評論の広場4

内田 勝


 ”おじいちゃんの写真館3”で予告しました様に、院生のレポートを紹介し”デカルトとパスカル”が若い世代にどの様に映るかを考えて見たいと思います。おじいちゃんの先入観を入れないで読者に直に考えて頂くため、執筆者は匿名で生のレポートをお届けします。レポートのテーマは、今回の

研究のために

ーデカルト思考とパスカル思考の狭間ー

と言う講義を聞いて、身近にある問題点を比較検討して見なさい。と言うものです。
 流石に院生だけあって26名夫れ夫れしっかりした考えを持っていて感心しました。全部掲載する事は類似内容の重複、予定頁数の関係から無理なので、適当に取捨選択して載せる事にしました。尚、掲載順は無作為としました。


自衛隊

I君

 日本の自衛隊について、軍隊であるかそうでないかデカルト的・パスカル的立場から夫れ夫れ考える。
 まずデカルト的思考で自衛隊に就いて考える。デカルト的思考として客観的に考える。自衛隊は核兵器は持っていないものの、戦車や戦艦・戦闘機など陸海空の各種兵器を有している。すなわち軍事力を持った組織であるから軍隊だと考えられる。また兵器、軍事力が存在すると言うことはデカルト的思考の物質的、量的側面に一致していると考えられる。つまり、デカルト的立場では自衛隊は軍隊であると言える。近年における海外派遣や領海侵犯をした船への威嚇射撃などは、軍隊的な活動であり、自衛隊が軍隊である一例だと言える。
 一方パスカル的思考では物事を主観的にとらえる。主観的立場にあると、自衛隊は軍隊とは似ても非なるものである。まず重要な事は日本が戦争を放棄していることであり、各種兵器はあくまで防衛のための軍事力であるということである。自衛隊は救助活動や哨戒など非戦闘行為を行い、先の海外派遣や威嚇射撃もこの範囲内ととらえ、精神的・質的にとらえるパスカル的思考からすると軍隊では無いと言える。また侵略戦争は勿論の事、防衛戦争内戦など一切の実戦経験がない事は軍隊ではないと考えられる。

