評論の広場


 ここには評論の広場とある様にデカルト思考とパスカル思考に関しては勿論の事、これらについて各方面の 評論を目についたものから紹介して見ました。先ずは手直にあるおじいちゃんのものから始めましょう。
 重複をさける為今まで最近の主なものを列挙してみますと、リンクした”医用画像情報(MII)学会”の中に2編あります。MIIについての中に”学会30年を思う”とMII特集記事の中の”研究のために”です。どうぞ参考にして下さい。
  初めの一文は阪大医短閉校記念誌”待兼山から山田丘へ”の寄稿文です。一般の人にとっては単なる一短大の閉校ですが、技師学校から共に苦労して来たおじいちゃんにとっては断腸の思いが数々ある学校の終焉です。敢えて掲載しました。 

技師学校、短期大学、そして大学

内田  勝

 昭和27年西岡教授の愛情によって始められた大阪大学の技師学校は、立入教授の叡知によって育てられ昭和44年事実上その足跡を絶った。卒業生約300名、いまや各方面で活躍していることは衆知である。これらの事実を母体として立入院長の綿密な計画のもとに創立された看護・衛生技術を含む短期大学は本年3月発展的に閉学、4年制大学へと脱皮した。

 技師学校は昭和27年から昭和44年、短期大学は昭和42年から平成8年(昭和71年)、技師学校開校から短期大学閉学まで44年の長きに亙っている。希望は多くの人々によって語り継がれ、限りなく業績が積み重ねられ今日に至ったことは慶びに耐えない。

 閉校記念誌発刊に際し、短大創設時の様子等筆者の日誌を元に書き記して見たい。始めに技師学校閉校式における教務主任の挨拶の一部を述べて短大放射線学科の基礎に技師学校が存在したことを思い出して戴きたい。

 『前略。御覧のようにX線技師学校の歴史は、貧困と苦難の連続でありました。しかし貧家より孝子出づの譬えの通り、学生はよく団結して教務を助け教務また学生を信じ、教務学生一体となって共に喜び、ある時は共に怒り、共に泣いて17年の歴史を綴って参りました。今や300名近い卒業生は各方面で活躍し、後に続くであろう後輩の為に席を暖めております。大阪大学医学部付属診療エックス線技師学校はここに、その任を全うし、一つの小さな永遠の歴史を閉じることを宣言しまして、校事報告を終わりたいと存じます。』

 この挨拶の通り技師学校は小さな家族的な雰囲気を持ったいい学校であったが、西岡教授の創立の理念は当初から短期大学であったことでわかる様に常に短大昇格への夢が語り継がれていた。

 昭和41年12月25・26・27日と白浜で学校へ新入の講師(今川、津堅)の歓迎会を兼ねて忘年会中、立入校長から電話で急遽召喚された。27日午後1時から院長室で立入院長及び各学校担当者で協議中、文部省から帰阪した本部法規掛長、医学部教務厚生掛長の報告を聞いて愕然とした。文部省の通達は短大教授・助教授の人事を1月10日までにきめて提出するようにというものであった。

 正直のところ大学当局も色を失ったことと思う。翌28日から人事に走り回ったことはいうまでもない。分担は次の通りであった。

                                                               担当者
  教養                    教授5    助教授5      内田教務主任
  放射線学科           教授3    助教授3      内田教務主任
  看護学科                    教授5    助教授5      水野教授 
  衛生技術学科                教授3    助教授3           山村教授

 文部省指定の1月16日までに全書類を整えねばならない。実際の所背筋が寒くなる暇も無く弾丸の如く人事に突入した。28日は官庁の御用納めである。皆休暇に入る。依頼を受けた部局の長の方々は事態の切迫を理解され、正月を挟んだこの難しい時に八方に連絡または面会の上、次々と候補者をきめて戴いた。電話の鳴る度に祈るような気持ちであった。今川・津堅・木村の諸氏も不平一つ言わず、指令一下どこへでも飛んでくれた。手続き書類は年末年始なので直接持参の方法をとった。図書1万1千冊のリスト作りは旭屋書店に一任した。教官の確定数3のまま暗い気持ちで31日家路に就く。

