被災地での活動記録(1995.8.31 県の水道技術研修会での報告から)

 阪神・淡路大震災より7カ月以上が経ちましたが、時折報道される現地の様子はまだまだ傷痕を多く残していると言う感じです。我々日向市の水道課の職員はほんの短い期間でしたが、自治体の派遣職員として被災地で約3週間にわたって給水支援の活動を行ってきました。今回は派遣に至るまでのこと、現地での実際の支援活動の内容、その活動を通じて学んだことなどを中心に報告したいと思います。

 1月17日の早朝に当初兵庫県南部地震と呼ばれた大きな地震が発生し、時間が経つにつれて被害状況が克明に報道されるに従い、その被害の規模が想像を越えた大きなものであることが明らかになってきました。道路は寸断され、水道・電気・ガス等のライフラインも壊滅状態になり、また大規模な火災が発生しているにもかかわらず消火栓が使えないことで対応が進まないと言う状況は、皆さんも報道等で良くご存じの事だと思います。そんな中17日の夕方には、横浜、北九州などの政令指定都市の水道局から給水支援に向かう様子がテレビで紹介されていました。翌18日の午前中には県を通して厚生省からの支援依頼もあり本格的な検討に入った訳ですが、このような状況では誰もが自分たちに出来ることは何かと考えるのはごく自然なことで、我々も被災地までの距離はあるものの支援の手立てはないものかと検討をした結果、給水タンク車による給水支援が可能であると言うことになり、その旨を提案したわけです。また日向と神戸はカーフェリーの航路として繋がりが深いと言うことも即断された一つの要因でした。それらのことを踏まえて、資料の中の「兵庫県南部地震に関する支援について」のような内容で派遣が決定しました。同じように地震で水道に大きな被害を受けた釧路や八戸の例からしても、水道がおおまかに復旧するまでには1週間から10日程度は最低でもかかりますので、どうせやるのなら少しでも早いほうが良いと言うことで、当初は18日の夜に出発と言う計画が大筋で決まっていたのですが、その時点で現地の受け入れ体制の確認がとれないと言うことで待ったがかかり、出発が1日延期されました。結果的にはその1日を使って最低の生活は出来る程度の物資の準備をすることが出来たので、活動が予定より長期化したと言う面から考えれば良かったと言えます。ただ18日に行きそびれたので出発式をするはめになったのが誤算でしたが!

 すでに地震の影響により神戸港は使えない状態でしたので、フェリーは大阪南港に20日の11時に接岸しました。実は到着直前に受け入れ先である尼崎の阪神水道企業団の猪名川浄水場にこれから向かう旨の連絡をしたところ、実際の配属は神戸だと聞かされ直接行ってもいいですよと言われたのですが、神戸はまったく頭にありませんでしたので、とりあえず尼崎に立ち寄って場所を確認することにしました。大阪から尼崎までの区間は比較的スムーズに走れたので昼過ぎには到着することができました。浄水場で場所や経路、交通事情などの説明を受け、直ちに受け入れ先の奥平野浄水場に向かって出発したのですが、尼崎から2号線は交通規制になっており最初は割合スムーズに走れたものの西宮の手前から緊急車両や物資運搬車両の渋滞の列の中に飲み込まれてしまいました。西宮に入ると渋滞の程度はますます激しくなり、車はほとんど動かない状態となりました。片側2車線の中に車の列が目一杯連なっている訳ですが、消防、警察、自衛隊などがサイレンを鳴らしながらその間を割り込んで進んで行くという状態ですから、混雑はひどくなるばかりです。結局西宮5.5キロを通過するまでに5時間、芦屋の2.5キロを2時間かかって通り抜けたことになります。車の中から見た沿線の家屋の様子は、尼崎からすでに木造家屋の瓦が落ちているところがあり、西宮の半ばを過ぎるころからはほとんどの木造家屋が倒壊しており、改めて地震のすごさを思い知らされました。昼の短い冬場のことですから西宮を抜けるころには薄暗くなり、芦屋を走っているうちに真っ暗になってしまいました。依然止まったり動いたりの連続ですから、車自体にも影響が出ていて窓を開けるとクラッチの焼けた匂いが鼻につきます。尼崎ではあわてていたので昼食も取らずに走っていた訳ですが、いい加減渋滞にも慣れてきたところで道端で売っていたオニギリを買って食べたり、人気のない路地裏を探して用を足したり、運転しないほうは時々車から降りて歩いたりと気分転換までする始末でした。神戸に入ると幾分車の流れも良くなって来て目的地が近づいてきたことを実感していましたが、車のライトで浮かび上がる通りに面したビルの中には道路側に向かって傾いているものもあり、震度7の恐ろしさを感じたところです。2号線から離れると車は少ないものの舗装の痛みや壊れた家の瓦礫で満足に通れないところも出て来て、おまけに街中が停電しているのでゴーストタウンを思わせるような雰囲気です。目的地の奥平野浄水場は元町から山手に上ったところにあります。ようやくたどり着いて責任者に説明を受けていたら、ここは神戸市の受け入れ窓口に過ぎず、これからまだ西の垂水区に行ってくださいと言われて正直なところ腰が抜けそうになってしまいました。夜のうちに水を積み込んでおいた方が良いとのことでしたので、早速積み込みをしてもらったのですが、後にこれがタンク車にとって致命的な結果となります。奥平野浄水場から垂水区の水道局垂水センターまで約1時間くらいの行程ですが、途中源義経が活躍した一の谷の合戦でも有名な鵯越を越えることになります。ただでさえクラッチが痛んだ車に水を満載にして急勾配を上る訳ですから、クラッチが痛まないはずもなく坂を上り終えたころには少し滑るような挙動も感じていました。とにもかくにも大阪南港から約12時間近くをかけてセンターに到着したのが夜の10時半ですから、疲労もピークに達しておりすぐに宿舎を教えてもらってそちらに向かいました。ちょうどその日から支援団体の宿舎が神戸市の厚生施設である「舞子ビラ」になったと言うことで、うれしいことに初日から布団に寝れることになりました。ただここも電気以外は全てアウトですので、顔を洗う水はポリタンクに入れて自分で持ってあがる始末です。到着早々余震の洗礼を受けました。