視覚に関する理論

H君

 全てを分析的・演繹的に考えるデカルトに対して、総合的・帰納的に考えるパスカルとの対比は人間の視覚系に関する研究の中にも見ることが出来る。現在、一般に受け入れられている視覚に関する理論は次のようなものであろう。眼は網膜上に対象の像(被験者が見ようとしている対象)を形成し、その像は視神経を伝わり網膜像を大脳に伝達する。大脳はこの網膜像をもとに画像処理を行い、人間は外界を認識出来るというものである。眼の中に像が形成されるという理論は、350年以上昔ヨハネス・ケプラーまで溯る事が出来る。
 これは、デカルト的手法による視覚の解析である。眼や視神経、大脳とそれぞれの働きを分析し、それらを組み立てる事により視覚を説明している。この理論は近年まで違和感なく受け入れられて来た。なぜなら対象と其の像との間に1対1対応があるという理論はデカルト的理論の最たる数学的分析にかなっている。この理論は投影幾何学の概念に要約され得るし、カメラや投影機のデザインにもうまく応用出来る。
 しかし、この伝統的な視覚理論にも穴は存在する。それは「脳の中の小人」理論(Gibson,1966)と呼ばれるものである。網膜像の理論は眼というものを網膜像を大脳に伝達する神経伝導路の末端にあるカメラのように考えているからである。そうであれば、そこには脳の中に座ってこの生理学的現象を見ている小人がいるはずである。その小人は勿論、自分の小さな脳に接続している小さな網膜像を持つ小さな眼を持っていなけれがならない。そうすると際限のない脳の中の小人が増えていくだけでこの理論は何も説明しない事になる。
 それに対する新しい視覚の理論にはJ.Jギブソンによる視覚理論がある。知覚活動を考えるとき、何かが視神経に沿って伝達されると仮定する必要はない。また、網膜に投影された逆さの像、あるいは一組のメッセージが脳に伝えられると信じる必要はない。視覚は単体の活動としてではなく、視覚系として考える事が出来る。脳はこの系の一部に過ぎないし、網膜入力は眼球調節作用を喚起し、網膜入力を変えていく、と言うようになっており、眼もまたこの系の一部である。そのプロセスは一方向的伝達ではなく、円環的である。眼−頭−脳−身体からなる系は、包囲光(反射し空間を満たしている光束)の構造における不変項を記録する。事象を要素毎に分解し、解析するデカルト的思考に対して、ギブソンは全体として一つの機能を得るのであって、眼や脳は機能を補い合うという、総合的な考え方により新しい視覚に対する認識を説明している。
 ギブソンは彼がアフォーダンスと名付けた理論の中でこう述べている。自然界においては、一つ一つの要素として見ると乱雑で法則性の見えないものでも、大局的に見ると明らかにそれと分かる法則を見つける事が出来る。これは、総合的・帰納的に考えるパスカル的思考であり。、自然界のようにあらゆる要素が存在する系においては、デカルト的思考では見つけだす事の出来ない法則をパスカル的に考える事で、一定の法則を得られるという事実である。
 その端的な例として、「フレーム問題」と呼ばれる例がある。今、ここに一台のロボットがいる。ある日、ロボットは部屋に時限爆弾が仕掛けられまもなく爆発する事を知る。その前に、部屋の中からバッテリーを取り出さなくてはならない。ロボットは部屋に入りバッテリーが乗っていたワゴンを取り出した。しかし、ワゴンにはバッテリーと共に時限爆弾も乗っていた。ロボットは爆発した。設計者は失敗を分析し、自分の意図したことにともなって環境におこる副次的な結果を認識する機能が必要だと考え機能を追加した。このロボットは部屋からバッテリーを取り出すという使命を与えられると、バッテリーの前まで行き推論を始めた。「ワゴンは引き出せば音がする」。「ワゴンを引き出しても部屋の色は変わらない」。「ワゴンの...」延々と推論している内に爆弾は爆発した。
 設計者はこの失敗から、目的としている行為に関係している結果と、無関係な結果との区別を出来るようにして、関係のないことを無視するようにした。そして、このロボットに同じ使命を与えた。しかしこのロボットは全然動かなかった。なぜならロボットはこれからやろうとしていることに関係のないことを見つけて、それを無視するのに必死になっていたからである。そして、部屋のどこかで爆弾が爆発した。この問題のようにデカルト的思考、パスカル的思考には得手、不得手があり、それらを組み合わせていく事により新たな問題解決の糸口が見つかると考えられる。

模型

Y君

 デカルト的思考の産物として大手メーカーの模型、パスカル的思考の産物として小規模のメーカーの模型が考えられないだろうか。
 大手メーカーのものは、対象とするものを徹底的に分析し、さらに模型として初心者でも十分組み上げられるように設計される。実際に大手メーカーのものはニッパーと接着剤さえあれば初心者でも組み立て説明書を見れば、容易に完成写真に載っているようなものが出来る。しかし、組み上げやすくするため、本来のモデルのバランスを崩しているものも多く、量を安価に生産するため目に見えないところを中空にしたりしている。
 それに対し、小規模メーカーのものは組み上げ手順の容易さを二の次にして、少しでも対象となるモデルのバランスに近付けようとする。そのため初心者では到底組み上げられないようなものになり、各パーツも精巧なものになるものが多く価格は大手のものに対し、非常に高いものになっているが、大手メーカーのものに比べ非常に質の高い模型になっている。
 しかし、上級製作者にかかれば大手メーカーのものも、大幅にバランスが修正されたりして、デカルト的なものをベースにパスカル的なものに変化させられる。また、近年の模型の生産技術は飛躍的に上昇しており、大手メーカーのものでも十分に精密なものも多く出回ってきている。そういった意味では模型業界もデカルト的思考からパスカル的思考へ変革してきているのではないかと言えないだろうか。