 1月元旦雨である。今川・津堅・木村の諸氏は休んでもらった。私は到底家にいる気がしない。例年通り登校、1年・2年教室に夫れ夫れ独り言の新年挨拶、所信表明である。教室は生けるもののようにうなずき、拍手し共鳴してくれた。叡山ホテルに静養中の熊谷教授に電話して工学部関係の人事を依頼し、暖かな励ましの言葉を戴いたことは忘れない。2日、3日、4日、5日と無我夢中の内に日は過ぎて行く。その間、入れたり出したり変えたり、目まぐるしい変転は考えられない程であった。7日10:00からの設置委員会で殆ど決まったのは教養・放射線学科だけであった。10日締め切りに遅れること1日、11日に教養・放射線学科の教授・助教授の全人事及び非常勤講師の人選も全部完了した。この厳しい仕事を成し遂げられたのは多くの人々の好意と尽力の賜物であるが、核となった学校スタッフ達の情熱と若さに負うところが多いことを声を大にして誇りたい。

 この短時日の期間としては資格のある頭数だけ揃えるのに精一杯であった。初めての医療短大とはどのようなものか、その実態も認識してない人々で構成された陣容は実際発足してから当分混乱は避けられまいと一抹の危惧を抱いたのは筆者だけではない。2月9日大学教員資格審査委員会の結果が判明した。教養・3学科共大部分は可であったが、3学科共短大人事に駆け回った専任講師の処遇がその労に報いられておらず、気の毒なドラマが数々生じたが、これらについてはまた別の機会に譲りたい。

 技師学校は一つの放射線技師像を作った。短期大学は古い像に捕らわれない新しい放射線技師像を目指して努力して来た。短期大学が作った放射線技師像がどの様なものか部外者には掴めない。しかし、技師学校よりは広い基礎を身につけた放射線技術者がその一つの目標であったことに違いはないであろう。新旧両技師像の相関はどうであるべきかはこれらに関心をもつ全ての人々のテーマである。

 今度は大学である。将来修士課程・博士課程を設置するカリキュラムが予定されている。大学は学問の府であることに昔も今も変わりはない。文部省が診療放射線技術学という学問を認定した訳である。従ってこれからは放射線技師像が問題なのではなく、放射線技術学の更なる確立が焦眉の急と考えられるのである。今までは医学・理学・工学の寄せ木細工的な学問の集合体であったが、博士課程まで目指すからには一本立ちした深遠な放射線技術学の確立が要望されるのは当然である。他の講座においても同様と考えられる。
 以上のように古い伝統を持つ現医用工学講座は世人の期待に応えて、パイオニアとして世界をリードする位の心構えが必要である。また、言うまでもないが、現スタッフは理想的な放射線技師像を脇に見ながら、放射線技術学の究極にむけて邁進されるであろう事を期待して擱筆する。       

(元大阪大学医療技術短期大学部助教授)

 
 次ぎの”量と質”は日本放射線技術学会誌の”巻頭言”を依頼され、記述したものです。

量と質

内田 勝

  "医療情報は単なる数値データであってはならない。本書でいう情報とは血の通った人の情報である。"この言葉は最近出版された著書のあとがきに、本学会小寺編集委員長が述べた文の抜粋である。 思わず"うーん"と唸った。それは"量と質"の根本的な問題を含んでいるからである。

 よく知られているように、量的な情報理論は情報の価値を取り扱わない。友人の妻が男の子を生んだか女の子を生んだかという情報は自分の妻がどちらを生んだかという情報と全く同じビットをもつ。もちろん後者の方が自分にとってはより大きな価値があるし、はるかに重要である。この価値を扱う意味論的情報理論は可能であろう。しかし筆者の知る限り未だこのような理論は展開されていない。科学において非常に正確な量的な情報が重要な質的情報に光りを投げかける事がしばしばある。たとえば、アイソトープの質量の非常に正確な測定が質量欠損に光を投げかけ、それが原子核エネルギーの研究の端緒となった事などである。にも拘らず、情報理論はどうして情報の量を測るべきかを教えるものであり、情報の価値自身を教えるものではないのである。

