

ベトコンのトンネル基地

この戦争の特徴は戦いの前線が存在しなかったことだ。南ベトナム解放戦線(ベトコン)のゲリラ戦が南ベトナム領地のあちこちで発生した。
その戦いの拠点となったのがベトコンのトンネル基地だ。ホーチミンから75キロ離れたCU CHI(クチ)に大規模なトンネル基地が設けられていた。
現在は観光客に開放されている。


トンネル基地は熱帯樹がが生い茂る中にあった。ここに地下3層のトンネルを掘り
その総延長は2000メートルにもなる。人がかがんでやっと通れる通路が網の目のように
張り巡らされ、作戦室、食堂、病院、兵士たちの住居があり、ここにひそんで、敵を待ち
伏せし、落とし穴のわなを仕掛けたり、短時間の攻撃を仕掛けてはさっと引き上げる
戦略でアメリカ兵を悩ました。アメリカの近代戦争と真っ向から戦ったのでは勝ち目
がないと地の利を生かした戦いはベトコンの知恵であった。

トンネルの入り口はこんなに狭い。この地下に巨大な
基地があるとは想像もつかない。

部屋と部屋は狭い通路で結ばれている。換気口や
排煙口等も設けられており、広い居住空間もある。

おみやげ屋も地下にあり、ベトコン服や戦闘帽など当時の
ものを似せた物を売っていた。

この戦争の犠牲者はアメリカ軍だけでも5万8千人以上。
南北ベトナム人民は200万人に近いといわれる。
トンネル基地の近くに南ベトナム人の犠牲者を祭るお寺があった。
本堂の壁にぎっしり犠牲者の名前が刻まれていた。

戦争博物館

統一会堂の近く、ボーバンタン通りに面して建っている。実際に使われていたヘリコプター、戦車、爆弾などが中庭に置かれている。
館内にはソンミ村の虐殺をはじめ、戦争下に行われたさまざまな残虐行為の写真が展示されている。世界的に有名な写真も多い。
また、枯葉剤の影響を受けた異常胎児がホルマリンにつけられたものなど、見るのがつらいものもある。戦争の恐ろしさについて
深く考えさせられるところだ。

アメリカ軍が置き去りにしたさまざまな兵器。

ベトナム戦争では報道の自由が確保されたことが特徴として挙げられる。このためカメラマンなどの報道関係者はどこへも自由に行け、
ヘリにも便乗できた。その結果大勢のカメラマンが活躍、戦争の実態を世界に知らせた。しかし命を落としたカメラマンも大勢いた。
こうしたことは当局にとっては都合の悪いこともあり、湾岸戦争ではアメリカ連合軍が報道関係者をシャットアウト。イラク戦争の取材では
完全に軍の管理下におかれた。これはベトナム戦争の教訓といわれる。
写真が訴える力は強い。一枚の写真が戦争の悲惨さや残酷さを後世に伝えている。世界的に有名な写真が多数展示されており、
かつての両特派員にとっては感慨深いものがあったのだろう。展示の前に長時間たたずんでいた。

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