バイク

F君

 私は現在、国産のバイクを所有している。身近な物の中からデカルト的なものとパスカル的なものを挙げよ、との課題から、私は自動二輪業界の近代合理主義と近代非合理主義について調査を行った。
 現在、世界一のシェアを誇る国産メーカー(仮にH社とする)と、とあるイタリアのメーカー(仮にB社)が同じカテゴリーに属するバイクを生産している。H社の製品は年間数千台の販売実績を挙げている。一方、B社の製品は年間数十台程度の販売台数である。この二社の製品を比較して見た。
 まず、価格を見てみるとH社の製品はB社の製品よりも50%近く安い値段が付けられている。確かに装備品の違いはあるがこの差はそれだけで埋まるものでは無く、明らかにH社製品の価格設定が低いのである。
 H社の製品はいわゆる大量生産品である。それぞれの部品が、一番安価に生産できる場所、方法で生産され、価格を満たした部品を集めて組み立てられ生産されている。
 試しに、H社製の同じ製品を二台用意し、部品を外してそれぞれ付け替えてみると、何の違和感もなく組みつける事が出来る。したがって修理も迅速に出来る。仮に転倒してある部品を壊してしまったとしてもH社から取り寄せれば二日後には部品が手元に届き、直ぐに修復することが可能である。
 対してB社の製品はどうか、B社の製品は一台一台が熟練した職人の手によって製作されている。年間販売台数が数十台であるのは決して販売が奮わないのではなく、年間にそれ以上生産できないのである。それぞれの部品は、その道の職人の手によって製作され、それらの部品を組み立てるのもまた職人である。先ほどと同様に、同じ製品の部品を付け替えようとすると、まずすんなり付けられることは無い。それぞれの部品が、例え全く同じ製品の物だとしても、微妙に違いがあるのである。
 これがH社であったら絶対に販売されることはない。不良品として扱われてしまうのである。このため、部品を壊してしまった場合、部品が手元に届くまで数週間、やっと届いたとしても先に述べたようにそのままでは組付けられないので部品に微妙な加工を施す必要があり結果として修理に一カ月以上かかることになる。しかし、部品単体を取ると製品として劣っているように見えるが、一台の製品全体を見ると、部品の継ぎ目等、見事なまでの絶妙なバランスが取られており、その品質はH社のそれを大きく凌いでいる。
 H社製品は価格が低い分、数カ所にコストダウンの影響が見える。操縦性も癖が無く、初心者から上級者まで対応している。デザインもまた癖が無く、没個性的なデザインがされている。これは、H社の製品は大量生産品であり、万人に受け入れられるデザインと機能、そして大量生産が可能な範疇でデザインすることを求められるからである。
 対してB社製品は、各部品はコストを度外視して製作されているため、性能、質感共に高い。また、デザインに関しても、決して大量生産品では実現できないような微妙な曲線を多用したデザイナーの意志を反映したものである。操縦性は、非常に癖があり馴れるまでに時間を要するため、決して万人に受け入れられるものではない。しかし、乗りこなすことができれば、その製品の性能はH社のそれをもはるかに凌ぐのである。
 確かに、H社の製品はだれにでも購入出来、だれでも上手に乗ることができ、運転を楽しむことができる。しかし、あまりにも万人受けを狙い過ぎたためすぐに飽きがくる。常に新しい製品が出る度にそちらに乗り換えられてしまう。対して、B社の製品はどうか、決して万人向けでは無いため、広く受け入れられることは無い。しかし、それを受け入れた人の中では長くその製品に乗り続ける人が非常に多い。
 H社とB社の製品のどちらが良い製品かそれは一概に言うことはできないであろう。デカルトの見地から言えば、H社の製品はB社より優れていると言える。しかし、パスカルの見地から言えば、逆にB社の製品はH社より優れていると言えるのだから。
 ただ一つ言うならば、私を始め多くのユーザーはB社の製品に強くひかれていながらも、それを購入するに至っていないのが現状である。

監督

H君

 デカルトとパスカルの主義・主張を比較すると、デカルトが演繹的論理的・分析的・客観的・物質的・量的・理性的であるのに対し、パスカルは帰納的実験的・総合的・主観的・精神的・質的・心情的だと考えられる。
 この二人の考え方の違いを示す最も身近なサンプルとして挙げられるのが、プロ野球における阪神(元ヤクルト)野村監督と巨人長嶋監督の采配であるように思われる。この二人の采配には大きな違いがある。
 野村監督がデータを重視し、それを客観的に分析し、それに応じて先発メンバーの決定や選手交替を行うのに対して、長嶋監督は主観的・心情的な判断によって采配を振るっているように見える。即ち、野村監督がデカルト的、長嶋監督がパスカル的と言うことが出来る。
 この様に全く異なった方法でチームの指揮を取っているが、両者は90年代のセントラル・リーグでは常に優勝を争うライバルとして戦ってきた。野村監督(デカルト)が左脳的・秀才的であり、長嶋監督(パスカル)は右脳的・天才的である。両者あってこそ野球というスポーツはこれからも前進していくであろう。