 本題に戻って、このように価値(質)を定量的に測定する事は困難としても情報に何らかの質的表現を与える事は重要であろう。そこに本表題の言葉が生きて来ると思う。

  医師に貢献する医療情報として先ず浮かぶのは看護情報であろう。これこそ正に"血の通った人の情報"として直感的に認識出来る。患者個人のあらゆる情報が日常患者に接する事によって取り出され、集約整理して医師に伝達される。この集約整理能力の高さが情報の質を左右する。質の高い情報であればある程、医師診断への貢献度は高いであろう。

 最近の臨床検査データに見られるように、従来点情報であったものが点データのみならず上限・下限の正常範囲を示す事によって質を高めた情報として医師に伝達されている。

  放射線領域においては、現在は客観的な単なる数値(濃度分布)データによるフィルムが伝達されるのみである。最近のC A D の発展はこのシステムに付加価値を与える事が出来る。すなわち、濃度分布情報にC A D による正常基準値の範囲を示す事によって疾患の良・悪性のクラスを示唆する事が出来るならば、医師の診断に資する所大であろう。

 これこそ付加価値の高い情報・血の通った人の情報と言えるであろう。 ちなみに C A D は高度な学問背景をもつが、現在博士課程まで予定されている医療大学では教育・研究に十分その責めを果たす事が出来よう。将来は臨床検査技師と同様にフィルムに C A D による診断支援を添付して医師に提出するようになる事を期待する。

 量はデカルト哲学(近代合理主義)に根差し、質はパスカル哲学(近代非合理主義)に根差している。近代合理主義は量を重視すると共に普遍性を重視し、演繹的論理的・分析的・客観的・物質的・理性的である。一方近代非合理主義は質を重視すると共に個別性を重視し、帰納的実験的・総合的・主観的・精神的・心情的である。夫れ夫れ前者はニュートン・ダーウィン・マルクス、後者はキエルケゴール・ハイデッカー・サルトルなどに受け継がれ現在に至っている。医師の診断・看護婦の判断はパスカル哲学(主観的)に、臨床検査・放射線検査はデカルト哲学(客観的)に基盤を置いてる。

 この17世紀に始まり、現在まで、いや将来に亙って信奉されるであろうこの相反する哲学を、事に臨んで巧みな割合で融合させる事が諸事象は勿論、医療においても肝要であると認識するものである。

(名誉顧問)


 次は1999年3月”画像通信”に掲載された寄稿”カリキュラム”を転載します。

カリキュラム

内田 勝

  画像部会が誕生したのは昭和 5 2 年度である。筆者の初代部会長から分科会長は、山下・小寺・藤田の各氏が続いて現在に至っている。途中、画像部会から画像分科会と名称は変更になったが、画像通信は通巻 4 1 巻まで年 2 回発行が続けられている。約 2 0 年間技術の進歩は"画像通信"の内容にも大きな飛躍をもたらしている。喜ばしい限りである。"画像通信"は途中しばらく配布が絶えていたが、最近寄贈される様になったので、感謝の意をこめて一文を寄稿させて戴く次第である。

  昭和 5 2 年 5 月 2 9 日 16:30 ~ 18:30 大阪において第 1 回の画像部会が開催された。申し込み 1 6 0 名、予約 3 2 名 計 1 9 2 名の出席で大盛況であった。講演者は 山下一也・山崎 武・津田元久・佐藤孝志・田中俊夫・金森仁志・内田 勝(講演順)の各氏であった。聴衆の大拍手をもって終了した事はまだ記憶に新しい。その講演内容は

 山下一也:部会名称の問題点、今後の進め方
 山崎 武:視覚の法則
 津田元久:放射線機器と放射線像
 佐藤孝志:診療に有効なスペクトル
 田中俊夫:写真化学その問題点
 金森仁志:情報理論適用の問題点
 内田 勝:線形と非線形の接点

 約 2 0 年前の放射線画像の問題点と現在の"画像通信"の内容を比べて見ると、正に今昔の感がある。さて、本題に入ろう。

 現在、医療短大が続々と 4 年制大学へ昇格が行われている。それらを見渡して見ると、カリキュラム的に大体 2 種類に分ける事が出来る様に思う。一つは技師の金看板である"撮影"という語句をすべて削除して、これでも診療放射線技師が養成出来るのであろうかと思われる様なカリキュラムの大学である。他方は、従来の短期大学に教養を広げ、専門科目を強化したカリキュラムと受け取られ、技師教育として頷く事が出来る。

