意見書

                        串間市原発阻止JA青年部連絡
                              会長 山下 芳数

 私たちは、平成8年11月の串間市長選挙において、山下茂氏に選挙協力を求められ
、同氏と「九州電力が串間原発立地計画を断念するなどいかなる場合でも当選後一年以
内に必ず住民投票を実施する」と言う誓約書を交わしました。しかし、市長選挙に当選
した山下氏は、選挙公約でもあったその約束を破りました。私たちには、山下氏との誓
約書をもとに多くの市民に投票を呼びかけた責任があります。多くの市民とともに串間
で生きていかなければならない私たちにとって、耐えがたいできごとでした。以下、今
回の提訴にあたり、その理由を述べます。
 私たちは、安くて安全で、消費者に喜ばれる農畜産物を生産・供給することを職業と
しております。
 そんな私たちの住む串間市に、原子力発電所立地の話が持ち上がったのは6年前のこ
とでした。その平成4年11月の串間市長選挙に於いて、山下茂氏は、原発立地は住民
投票で決めると公約し、当選されました。その当時の私たちは、まだ原発問題には、あ
まり関心をもっていませんでした。そんな私たちでしたが、一本のビデオテ−プがきっ
かけとなり、次第に勉強するようになり、原発問題への関心も高まってきました。学習
していくうちに、命を育む農業と放射能を生み出す原発とは共存できないと言う結論に
いたり、立地には反対することになりました。そして、串間の原発問題はどうなってい
くのだろうか、ということで、市議会の傍聴にも行くようになりました。
 この時の議会の構成は、推進議員が多く、また、当選した山下市長も、白紙透明の中
立を主張し続けたため、だんだんと推進側有利に事は運んでいきました。そして迎えた
平成5年9月議会、適地可能性調査要請決議と住民投票条例という相反するふたつの議
決がなされました。このままでは原発はできてしまうと、傍聴に来ていた誰もが危機感
を抱き、いまこそ皆で力を合わせなければ・・・・ということで串間市原発阻止JA青年部
連絡協議会を結成し、いろいろな活動をしてきました。
 この間、私たちの運動の対象は、九州電力であり、議会であり、市長でもありました
。そして、これは、平成7年4月の市議会議員選挙で、定数23人中JA推薦の10人
全員と、共産党議員を含む11人の反対議員を確保した後もしばらくは続きました。
が、しかし、市議選を境に徐々に反対派の勢力が大きくなり元気が出てきて、九電の串
間進出やPA(コマ−シャル)活動を、一企業のすることと野放しにしている山下市長
は推進派呼ばわりされるようになりました。平成7年9月に結成した反原発連絡協議会
は、山下市長に対して一日も早い住民投票の実施を迫りました。すると山下市長は、任
期内の住民投票の実施を匂わせるようになりました。
 そうした中、次の市長選挙を一年後に控えた平成7年12月、九電の突然の串間凍結
発表、それを知った野辺前市長が原発賛成による立候補表明をするなかで、反対表明を
せざるを得なかった山下市長でしたが、それでもまわりは、派閥争いのなかでの苦し紛
れの反対表明であると、その反応は厳しいものでした。
 そして迎えた平成7年12月29日、我々の親組織である原発立地阻止JA連絡協議
会での山下氏推薦の協議。朝8時より青年連協の役員他20数名が集まり、山下氏を推
薦するのか、真の反対派候補を擁立すべきかについて、時間ぎりぎりの12時30分過
ぎまで協議し、1時からの会合のなかで、青年部が強力に山下氏支持を打ち出し、信用
できない、選挙対策だ、第三の候補を擁立すべきだ、という意見を押しのけ、山下氏推
薦の方針がうちだされました。
 準組合員までいれると4000人を越す組織の推薦をとりつけた山下氏優位で迎えた
平成8年の前半がしずかにすぎました。しかし、投票まで後4ヶ月と迫った7月の末開
かれた野辺氏の後援会結成式。凍結表明したはずの九電幹部の挨拶、大手ゼネコンの介
入する積極的な選挙運動と、万全の体制で望んだ野辺陣営の前に、山下優位の情勢は完
全に逆転しました。過去六期連続一期交代という激しい串間の派閥争いなど、山下陣営
には危機感が積もるも、その差は開くばかりと思われました。最後の切り札として住民
投票実施を自らほのめかすも、市民の反応は冷静で大勢はあまり変わりませんでした。
というのは、前回の市長選に於いても住民投票の実施を公約したにも係わらず実施しな
かったためです。
 万策つきた山下市長は、わらをもすがるおもいで私たち青年連協に会談を申し入れて
きました。一晩の話し合いのなかで山下氏から市民への説得を頼まれるも、私達自身が
納得できず、市長の強い要望により、一日置いてまた話し合うことになり、二晩の話し
合いの末、同席した山下市長は、住民投票を当選後一年以内に必ず実施するからと約束
したので、私達も総力を挙げて支援することになりました。それでも私達が市民を説得
するのに力が弱く困ったときに結んだのが、本件の「誓約書」でした。
 なお二回の話し合いを設定し同席した反原発議員懇談会の河野義英議員が、この「誓
約書」を仲介しました。また、河野義英氏は、平成7年12月にJA青年部が山下氏支
持を決めた時にも山下氏を支持するように助言し、さらには市長選挙の際は、後援会事
務所を中心になって運営していました。
 これを機に、私たちの自信に満ちた説得に賛同する市民も次第に増えてくるようにな
りました。市長選挙告示二週間前からは、独自に街宣車を出し、甘藷貯蔵時期の一年で
一番忙しい時期にもかかわらず、反原発・住民投票実施を訴え続け山下茂氏を支援しま
した。そして、串間反原発連絡協議会の推薦もぎりぎりの告示一週間前になって、山下