政治

F君

1 はじめに
 現在の日本における重要な問題の一つに財政再建問題がある。経済対策や金融の緊急事態により国債の大量発行(巨額の財政赤字)はやむを得ない面がある。財政再建を考えるには国債費と国債発行額との差を回復する必要がある。
 極端なケースとして財政再建の目標を、社会保障費を除いた一般歳出の削減だけで達成する場合と、増税だけで達成する場合を考える。言い換えれば、政府の規模を縮小することにより歳出を減らす方法と、消費税など既存の税金を増税することで国債の発行額を減らす方法である。以下にこの二つの方法を考察する。
2 増税による方法(デカルト思考)
 99年度のケースで考えると増税だけで財政再建目標を達成しようとすると約58兆の増税が必要になる。例えばこの額を消費税だけでまかなおうとすると消費税率を約19%に引き上げる必要がある。一般歳出はそのままで、国債を発行せずに国債償還費と利払費をまかなおうとする考えは、国家予算の歳出と歳入を分析し量的に判断したものである。よってデカルト的な思考であると見なせる。
3 政府の規模を縮小する方法(パスカル思考)
 試算する条件は前章と同じとする。また、2000〜2009年度で国債残高の発散の回避を目指し、2010〜2025年度で国債残高の縮小を目指すとすると、政府の規模を縮小して一般歳出(社会保障費を除く)約32兆円のうちの87%に相当する28兆円を2025年度までに削減しなければならない。これを国家公務員数で試算すると99年度の115万人から2025年度の15万人へと100万人削減しなくてはならない計算になる。この考えは国家予算の歳出と歳入を分析した方法に対して、国家そのものを総合的に捕らえ間接的または質的に国債の発行と国債費をまかなおうとする考えである。これはパスカル的な思考であると考える。
4 まとめ
 今まで述べて来た二つの極端なケースは、これから財政再建を考える上での重要な判断材料になる。両方法に対してパスカル思考とデカルト思考の立場で事象を捕らえたが、見方を変えれば増税による方法がパスカル思考であり、政府の規模を縮小する方法がデカルト思考であるとも考えられる。これは財政再建問題という事象が複雑な要因を幾つも持ち、また多くの側面を抱えているからであろう。

教育と企業

Y君

 日本における教育社会と企業社会において、デカルト的な合法主義の思考とパルカル的な非合法主義の思考を当てはめて考えることが出来る。
 教育制度は一般的に例えば大学に入学するためには、試験を受け一定以上の得点さえ取れれば入学することが出来、又、大学へ入学してからも、授業へ出席して試験で単位を取ることが出来れば卒業は出来る。しかし、企業へ就職するためには、企業は他人と違って何か一つ飛び抜けたものを持っている人を採用しようとする。又、入社後も人と同じ事しか出来ない人は一般に言うリストラによって切り捨てられていってしまう。
 就職活動を目前とした今、今までのデカルトな社会からパスカル的な社会への転機を迎えようとしている。また自分の心の中でも、丁度そんなデカルト的な社会からパスカル的な社会を求めたいという気持ちを持つようになって来ている。
 このように世の中にはデカルト的な思考とパスカル的な思考は常にお互いが磁石のプラスとマイナスの性質を持っているようであり、どちらか一つでは成り立たず、必ずその裏側にはその逆の性質を持って存在しているようで興味深い。本題とは関係無くなってしまうが、生涯で、デカルトとパスカルが出会うような事があれば、二人は大の親友で最大のライバルになれたんだと思う。