 さてどうしてこの様な事が起こったのであろうか。核心に入る前に少し準備をしておこう。

 1 7 世紀に誕生し、現在も、また将来も信奉されるであろう二大哲学がある。これらを詳述する事は筆者の任ではないし、また時間もない。ここには筆者の独断と偏見により纏めた哲学の雰囲気の比較を述べる事にする。

 デカルト哲学は演繹的論理的で、分析的・客観的・物質的・量的・理性的・普遍性重視の近代合理主義と称されるものである。一方パスカル哲学は帰納的実験的・総合的・主観的・精神的・質的・心情的・個別性重視の近代非合理主義と称されるものである。前者はニュートン・ダーウィン・マルクス・などに、後者はキェルケゴール・ハィデッカー・サルトルなどに受け継がれ現在に至っている。

 デカルトの方法序説の中に、
 "一人の建築家が請け負って完成させた建物は何人もの建築家が、別の目的の為に建てられていた古い壁を利用して改造に努めた建物より、美しく整然としているのが常である。"また"一人の設計技師が思いのままに平原に線を引いた規則的な都市は古い都市を改造して曲がりくねった不規則な街路をもつ都市には見出せない満足感を理性に与える"とも言っている。

 この様に、今までの技師学校・短期大学の伝統をすべて無視して、全く新しく診療放射線技術学をモットーとしてカリキュラムを組む方法を取った大学もある。これはデカルト的であると言えるであろう。

 それに反して、技師学校・短期大学の歴史を重視し、一般教養の強化・専門科目の高度化を目指し、それらを総合して診療放射線技術学の確立を標榜するカリキュラムの大学もある。これはパスカル哲学のカリキュラムにデカルトの考え方を補っていると考えられる。 それは徒弟制度に続いて、技師学校・短期大学は多分にパスカル的なカリキュラムと考えられていたからである。

 どちらの方法が将来、先見の明を勝ち取るであろうか。半世紀後の卒業生を見てみたいものである。
参考のために、阪大の技師養成の歴史を略記して置こう。

 昭和 2 5 年それまでパスカル的徒弟制度で教育されていた技術員は技術の習得に正に塗炭の苦しみを経験していた。昭和 2 6 年診療エックス線技師法の成立後、昭和 2 7 年故西岡教授の愛情によって初めての技師学校として国立では阪大が開設された。同時に私立ではレ専校が制度化された。今思えば全くパスカル的塾であった。その後、続々と技師学校の誕生を見たが、全て塾的規模であり、存在であった。したがって、学生は学校の特に1 ~ 2名の専任講師のキャラクターに影響されるところが大きく、それが卒業生のカラーを形作っている様に思える。

 間もなく半世紀を迎えようとしている現在、卒業生の在り方を見れば学校存在の意義を明らかに出来るであろう。技師学校は昭和 2 7 年から昭和 4 4 年まで、短期大学は昭和 4 2 年から平成 8 年(昭和 7 1 年)まで、技師学校開校から短大閉学まで 4 4 年の長きに亙っている。平成 6 年大学医学部保険学科に昇格、平成 1 0 年修士課程開設となっている。

 短期大学は技師学校の抜け殻を引きずった痕跡が多分に残ってはいたが、それでも主観的・個別性重視のパスカル的カリキュラムに客観的・普遍性重視のデカルト的考え方が導入されていたと思う。大学昇格に際しては、デカルト哲学に基づいてカリキュラムが構成されたと外部からは見える。この善し悪しは現在進行中であり、将来に待たねばならない。

 終わりに、現時点において何れの体制の大学にあっても、修士・博士課程まで予定されているカリキュラムに是非考慮して戴きたい点がある。

 それは、技師が単に数値情報(フィルムの濃度分布)のみによる医師への支援のみならず、付加価値を付けた情報の提供を考えて戴きたい事である。C A D の事である。C A D について多くを語る必要はない。高度な学問的背景をもつ分野であるが、科学の進歩は日ならずして常識化し放射線技師の自家薬籠中のものとする事が出来るであろう。近い将来にはフィルムに C A D の所見結果を添付して医師に提示する日もそう遠くではないと信ずるものである。

 "C A D をカリキュラムに"というのが筆者の願いであり、今回の寄稿の主旨である。若いこれからの人々に期待するや大なるものがあり、よろしく検討をお願いしたいのである。                 

