このファイルは、1992年11月に行われた出直し串間市長選挙の模様を中心に
翌年1月発行の「草の根通信」第242号(松下竜一氏発行)に発表したものです。
                             文責;河野 宰 

      なんで串間が

     1992年は原発問題に明け暮れた。
     わが串間市(宮崎県)に原子力発電所建設の計画があることを知ったのは、2月28日頃の新聞であった。ま
    さしく「寝耳に水」の驚きだった。
     たしかに串間市は、これといった産業もなく、過疎にあえぐ町である。市制がしかれた1953年には4万人
    以上いた人口も、わずか40年間で2万6千人にまで減ってしまっている。しかし、野生馬いななく都井岬があ
    り、文化ザルと呼ばれる猿の住む幸島があり、とにかく自然に恵まれた、住み良い町である。そんな串間に、原
    子力発電所をというのである。
     立地のための調査を、という名目であるにせよ、そんなことを許し、ましてや原子力発電所が現実のものにな
    ってしまえば、ますます串間の若者は串間を見捨てて、過疎化を推し進めてしまうだろう。絶対に、この原子力
    発電所は作らせてはいけないし、そのための調査もやらせてはならないのだ。
     この原発問題に一番早く反応し、反対をとなえたのは、「婦人団体連合会」だった。農協婦人部や新婦人の会
    等でつくられている「婦人団体連合会」が、当時の市長や九電等に反対の申し入れをしたのが最初だった。(註
    ;農協婦人部は、後になって一時この反対の中から離れていってしまうが、1997年4月現在では反対派の中
    で一番頼もしい団体である。)

      わが地区が候補地

     一方、原子力発電所予定地と名指しされた本城地区はどうだったか。個々の反対の声はあったものの、市民レ
    ベルでの反対派の団体ができたのは、新聞発表から4ヶ月後の6月のことである。串間市がおこなう原発推進論
    者による講演会に危機感を持ちながらも、なかなか「原発反対」の声をあげる人がいなかったし、私自身もその
    勇気を持ち得なかった。保守勢力の強い土地柄ということもあり、「原発反対」をいうと、冗談でなく村八分に
    なりそうな気がしたのだ。それに、言い訳になるけれど、私は現職の中学校のPTA会長をつとめていて、それ
    ゆえの遠慮もあった。
    「誰かが原発反対ののろしをあげてくれれば、それにのっかるのに・・・・」などと、逃げの言い訳を考えてば
    かりいた。
     だがしかし、誰も声に出して「原発反対」を言う人は、わが本城地区にはいない。いや一人だけいた。本城地
    区からでている共産党の来(らい)市会議員である。彼のみが市議会等で原発反対を訴えていた。とにかく、彼
    以外に声をあげる者はいなかった。原子力発電所立地予定地の本城地区に、反対する団体が一つもない・・・・
    これではいくら串間市の町の中心部や、市外県外からの反対の声があがっても、シャレにならないではないか。
    やっぱり自分が言い出しっぺにならんといかんかなあ・・・・と思い詰めたはてに一大奮起をすることにした。
     前々から「原子力発電所は作らしたらいかんぞ」と話をしていた隣人で塾経営者の栗林先生のところに話を持
    っていき、一緒にやってくれそうな人を捜すことから始まった。
    「いきなり反対じゃまずいから、原子力発電所の勉強会からやっていこう。それの人集めからじゃ」
    「あの人とあの人だったら大丈夫だろう」などなど・・・。
    で、6月にまず最初の勉強会をすることにした。
     その時の参加者は5人。農業高校の指導員をされている三浦先生。7年前、都会から来て無農薬ミカンの栽培
    に取り組んでいる吉田さん。ケースワーカーをしながらUターンして、現在はハウス金柑づくりに取り組む国府
    さん(彼はまた、小学校のPTA会長でもある)。それに先ほどの塾の先生栗林さんと私。とりあえず、この5
    人でスタートになった。会の名を「本城の明日を考える会」と定めた。なぜ会の名前に原発の文字がないかとい
    うと、もちろん原発には反対なのだが、その過疎の進む串間市の、その中でも一番過疎化が激しい本城地区の村
    おこしも同時に見据えていかなければならない、と言う全員の考えによるものなのだ。
     余談になるが、串間市は先にも述べたように、、1953年に市制が施行されたのだが、それまでは福島町、
    大束村、都井村、市木村、それに本城村の1町4ヶ村に分かれていた。そう言った町村合併のためか、各地区毎
    の対抗意識が時折見られる。私が本城地区にこだわるのも、そのせいである。とにかく会の名前と形はできた。
    だができたと言うだけで、まだまだ小さく、影響力もまるでない。それでも連絡先だけははっきりさせないとい
    けないので、事務局を置き、その事務局長を栗林先生にお願いした。理由は、塾の経営なので昼間自由に動ける
    という、ただそれだけの理由によっている。
     あとは、代表者も何もおかない。勉強会も毎回座長を決め、その座長が問題を提起していく形にした。それで
    テーマも「川内原発視察について」「原子力発電とは・・・」から始まって、「串間市の過疎化と国の農業政策
    の変遷」などなど、ときには焼酎を飲みながらあれこれと学習を深めていったのである。