音楽

H君

 僕はこの例として音楽の世界での「有名な曲/いい曲」について挙げて見たい。
(デカルト的思考)
 デカルト思考による「有名な曲」とは、オリコンによるCDの売上ランキングや有線のリクエストランキング・カラオケのリクエスト数など、その曲が有名な曲かどうかはユーザーがその曲に対して何らかのアクションをした結果で示される。そしてその結果は一意であり、誰が見ても同じなのである。これを纏めると以下のようになる。
  ・その曲が売れたかどうかが全てである。
  ・多くの人に知られていれば良い。
  ・基本的には時々刻々と変わるのが多い。
(パスカル的思考)
 パスカル的思考による「いい曲」とは、その人にとって心に残っているような曲である。その人にとって心に残っていればその人にとっては「いい曲」であり、それが他の人にとってどうでもいい曲だったりすることもある。これは、以下のようになる。
  ・その人によって心に残るような曲である。
  ・これによる「いい曲」とは他の人がどう言ってもいいと思えばいい曲であり、他の人にとっていい曲でもその人にとってはいい曲ではない場合もある。
  ・変わる場合もあるがそれが長いスパンで残るのが多い。
(まとめ)
 最近の世の中では「有名な曲」と言うのは出ているのだが、何時迄も残るようなと言う意味での「いい曲」と言うのは出ていない。これは曲作りにおいて「デカルト的思考」がはびこってしまっていて、パスカル的思考が減ってしまっていると思われる。

飛行機

M君

 私は航空機特に軍用機が好きですので、デカルト的思考とパスカル的思考を、軍用機開発に当てはめてみようと思います。
 第2次世界大戦までの軍用機開発は、ライト兄弟が最初に飛行機を開発した時と同様に、基本的に機体・エンジンを専門の技術者が夫れ夫れ一人で設計を行い、それを元に生産を行うと言うパスカル的な思考方法で開発が行われて来た。しかし、冷戦時代になると、米ソによる軍事競争が激しくなり、軍用機の開発においても短期間の製作期間で高性能なものを生産するため、一人の技術者で設計を行うのでなく、複数の技術者のチームによって、、客観的な又は分析的な設計を行うようになって来る。この頃に開発された軍用機は性能、能力、機体の形、翼の構成(後退翼)など比較的似通ったものになっていった。
 1980年代以降になると、CAD技術が発達することで、軍用機の開発は機体、エンジンともコンピュータ上で設計され、分析的・理性的なデカルト的な思考方法で開発されている。このため、最新鋭の戦闘機の形状は、翼、機体の構成、性能とも非常に酷似したものになっている。デカルト的思考で開発されているこれらの最新鋭の軍用機は、性能的には、以前のパスカル的思考で開発されたものと比べ、技術レベルの差を考慮に入れても高いものとなっているが、現在の軍用機技術の基礎となる技術(後退翼、エンジンなど)は、現在でも一人の技術者によるパスカル的な発想が軍用機技術の核になる可能性があると考えられる。

ラーメン

F君

 私はラーメンが大変好きである。カップラーメンを非常によく食べるし、大学から名古屋あたりまで片道50キロ車を走らせ、巷で評判のラーメンを食べに行くこともしばしばである。そういった身近でこよなく愛するラーメンに関して、デカルト的思考とパスカル的思考とはどういったものかを考えて見たいと思う。
 勝手ながら、ラーメンを大きく二つに分類すると、全国何処ででも、お湯さえあれば同じ味が食べられる「カップラーメン」と、そのお店へ行かなければその味は食べることが出来ない「ラーメン屋さんのラーメン」となる。私は、前者がデカルト的思考により生み出されたものであり、後者がパスカル的思考によるものであると思う。
 まず、カップラーメンについて考える。企業の開発部では「ホタテエキス」、「かつおエキス」、「玉ねぎエキス」などと言った、味を極限まで細分化したエキスを何百種類も抽出・開発している。新しい味のスープを開発する場合、そのイメージに合わせてこの何百というエキスをブレンドしていくのである。ブレンドしたものをお湯に溶かし、飲んで見て駄目であれば、また別の配合具合のものを作ってみる。この繰り返しによって、最終的には各エキスの配合具合が一意に決定され、それゆえに粉末スープが大量生産出来るのである。
 この開発法の特徴の一つに、色々な味のエキスが単一で存在するため、簡単に味の足し算や引き算が出来るということがある。たとえばカルビラーメンを作るためにカルビの風味を出したければ「カルビエキス」を入れれば良いのである。現実ではカルビなど入れようものならスープが脂ぎってしまい、バランスを崩しかねない。しかし、そんなことも粉末の世界では可能なのである。これは、短期間で新商品を開発するためには非常に合理的であると思う。
 この様に、カップラーメンの開発は「細分化された味のエキス」の存在からしても、その調合にしても、合理的かつ分析的であり、「単純な物から複雑な物を生成する」という理論が成り立っていると思う。最終的なバランス調整にはパスカル的な部分があると思うが、その過程のほとんどはまさに、「部分を明らかにすることによって全体を明らかにする」というデカルト的思考である。
 それに対してラーメン屋のラーメンはパスカル的であるなあと痛感するのである。そもそも、世の中に存在するあらゆる食材は、カップめん会社のように「エキス」などという単一の味にわけることなど出来ない。トンコツのうまみだけ欲しいが脂は一切要らない、などという要求は叶わないのである。つまり、一つの食材を入れるだけで、複数の条件・影響を加えることになるのである。そういった複雑さが除かれない環境から調和を生み出すことが、美味しいラーメンを作る事であり、ラーメン屋の店主はそれをやってのける。その作業は長い時間(一種類のスープを作るのに数時間かかる)と惜しみない労力(食材集めに奔走しなければならない)を必要とするため、粉末エキスの足し引きよりも遥かに非合理的である。しかしその結果、唯一無二の最高傑作を作り上げ、人々をうならせる。まさに「複雑な物によって下位の物を調和させる」パスカル的思考であると思う。
 実際、カップラーメンは、とびきり不味くも、とびきり美味しくもない平均的な味は出せる。しかし、名人芸と呼ぶにふさわしい一流ラーメン店のラーメンを追い越すどころか追いつくことすら出来ていないと思うし、これからも出来ないだろうと思う。私はそこにデカルト的思考とパスカル的思考の違いを見た。