茂氏ではなく私達青年連協を信じてください、氏の一筆をとってありますから、と云う
ことで取り付けた次第です。これが追い風となり、推進派有利で進んだ市長選挙におい
て、1500票差の大差で当選することができました。
 この時、誰もが住民投票の実現を確信し、私たちも勝利の余韻に浸る間もなく、住民
投票に向けての準備に追われました。平成9年1月、市長選挙で山下氏を推薦した反原
発の14団体で住民投票対策本部をつくることとなり、私達は、敷地の整備から立ち上
げ等を引き受け、また私が事務局長としてその中枢を担うことになり、市内外からの7
00万円を超す多額のカンパや支援を受けて着々とその準備をしているうち、3月議会
も開会され、予定通り住民投票関連の予算が提案され、一般質問も始まった3月11日
、今度は九電の白紙再検討が文書により報告されました。
 これを境に、事態は大きく動き始めました。原発推進派の議員4名が住民投票予算案
を予備費に組み替える修正案を提案してきたのです。私たちは山下茂市長の誓約書を信
じ、また反原発議員が11人いることでもあるし、一部重なるもの14人の議員が市長
派閥に属しているので、よもや修正案が議会で可決されることはないだろうと思いまし
たが、山下派を含む各議員にお願いし、山下派の推進議員(谷口安美氏・田中勝氏)か
らも市長の提案が通らないという口約束までとって、万全を期しました。
 しかし、3月21日、3月議会最終日、住民投票の予算案は「無記名投票」で修正可
決され、予備費に組み替えられてしまいました。傍聴していた私たちは、唖然とし、何
を信じてよいのか分からなくなりました。後に、修正案の理由の一つが、九電が白紙再
検討を市長に申し入れた際、市長が「これで串間は25カ所の候補地からはずれた」と
発言したことだったことを知りました。一方、九電は、その時「串間は最重要地区から
は外れたが、25カ所の候補地の一つ」と発言しています。
 私たちは市長に対してすぐにも「再議」を行うよう求めました。九電が白紙・再検討
で狙った運動の沈静化・住民投票の回避は頓挫しそうな状況でした。すると九電は今度
は3月25日に当時の鎌田副社長(現社長)が、マスコミの「白紙・再検討は断念とい
う意味ですか」という質問に対し「そううけとってもらってけっこう」と発言し、「再
議」の動きを牽制してきました。
 翌26日早朝、山下市長から私に電話がかっかてきました。これから東京に行き、九
電の鎌田副社長と会ってくるというのです。私は一緒に連れて行ってくれと頼みました
が、断られました。そこで、会談の内容を必ず文書で確認してくるように頼んだところ
、山下市長は「分かった」と答えました。しかし、東京から帰って来た市長は「九電の
完全撤退を確認した。再議については熟慮検討中」と言っただけで、九電との文書は持
ち帰って来ませんでした。
 私たちは、田植えで一番忙しい時期にもかかわらず、再三市役所を訪ね、協議して「
再議」を行うように迫りました。しかし3月31日、市長はついに対策本部の仲間数百
人とともに市役所に集まった私たちに対して、「再議」はしないと表明しました。私た
ちはこの時、文書による九電の断念の確約書を市長・九電・反原発住民の三者で結ぶよ
う求めましたが、今に至るまで、実行されていません。
 私たちは、市長が「投票せずして究極の目的を達成し、反原発が勝利した」と勝手な
解釈をしたので納得がいかず、説明のための会談の場を持つよう求めました。しかし、
市長は、一度も会おうとはしません。一度は市の企画調整課長から呼び出され、その山
内課長を通じて、会いたいからそのうち連絡するということでしたが、その連絡も今に
至るまでありません。また九電の株主総会が終わるまで待ってくれとか、三者会談の後
にしてくれとか、引き延ばされ続けました。ついには、9月議会で「市民の間に住民投
票の実施について温度差があるから青年部とは会えない」と答弁しました。
 そうした中で私たちは、「住民投票の即時実施を求める署名」を寒い中必死で集めま
した。署名をしてくれた市民からは「住民投票は選挙公約だから必ず実施してほしい」
「市長が約束を守らないのでは、子供に約束を守れとは言えない」「投票を実施しない
のであれば、市長はみずから辞めるべきだ」「市長が誓約書の約束を守らないのなら、
市役所が出す文書は全部信用できない」などの厳しい言葉を聞きました。
 署名は、12月15日には有権者の過半数以上1万人を越え、翌16日に市長のもと
に持って行きました。しかし市長からは一般質問前で忙しいので17日に10分間会う
と言われました。翌日昼に市長室を訪れたのですが、市長に会えたのは2分間だけで、
それも市民の声をお聞きしますという返答だけで誠意あるものではありませんでした。
 私たちは、今、怒りの気持ちで一杯です。一体何のための選挙だったのでしょうか。
山下市長にとっては、公約とは、選挙に当選するための単なる手段に過ぎなかったので
す。
 しかし、私たちは、山下茂個人ではなく、住民投票を実施する人を推薦し投票したの
です。山下氏が自ら住民投票を実施するというから、山下氏の当選のために運動したの
です。
 山下氏にすれば、市長になってしまえば、市民との約束は関係ないことなのでしょう
が、私たちにとっては、市長を信じて「山下氏は信用できない」という市民に頭を下げ
投票をお願いしました。そのお互いの思いはかけがえのないものです。市民に投票を呼
びかけた私たちには重大な責任があります。このまま串間市民の思いが無視され、踏み
にじられたままでは、今後の市民の生活に大きな禍根を残します。
 憲法に保証された市民の選挙権はそんなに軽いものではありません。
 公正な判断をよろしくお願いします。