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道東の国から

 1978年の北の旅は、えりも岬でいきなり食中毒と言う劇的な展開で始まった。苦しい始まりではあったが、その後は順調に予定をこなし帯広から釧路を経て、友人Wに勧められた根室・落石の「ほおずきの宿」に到着したのは、7月の下旬のことだった。一泊2食で2500円程度だったと思うが、男女だけが部屋を別にしての雑魚寝形式の旅の宿であった。口コミで集まる客は、誰もがユニークなキャラクターを持っている。宿主はハチさん、いつも頭にタオルでハチマキをしているから、そう呼ばれているのだと言う。その頃はまだ20代後半で独身だった。夏の混み合う時期だけ、何人かの若者にスタッフとして手伝ってもらって宿の営んでいると話していた。 さすがに勧められたところだけあって、人と人とのふれあいがおもしろい。夜は誰とはなく寄付を募って、集まった金で酒を買って車座で遅くまで飲んでばかりいた。滞在は3日ほどで、それから後ろ髪を引かれる思いを抱きながらも、スケジュールにおされて泣く泣く出発した。予定通り尾だい沼でキャンプを張ったのだが、膝の痛みを口実に「ほおずき」に戻ることにした。「ほおずき」は、ちょうどその頃から客も増えて忙しくなる時期だったので、その夏のスタッフを捜しているところであった。結局声をかけられてスタッフを引き受けたのだが、同行した友人Sとは別行動をすることになり申し訳ないことをした。

 その年の夏のスタッフは、私の他に東京のヤスくんと大阪のマルさん、それに後日静岡のタマちゃんが加わって、ハチさん共々5人体制で受け入れを行うことになった。スタッフはアルバイトではなく、寝食の見返りに働くと言うスタイルだったので、無報酬ではあったが、お金には換えられない貴重な体験が出来た。1日につきタバコ1箱を支給と言う条件の中で、タバコはエコーと主張するハチさんにせめてセブンスターにして欲しいと主張する私とヤスくんだったが、結局セブンスターを2日に1箱と言うことに落ちついた。話がまとまるとすぐに、千歳の叔父のところに預けてあった荷物を取りに出かけたが、さすがに北海道は広い。夜行で行って夜行で帰るだけで2日も費やした。

 客からスタッフに変わると、これがなかなかハードである。朝食の用意で早起きをしなければならない。片づけをして旅人を見送ると掃除や洗濯が待っている。天気が良い日は布団干しもしなければならない。釧路から根室にかけての海岸沿いは、やたらと霧の発生するところで、晴天の方が珍しいため布団や洗濯物が外に干せる機会は貴重だったのだ。霧が出ると灯台の方から霧笛が聞こえていた。午後は販売用の革細工を作ったり、夕食の準備でアッと言う間に夜を迎えていた。客が夕食や風呂を済ませると、やっとのことで自分たちが風呂に入れる。その後はお決まりのよう寄付を募っての宴会だ。スタッフは後片付けもあるから最後までつきあわなければならない。ハイシーズンには、お開きが毎晩午前2時や3時となり、それが何日も続くのだ。この頃何が一番楽しみかと言うと、昼寝だった。根室に買い出しに行ったときに、眠りほうけて買い物のメモと乗車券を間違えて車掌さんに渡したことがあった。停留所で起こされて慌てていたのだ。

 スタッフとして1ヶ月あまり手伝っていると、なんだかんだと技術が身に付くものである。厨房では、主に炊飯と目玉焼きそれにキャベツの千切りを担当していたのだが、キャベツの千切りは恐ろしいほどの速さで出来るようになっていた。北海道というとジンギスカンもポピュラーな存在である。ある日ハチさんが突然庭でジンギスカンをやると言い出した。久しぶりにまとまった肉が食えると喜んだが、タレに問題があった。醤油にギョウジャニンニクを漬け込んだハチさん特製のタレだったのだ。ただのニンニクより更に強烈な臭いを発するため、ジンギスカンであろうとも食が全然進まない。仕事を失敗するといつも怒鳴られていたが、この時はあまり食べないので怒鳴られた。

 おもしろいキャラクターが寄せ集めになっているようなところなので、みんなで話しているだけで楽しいのだが、イベントも良くやったものだ。世代的にフォークソングを引きずっている連中が多かったせいもあって、週1くらいのペースでギターを弾きながら歌うフォークの集いを行った。地元の仮装盆踊り大会にも出場したし、弁当を持ってハイキングにも出かけた。スタッフはもちろんのこと、客の中にもたくさん友人が出来て、今でも連絡を取り合っている。中には客としてやってきて、そのまま近所で昆布取りのバイトをしながら遊びに来る連中もいた。長くつきあうとお互いの思い入れを大きくなり、いつまでも友人としてつき合えるものだ。若い男女が集うところでもあるから、当然幾多の恋も芽生えていた。応援するつもりが出しゃばりすぎて潰したことも何度かあったけど、旅先の恋愛は続けていくのは難しいらしい。

 8月も終わりに近くなると、母から電話があって強く帰省を促された。気が付くと北海道に入って40日、「ほおずきの宿」でも1ヶ月以上が経過していた。既に身も心もどっぷりとその生活に漬かっていたので、帰ることすらあまり考えないようにしていたような気がする。永遠にそこにいるわけにもいかないので、思い切って帰る決心をしたが、別れの朝のつらさは想像以上のものであった。根室本線が近くを通っているので、走る列車の車窓からこちらに手を振っている仲間たちが見えるのだ。いつまでも手を振る姿に涙が止まらず、長い間うつむいたままでいた。久しぶりに霧のない晴れた日のことだった。

 落石の「ほおずきの宿」は、今はもう存在しない。元々建物が古い貸家であったこともあるが、後にハチさんは美瑛に新しい「ほおずき」を建てて、家族で経営しているとのことである。十勝岳の麓、美瑛の森の中の美しい建物だそうだ。落石と言えば、「北の国から」の蛍が不倫相手の医師と駆け落ち同然に流れてきたところでもある。ドラマの中の懐かしい落石の風景は、厳しい冬のさなかに凍っているように見えた。 

(00/6/15)