(名誉顧問)


 平成10年11月14日MIIで行われた特別企画シンポジウム”コンピュータ支援診断(CAD)の現状と将来”と題して「CADはここまで進歩した。将来像は?」について、講演が行われました。鳥脇純一郎・遠藤登喜子・藤田広志・内田勝の4氏による興味深いシンポジュウムでした。ここには私に課せられた”CADの論理・数理と神の摂理”についての講演資料を掲載しました。これから引用した本文と重複しますが、御寛容下さい。                       

CADの論理・数理と神の摂理

内田 勝

 まず講演を受けるに至った経過をのべる。M I I 研究会で、ある時、C A Dに関して山崎先生から"1 0 0 %になるように努力して欲しい"という発言があった。その時筆者が"丁度このくらいが良い。1 0 0 % になれば医師は何をするのか"と応答し、爆笑を買った事がある。 ここに端を発して山崎先生からシンポジウムの提案があり、M I I 理事会で審議、賛成された。シンポジストの選定は山崎先生の意見及びM I I のC A D関係者の意見により決められた。本演題に関しては辞退に辞退したに拘わらず、当初から提案者の推薦である。理由は定かでないが、筆者が神話の国日向に在住しているからかと諦めて受けた次第である。

1) 神について心に浮かぶ事

 C A D の論理・数理については既に明らかであるので主に後段について考えて見たいと思う。筆者の過去の経験から神に関して心に浮かぶ事は次ぎの3点位である。

 デカルトの神・パスカルの神・幼時の母の言葉
 デカルトもパスカルも1 7 世紀 を特徴付ける 2 大哲学者である。後述するようにお互いに相反する哲学を主流とし、近代合理主義・近代非合理主義のルーツとなっている事はよく知られている。また神に関する考え方も全く相反している。デカルトは"神の存在を明証的に証明"しようとし、パスカルは"神は理性的にでなく心情的に信ずるものである"としている。従って"デカルトの神はデカルトの自主的決断から展開されたものであり、パスカルの神はパスカルに迫って決断をなさしめた"と言われている。パスカルは神に選ばれ、デカルトは神を求めたとでも言えるのであろうか。

 あの有名な"われ思う故にわれあり"の不動岩のようなデカルトに対し"揺れ動く弱々しい1本の葦"というパスカルに人間はまた諸現象は限りなく迷いを繰り返しているように思われる。
 次ぎに私事で恐縮であるが、母子家庭であった筆者の幼時、病弱な母が医師への支払いが出来ないのをみて聞いた事がある。その時母は"お医者さんは神様だよ。貧乏人からはお金を取られないんだよ"と言った。筆者は本当にそう思ったものである。戦前の話である。
 さて、"神の摂理" を辞書で見ると、"キリスト教その他の宗教で、神または聖霊が人の利益をおもんばかって世の事全てを導き治める事。神のご意志"とある。
 この事からC A D との関係を考えてみるに、真の診断というところに結論付けられよう。そこで本稿では"診断の過程"を整理したみた。勿論筆者の偏見と独断による事をお断りしておく。

2) デカルトとパスカル 2 ・ 3 の点描
彼らの哲学のもつ雰囲気は次ぎの表のようである。

       デカルト               パスカル  
     演繹的論理的          帰納的実験的
        分析的                総合的
        客観的                主観的
        物質的                精神的
         量的                  質的
        理性的                心情的
      普遍性重視           個別性重視
           ・                      ・
           ・                      ・
           ・                      ・
        ニユートン         キエルケゴール
        ダーウイン          ハイデッカー
         マルクス            サルトル
           ・                      ・
           ・                      ・
       近代合理主義        近代非合理主義
        (方法序説)            (パンセ)
 主として上述のような雰囲気であるという事であって当然お互いに入れ子になっている部分も存在する事は当然である。詳しい事は方法序説・パンセなどの精読に待つとしてここでは2 ・3 の逸話を述べるとしよう。