 我々が配属になった垂水センターは、神戸市の西部、垂水区と西区を管轄しています。区域的にはかなり広かったのですが、西区の方は復旧も早くて活動の中心は垂水区のほうになりました。垂水区、西区とも震度7に襲われた中心部に較べると目で見える被害はそれほどでもなかったのですが、ライフラインが他の地区と同様あちらこちらで寸断されているため市民生活には大変困っている様子でした。1月21日の早朝少し緊張した面持ちで垂水センターに向かい、担当者に挨拶をすませセンターで用意した朝食の弁当を食べたあと、8時前には小学校の給水所に出向き拠点給水を開始しました。最後列がわからないほどの行列を作って住民の方が待っており、我々もあわてて準備にとりかかり次から次へと入れ替わる容器に給水していきます。地震から数日が経って幾分落ち着きを取り戻していたせいかトラブルもなく作業は進み、3.5トンの水もあっと言う間になくなってしまいます。そこから給水車への補給ポイントに向かうわけですが、まだ道路事情が悪くてすぐに渋滞になってしまいます。それに神戸は海沿い以外はほとんど坂の上ですから、依然としてクラッチには負担がかかっており午後にはクラッチの滑り具合が激しくなり、満載すると動くのがやっとと言う状態になってしまったので、修理工場に連絡を取ってもらいクラッチ板の取り替えをお願いすることにしました。頼んだ修理工場がせっかく遠いところから来てくれてるからと休み返上で修理してくれることになりほっとしたところです。初日は拠点給水で終えたのですが、2日目は給水車がないので他の自治体の手伝いをしようと思っていたところ、折しもセンターの職員が支援団体の案内や修理工事の立ち会いそれに電話の応対などで手が足りないということで、配水池での給水車への水の積み込みをやってほしいと言われ、終日その業務に携わることになりました。タンクが空になった車が次から次へと来るので配水池からの水をエンジンポンプで加圧しながら入れていきます。合間合間に他所の自治体の派遣職員とも話が出来てここでの経験も貴重なものとなりました。東から現地入りした自治体の職員は、口々に渋滞のひどさを語っていましたが、中には自衛隊の輸送機に給水車ごと乗せられて来たと言う自治体もおりましたが、名古屋の小牧基地に降りてからが時間がかかったと言ってました。車は1日で修理が終わり次の日からは給水業務に戻る予定でしたが、どうしてもう1日補給の業務をやってほしいとのことになり、結局本来の業務に戻ったのは24日からのことでした。それからは拠点給水とたまに受水槽への補給をする内容的には単純な作業の連続となりましたが、給水に来た人、ボランティア、他の自治体の職員など多くの人と言葉を交わし、それぞれの思いが胸に焼き付く日々となりました。前にも言ったように給水関係の支援活動はいかに早く決定して早い時期に現地での活動を始めるかが重要になりますが、その点北九州市等が早く来れたのは、ひとつには政令指定都市間での結び付きが深く実際17日の午前中には各都市に神戸市から支援依頼が来ていたと聞きます。北九州の場合は、それから派遣を決定し、翌日未明には現地到着、仮眠をとった後に早朝から給水活動を行ったとのことでした。地震発生の翌日ですから、給水量のことなどでいくらかトラブルもあったようですが、被害の規模の割りには被災者は落ち着いていたのではないかと北九州の職員は話してました。垂水センターには、その時点で九州からは北九州、福岡、熊本が入っており朝などは競い合うように7時過ぎには宿舎を出てしまうので、我々も負けないように早起きしてセンターに向かう毎日が続きました。