      会場に溢れて

     「本城の明日を考える会」(以下、「本城の会」と略す)が何回かの勉強会や飲ん方を続けていくうちに、一
    方、串間市全体では反原発のセンターみたいなものが作られていった。旧地区労系労働組合で組織する「原発い
    らない串間市民の会」「串間の自然を愛する会」「串間原水協」「新婦人の会」「串間市民ネットワーク」「被
    爆者の会」「原発を考える福島の会」それに社会党、共産党などの政党が構成団体で、もちろん「本城の会」も
    これに参加する。同時に、それぞれの会独自に、あるいは共同で反原発講演会を開催したり、資金集めにとテレ
    ホンカードを販売したりと、活動の幅も広がっていった。
     その一環として、「本城の会」でも初めて本城地区で反原発講演会行うことにした。市民会議が招いた藤田祐
    幸先生の講演会である。日時は10月17日。場所は本城支所の婦人室。藤田先生は串間市内各地区で講演をし
    ていただき、その最後が「本城の会」である。翌日には「県民会議」主催の反原発3千人集会が予定されている
    。今まで内々での学習はかさねてきたものの、このような一般を対象とした講演会は始めてである。さらには、
    この講演会が「本城の会」の実質的な旗揚げにもなるのだ。
     自分たちの地区で後援会をやると決めたのはいいが、準備は遅々として進まない。案内のビラも本城地区のお
    よそ950戸の家に配布しなければならない。だいたい何人来てくれるかも解らないのだ。「本城の会」の5人
    の間では、「20人、いや30人も来てくれれば成功だなあ」という話が大勢をしめていた。だから会場も50
    人入れば満員となる小さな会場しか借りていなかった。
     この2、30人という数字の根拠は、9月に行われた全市的な反原発講演会ですら、150人くらいしか集ま
    っていなかったことに基づく。本城地区の人口はおよそ2500人。市全体の10分の1である。30人集まる
    かさえ、疑問だった。それに呼び込みの宣伝カーも走らせなければならない。第一宣伝カーがないのだ。無理す
    れば市職労の自動車を借りられないこともないのだが、あくまでも「本城の会」の自力でやりたかった。そこで
    思いついたのが、吉田さんの出荷用のホロ付き2トントラックである。団地などに野菜などを売りに来るトラッ
    クを連想していただけるといい。それに小さな拡声器がついているので、それを利用することにした。
     とにかく、呼び込みの方法は、全戸配布のチラシとホロ付き2トントラックの宣伝カーのみである。これが全
    てで、あとは知人に電話をかけまくるのみ。会の5人は気が気ではなかった。ところがいざ開幕となると、びっ
    くりした。会場が満杯になってしまったのである。狭い会場に詰めるだけ詰めていただいても入りきれない。廊
    下で聴く人もいる。それもできずに帰っていった人もいる。その数90余人。この数字に「本城の会」のメンバ
    ー全員、すっかり勇気づけられたし、同時に責任の重さも感じたのだった。
     みんなは「原発はいかん」と思いながら、それを言い出せずにいたのだ。数ヶ月前の自分たちとまったく同じ
    なのだ。
    「これでやっと堂々と顔をあげて、本城の町を歩けるね」誰かがポツンと言った言葉は、「本城の会」の全ての
    メンバーの気持ちだった。

      突然の市長選

     その頃、降ってわいたような思いがけない事態が起きてしまった。「原発問題には白紙」と言いながら、原発
    推進、あるいは肯定者の講演ばかりを市主催の学習会として押し進めてきた野辺市長が、電算機導入汚職(50
    0万円のワイロ)で逮捕され、辞職したのだ。突然、「出直し市長選」ということになった。
     串間市は一期毎に市長が交代するという、政争の激しい町であり、この現象が7期くらいも続いている。2つ
    の大きな派閥があり、それぞれに土建業者が中心になって後押しをしている。これといった産業もない町で、土
    建業者の数は百数社を超える。自分たちの推す候補が市長に当選すれば、その任期中は安泰である。逆に落選で
    もするものなら、次に勝つまで市の発注工事の入札に、指名すらしてもらえない。だから毎回毎回、飲ませ喰わ
    せの激しい選挙になるのだ。それは串間市の活力をも失わせていく。市の職員とて例外でなく、市長交代と同時
    に報復人事が行われる。市長派と反市長派が生まれているのである。
     そういった状況の中での「出直し市長選挙」にいち早く立候補を表明したのが、元市長の山下氏である。彼自
    身は辞職した野辺前市長よりももっと保守的であり、原発問題についても「無色透明の白紙」だという。ところ
    が彼を推薦している商工会議所や漁協は、原発誘致推進派なのだ。第一、原発問題が起きてから9ヶ月、その間
    に原発について態度を表明できないような不勉強な人に市長は任せられない。市民会議でも、原発にはっきり「
    否」と言える人、派閥市政をなくせる人を市長選挙に立候補させ闘うことにした。