2 ・1) ルネ・デカルト (1596-1650)
 "われ思う故にわれあり"は余りにも有名な言葉であるが、剣での女性を賭けての決闘など余り知られていない。デカルトは終生結婚しなかったが、結婚を考えた婦人がいた。ある時デカルトは彼女を守ってパリから帰る途中、オルレアン街道で恋敵に打ってかかられた。剣術は得意であって、すぐ相手の剣を叩き落とした。そして"私がいま命を賭けたこの婦人に君は命を助けてもらったのだ。お礼を言うが良い"と言って許した。しかしデカルトはその女性への執心をもまた捨てたと言われている。

 デカルトは一度子供をもった事がある。1634年 ヘレナというオランダの女中を愛して娘を得た。しかし娘は1640年猩紅熱で死んだ。非常に悲しんで"涙や悲しみが女だけの事で、男はいつも冷静な顔を無理にせねばならないと考える者に私は属さない"と手紙するような一面もあった。

2 ・2) ブレーズ・パスカル (1623-1662)
 "1本の考える葦"・"パスカルの原理"などよく知られている。
 "クレオパトラの鼻。これがもっと低かったら、地球の全表面は変わっていたであろう"も有名である。クレオパトラの鼻という偶然が、シーザーを動かし、アントニーを虜にして世界史の進行に影響を与えたとするならば、歴史に偶然が大きく働いていて実に面白い見方である。

 1656年3月24日、パリのポール・ロワイヤルにおいて、一つの奇跡と認められる事件が起こった。キリストの荊の冠の一部と称する遺物が、ある人によってポール・ロワイヤル修道院にもち込まれ、尼僧たちはそれを安置して拝んだ。その時院に預けられていたパスカルの姪マルグリット(当時10歳)は重い涙嚢炎を病んでいたが、この聖荊を眼におしつけて快癒を祈ったところ、直ちに効があって腫れが引いたという。医者が驚いた。この事件は教会の慎重な調査の上、明らかに"奇跡"であると認められた。

2 ・3) デカルトとパスカル
 デカルトは"人間は30歳以上にもなると医者はいらない筈だ"と言っていた。自分が自分の体の医者である事が出来る筈だというのである。彼は病になってからも自分で診断を付け処方を命じていて、女王のよこした医者の言うことを拒んでいる。しかし8日目になって自分の誤診を知り手当を変えたが、もう手遅れだと知って遺言を書き取らせたと記録にある。

 自らの生を終わりまで自らの自由意志の統御の下におき、死をも自らの誤診の結果として受け入れた。いかにもデカルトらしい最後である。54歳であった。

 自らの臨終を意識したパスカルはしきりに聖体拝受を願った。秘跡を授けようと部屋にブウリエ師がはいって来て言った。"さあ秘跡の拝受です"パスカルはそれを受けるために半分ほど起き上がり恭しく拝受した。司祭が信仰の秘儀について質問すると、パスカルは"私は心からそれを信じます"と答えた。それから"神が私を決してお捨てにならないように"と言った。それが最後の言葉であった。1662年8月19日午前1時とまで分かっている。39歳2カ月であった。

 デカルト・パスカルの死後、実証科学の進歩は数学・天文学・物理学のように、比較的単純な事柄を取り扱う学問の発達に続いて18世紀の化学、19世紀の生物学、さらに社会学・心理学等などと領域を広げていった。比較的単純なものについて得た結果を、次々に一層複雑なものを解く鍵として用いて行く、正にデカルトの説いた方法の勝利であった。パスカルのように、複雑なものによって下位のものを調和させるというような方法は進歩の流れに逆行するものとして、無視されても仕方のない面もあったのである。

 しかるにデカルトの物理学説の大部分は今日に通用しないのに対して、パスカルの業績は我々に至るまで学校で学ばされている。この事からも分かるように、直線的な進歩観が前世紀末から修正され始めている現代において、パスカルが改めて見直されている点もこれからますます重要さを加える事であろう。