 関西には九州出身者や宮崎出身者がたくさんいらっしゃいますから、宮崎や日向の文字を見て懐かしそうに話しかけて来る人もおり、中には涙ぐむ方もいらっしゃったようです。拠点給水を行う学校は避難所にもなっていますから、作業の合間に避難されてる方とも話をすることが出来ましたが、それぞれ親戚や友人から来るように言われているけど、なかなか神戸を離れる決心がつかないと言ってましたね。ある中学校では断水で授業がありませんから、先生たちが積極的に給水活動の手伝いをしてくれました。高台にあるその学校から東を見ると須磨浦公園の展望台のある山が見えるのですが、一人の若い先生が「あの山から向こうとこちらでは街の様子が全然違うんですよ。」と教えてくれました。山の向こうは長田区の焼け跡があるのです。神戸が燃えていた日、山のこちら側にも大量の灰が降って来たそうです。灘区から通っている先生は、地震当日まだ交通規制もなく道路脇が燃えている中を学校までたどり着いたと語っていました。それぞれに家族や親戚、友人の誰かが大きな被災を受けた人も多かったようです。ある程度毎日の業務に慣れてくると給水車の振り分けを担当する職員の頭をわずらわすのも気の毒なので、決まったコースを自分たちで選択して行くようになりました。1度だけ団地を間違って入ってしまい気がついたときには、見つけた住民の方たちが集まってきており断ることもできず人波が途切れるのを待って、逃げるように脱出したこともあります。活動を始めた当初は、一人当たりの給水量も10リットルまでとか細かく決めていたようですが、せっかく20リットルのポリタンクを抱えてくれば満タンにしてやりたいのが人情と言うもので、これも考え方を変えれば急いで何度も往復すればそれだけ多くの水を供給できるし、何カ所も行くことができると考え給水口に工夫をして時間短縮に努めることもやりました。実際朝早くから長い行列を作っているのを目の当たりにすると、そう考えるものです。

 現地での生活は、覚悟はしていたものの実際に体験してみると色々と不自由もありましたが、準備していった物資のおかげで苦痛になると言うほどのことはありませんでした。食事は三度ともセンターで弁当が用意されており、炊き出しに来ている女子職員がみそ汁やスープなどを作ってくれました。ただ関西の薄味には慣れていなかったし、水自体が六甲のおいしい水ではなくて阪神水道企業団からの受水ですので、淀川の鼻をつくような代物ですから、お世辞にもおいしいとは言えませんでした。でも寒い時期でもありましたから、その心遣いと言うのはうれしく感じたものです。連日朝は7時くらいに宿舎を出て、夕方6時前後には帰って来ると言う生活でしたので、結構夜は暇なのですが、テレビを見ても被災地の情報ばかりでこれもずっと見ていると気が滅入って来ますので、現地入りした3日目くらいからは部屋の水道も出るようになったので、同僚と二人カセットコンロでお湯を沸かして風呂の真似事などもやってみました。根気よく沸かしても水が冷たいせいもあってせいぜい足首くらいまでしか溜めることができず、入浴と言うよりは行水と言った雰囲気でしたね。断水が解消された区域では銭湯が再開されたところもあったのですが、待ち時間が長く中では時間を制限しているので断念したところです。もう時効だと思いますので話しますが、公式には派遣期間中は風呂には入らなかったことになっているのですが、同僚が風呂好きだったせいもあって姫路まで車を借りて風呂に入りに行きました。最初は加古川に健康ランドがあると聞いたのでそちらに行ってみたのですが、同じことを考えている人も多くてガードマンが交通整理をするほどの大混雑でした。何でも一人当たりの持ち時間が30分で、洗い場では常時10人くらいがそれぞれの蛇口のところに並んで待っていると言うことでした。せっかく遠出してゆっくり入れないのも癪なので、姫路の健康ランドまで足を延ばしてみたらここは空いていたので久々に風呂を思う存分楽しむことができました。現地から日向とは報告もあって連絡を取り合っていたのですが、数日して宮崎市が入ったとの話を聞きました。西部センターに配属になったとのことで、聞いて見たところ宿舎は須磨区で割りと近いところでしたので勤務が終わって挨拶がてら遊びに行って見たのですが、公会堂みたいなところの会議室に寝起きされてる様子でした。ただここは暖房とシャワーがあると言うことだったので、暖房と風呂はないものの畳に布団の我々の宿舎とどっちが良いか考えてしまいました。それにしても日向を出てから10日も経っていなかったのに宮崎の人に会うことがとてもうれしかったですね。現地に入ってしばらくは震度3から4くらいの余震もたびたびあったのですが、夜中などは昼間の疲れか熟睡していて二人とも震度3くらいでは目も覚めない状態でした。明くる日に他の人から余震の話を聞いてびっくりするような始末です。