      かつてないスタイルで

     10月24日、市民会議を市長選挙を戦うための政治団体「原発に頼らない、清潔な串間をつくる明るい会」
    (以下「明るい会」)に移行し、統一候補擁立へ向け調整のための幹部会が開かれた。ここで共産党から一人と
    「串間の自然を愛する会」から一人と、二人の立候補の申し出があり、一応、後者推薦の川崎永伯氏でまとまっ
    た。ところが旧地区労系労組の「原発いらない串間市民の会」から、「あと二日待って欲しい」推薦したい人が
    いるのだが、本人がまだ決意していないのでという申し入れがあり、待つことになった。だが、2日後の28日
    にも結果的には推薦できず、川崎市を統一候補とすることになるのだが、結局、市民の会は選挙戦の最後まで「
    明るい会」には参加せずじまいだった。
     彼らの言い分では「1,000万円はかかる選挙資金をどうするのか」「組織が決定をしていないから」と言
    うのだが、もともと川崎市を推して選挙する気はなかったみたいである。串間市内最大の労働組合の市職自体が
    派閥市政の中にガッチリと組み込まれている現実から、こうなるのであろう。ただはっきりと解ったことは、「
    明るい会」は組織らしい組織を持たず、選挙資金も全てカンパ等に頼るという、串間市では今までになかったス
    タイルで闘うということである。

      看板もボランティアが

     串間市は大きく5つの地区に分かれる。本城地区もその一つで、有権者はおよそ2500人。ここで過半数を
    とらなければ負けである。だがもともと元市長の山下氏の強い地盤である。おまけに「明るい会」の推す川崎候
    補は、3年前東京から帰ってきたばかりの人で、森林組合長などをしているとはいえ無名に近い。「原発いらな
    い市民の会」が二の足をふむのはよくわかる。だが、どうにかしなければならない。
     何はともあれ、皆が集まる場所から確保しなければならない。どうせなら目立つところがいい。ということで
    本城地区のど真ん中に、本城地区選対事務所をつくってしまった。正面に「明るい会」の看板を大きくたてた。
    これは目立った。ところでこの看板だが、本城地区の看板をはじめ、本部の看板も全て、日南市の方がボランテ
    ィアで描いて下さった。
     もうこれで後へは引けなくなってしまった。「やるしかないな」というのが皆の決意である。
     ところが、思わぬ事態が発生してしまった。「本城の会」のメンバー二人が、選対本部事務所の方へ引き抜か
    れてしまったのである。事務局長の栗林さんと、吉田さんである。これには困った。残りのメンバー3人で本城
    選対を切り盛りしていかなければならなくなった。それでも動けば何とかなるものである。選挙期間中も含め、
    近所のおばちゃんたちが、入れ替わり立ち替わり事務所の登板をしてくれたのである。選挙の前、あるいは期間
    中には、様々なことがあった。とてもここには報告しきれない。とにかく選挙なんて初めての連中が手探りでや
    るのである。松下竜一センセにも選挙直前に「本城の会」に手弁当で講演に来ていただいたが、さすがにこのし
    ろうと選挙には心細いものを感じたようで、「こんな人数で大丈夫ですか」と言われた。そう思われたのも無理
    のないことで、11月15日の松下センセの講演会に主催者として動いた4人が、実質的な選挙の実働部隊だっ
    た。松下センセが我が家に泊まった翌朝も、私は一人で各戸のビラ入れに早朝から抜け出さねばならなかった。

      200対1200

     いよいよ11月21日、市長選挙告示。午前9時、JR串間駅前で川崎候補の第一声。参加者200人。とこ
    ろがほぼ同時刻に行われた山下候補の出陣式には1200人が集まったとのこと。これは業者を使った動員の数
    である。「行きたくなかったけど、行かんと仕事我もらえんから・・・」と言う声を、よく聞いた。
     さてわが本城選対の方はと言えば、完全におばちゃんたちの独壇場。支持拡大、電話作戦、炊き出し等々。も
    のすごく積極的に働いてもらえる。
    「都会に行っちょる子供たちから電話がきてね、どげんしてん原発つくらすんなて」と、話してくれる。
    「原発だけはつくらせてはならん」そういう思いが、みんなを突き動かしているのだ。「負けるものか」と、闘
    志が湧く。
     こうした反原発のうねりに、山下陣営もついに反原発を口に出さざるを得なくなってしまう。
     曰く、「原発は基本的には反対の方向です」「原発投票では、必ず住民投票を行わせます」(いづれも山下陣
    営のビラ)
     「無色透明の白紙」ではもう、収まりがつかなくなってしまったのである。
     選挙の結果は、7200票対9200票で川崎候補が負けてしまった。本当に残念でならない。だが、選挙に
    は負けたが、原発を作らせない運動としてはけっしてマイナスにはなってないと確信する。いや、マイナスにな
    っていないどころか、運動としては前進したと見ていいのではないだろうか。新しい市長になった山下氏は、「
    明るい会」との交渉の中で、はっきりと住民投票を約束したし、PA事業は行わないと明言している。あとは私
    たちが闘いの力をゆるめず、最後まで闘い抜くことにかかっているのだ。長い反原発運動は、まだ始まったばか
    りである。


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