3) 比較整理の例
 デカルトとパスカルの哲学の雰囲気によって2、3の現象を整理してみる。
3・1) 教育
 我が国の教育の流れについて考えてみよう。昔の寺小屋式教育は例えば吉田松陰の松下村塾など明らかにパスカル的教育であると考えられる。有能な人材が輩出していると同時に一般のレベルは低い。その後教育の平等化はデカルト的に平均レベルの向上に資した。しかしそれらが偏差値教育として現在非難を浴びている。今後望まれる事は、この高い一般レベルの中にあって個性を伸ばすパスカル的教育である。ケン玉日本一を無試験入学させた私大が一時話題を賑わせた事があるが、その後の追跡報告を知りたいものである。
3・2) 撮影条件
  画像工学の中でも放射線撮影系にあっては昔から現在まで撮影条件はその基本である。 昔の徒弟制度にあっては撮影条件は名人芸に属し門外不出とされた。すなわちパスカル的教育であったが、学べば誰でもできる撮影条件とするため学校制度となり、デカルト的な教育で平均化が行われ現在に至っている。  しかし現在レベルは5点評価で言えば、一般に3点くらいの評価は得られるが、名人芸にまでは達し得ない。最近パスカルをルーツとするファジィ推論が世を風靡しているが、撮影条件にも導入され名人芸をシミュレートした撮影条件決定法が提案されている。現在レベルの中でのパスカル的名人芸の誕生は大いに歓迎する所である。
3・3) 画像評価
 画像評価はかっては個人のレベルの低いパスカル的主観評価によって行われていた。しかし近年の M T F、ウィーナースペクトルなどの定量的評価技術の誕生とともにデカルト的な客観重視の評価法として現在に至っている。最近その評価法に個人の主観的な意見の違いを重視したファジィ測度による評価法が提案されている。これまた高度の評価法として重視されるべきであろう。
3・4) 経済学・経営学
 文系大学において、経済学部と経営学部(情報)を併設する所が多い。学問の内容から経済学部はデカルト哲学に、経営学部はパスカル哲学に基礎を置くと考えられる。したがって、将来就職先の部局の在り方によって、それぞれの哲学の雰囲気を身につけた卒業生を対応させていると思われる。
 目を世界的な視野に転じてみると面白い。各国の政治的な動向にしても、このデカルト主義・パスカル主義の交替劇は世人のよく知る所である。自然科学・人文科学・社会科学はもとより、芸術に至るまでその範疇から一歩も出ない。デカルト思想は左脳的・ディジタル的・秀才的であり、パスカル思想は右脳的・アナログ的・天才的である。双方相俟って学問も文化も政治も前進を続けるものであろう。

4) コンピュータ支援診断
 まず診断のプロセスを考えてみよう。
 医師は患者の主観的主訴と技術者のデカルト的客観データとを総合して医師のパスカル的主観診断が行われる。そして神の摂理(意志)に従った真の診断を究極の理想としている。
 したがって、技術者はあくまでデカルト的な手法をもって客観的データを求める事が要請される。医師は主観的データと客観的データを総合して、己の主観によって診断を行う事が義務付けられる。 ここに医師の優れた感性による主観が神の摂理にしたがった名医を生むと考えられる。
 この診断のプロセスにおいていくつかの考えるべき問題がある。
 最近の臨床検査データ(生化学・血液学・免疫学等)を見てみよう。従来は単なる点情報であったものが現在では点情報の占める位置のみならず、基準値の上限・下限の正常範囲を示す事によって医師の主観的診断に資するところが多い。
 放射線領域においても医師の読影による診断は主観的である。従来は客観的な数値(濃度分布)データによる診断支援のみであったが、最近のC A D による支援は臨床検査におけると同様な事を思いつかせる。
 すなわち、濃度分布情報にC A D による正常基準値の範囲を示す事によって、疾患の良・悪性のクラスを示唆することが出来るならば医師の診断に資する所が大となるであろう。
 したがって、将来は臨床検査と同様にフィルムにC A D による診断支援を添付して医師に提出するようになる事が望ましい。C A D は高度な学問背景をもつが、現在博士過程まで予定されている大学では十分にその責めを果たす事が出来よう。
 "医療情報は単なる数値データであってはならない。人の血の通った情報でありたい"と言う名大小寺教授の意見に学ぶ所が多い。
 最後に、医師は徒にデータに惑わされる事なくあくまでも己が主観を信じ、感性豊かに診断に臨んで戴きたい。なぜなら、主観性は汲んでも汲んでも尽くせない泉であり、主観性によって機械に対する最終的な人間の優位性が保証されると言えるからである。
 以上、C A D と神の摂理に関して、筆者の独断と偏見による意見を終わる。

(医用画像情報学会名誉会長)

 

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