 現地での通信については、出発前からどのようにするか検討はしたのですが、極端に回線状態の悪いときでしたから、相互連絡は難しいと言うことで定期的な電話とFAXによる報告をすることにして、もし使えれば使うということで携帯無線を持って行きました。実際困ったのは給水地点からセンターに連絡するときでセンターの電話は早朝から夜まで苦情等の電話で占有されっぱなしの状態でしたから、場所の移動などで連絡が取りたくても話中で取れないと言うことが多かったようです。これについては別の回線を教えてもらって解決しましたが、それでもいちいち公衆電話を探さなくてはならないので、携帯電話の重要性は感じましたね。実際北九州や福岡の職員は、それぞれ車両毎に携帯電話を持っていて連絡を取り合いながら作業を進めていました。防災無線の場合は親局が被災した場合は子局同士の通信となりエリア的にも制限されることになります。今回の地震では市役所も被害を受け、その中でも水道局本庁が入っているフロアは完全に押し潰されて指揮系統にかなり影響が出たと言うことも聞いております。結局後発の職員に携帯電話を持って来てもらって緊急時の通信には備えることができるようになりましたが、以上のことから言えるのは日頃から非常時の通信手段については特に配慮し、通常の電話回線については業務連絡用の別回線を持つことも重要ですし、リアルタイムで情報を発信するために携帯電話の必要性も実感したところです。

 今回は決められたエリアの中で、毎日がほとんど同じような活動と言うことで被災地の全体像やそれぞれの現場の様子は、残念ながらわずかしか見ることはできませんでしたが、少なくとも我々が拠点にしていたセンターでの地元の職員の頑張っている姿は、今でも目に焼き付いています。朝から晩まで引っ切りなしにかかってくる苦情の電話に応対し、支援団体を給水所に案内し、漏水箇所を確認しほとんどの人達が泊まり込みの24時間体制で仕事に当たっていました。なかには自宅に被害を受けた人もいて精神的に辛かったと思います。結局我々は、遠くから行ったと言うだけでもちろん作業ではクタクタにはなりましたが、彼らの苦労を考えれば置かれた環境をどうこう言うことはできません。折しも現地入りして3日くらい経って奥平野浄水場の配水の担当者が企業団からの受水がなかなか復旧しないのを苦にして自殺すると言う事件も起こったりして、そんな中でも手を休める事なく仕事をする姿が印象的でした。水道局に限らずあらゆる分野で最前線にいる担当の職員は、本当に大変なんだと思います。そんなふうに頑張っている最中に、対応やその結果に対して非難を浴びせるのはとても悲しいことだと思いました。2月の上旬になると垂水センター管内では復旧も順調に進み、途中2月中旬まで延期を依頼されていた活動も復旧に目処が立ったところで遠いところから順次帰ってもらうと言うことになり、予定の途中ではありましたが、引き上げることになりました。短い期間ではありましたが、職員一人一人が被災地の実態や現場で働く職員の姿を見ることにより、想定だけでは到底できない多くのことを学んだと思います。自分たちの地元が同じような被害を受けた場合にどのように対応していくのかと言うことに対しても、指揮系統や受入体制、緊急連絡網、修理体制等に今回の経験が少なからず生かせるだろうと言うことは言うまでもないことです。先日資料のことでセンターに電話をして見たのですが、現在では仮設住宅のことや他人の土地に給水管が埋設されていたのが地震を契機に分かったとかの問題で、その整理に追われているとのことでした。なんだか焦点の定まらない報告になってしまいましたが、現地での活動のほんの一部でもご理解いただけたら幸いです。