人生

N君

 人は、その人生の中でデカルト的であったり、パスカル的であったりすると私は考える。人は生まれた時から学校に通うようになるまでは、集団で過ごす事が少なく、得る知識も様々なので、それぞれの個性が育っていく。又、物事を考える時、知識が少ない分、分析的に考える事は少ないと思われる。これらの事から、人の幼少期はパスカル的であると私は考える。
 人は学校に通うようになるに連れて、皆同じ知識を植え付けられていく。学校で同じことを学び、皆同じような判断をするようになる。色々な知識を身に付けて行くうちに人は物事を分析的に考えるようになる。また、制服を着せられることにより、個性が消され、平均的になってしまう。これらの事から、色々な知識を身に付け始めた時期に人はデカルト的であると考える。
 学校に通い、知識を身に付けた後の人は、デカルト的であり、パスカル的であると考える。その理由は、人は物事に対して今まで身に付けた知識を用いて分析する時もあれば、長年の経験による感を用いて物事を処理する時もあるからである。学校で学ぶことは皆同じ様な内容で、均一的であるが、それぞれが経験することは多様性があり、人の心は様々である。
 この様に、人はパスカル的、デカルト的な影響を受け、それぞれの部分を併せ持つようになるのだと私は考える。

オオタカの巣

K君

 2005年に愛知県瀬戸市で万博が開かれる。この会場予定地で保護動物に指定されているオオタカの巣が見つかった。結局、討議の結果自然との共存というテーマという点から大幅に会場予定地を変更せざるを得ないということが起こった。ここに、デカルト的思想とパスカル的思想が見えるように思える。
 デカルト的思想すなわち近代合理主義、それに対してパスカル的思想すなわち非合理主義としたとき、この会場予定地の変更はパスカル的思想なのではないかと思える。何故ならば、費用や手間、時間のどの面をとってもこの際特例としてオオタカの巣をほかの場所に移して当初の予定通りに進行する事は合理的であると考えられるからである。しかし、そうせず逆に会場予定地を変更するという決断を下した。
 また別の考え方も出来る。そもそも、万博の開催もオオタカを保護動物に指定した事も人間が勝手に決めたことである。それにより自らの首をしめるような結果を生んでしまった。制約を都合の良いように曲げてより良くしていくことが合理主義なのか、制約の中で窮屈ながらもより良くしていくのが合理主義なのかは微妙な事のように思える。今回の場合は後者を取ったわけだが、世論の反応やテーマ性の重要視という点(もちろんオオタカの保護という点を含めて)から考えれば、会場予定地の変更は合理的即ちデカルト的思想なのかも知れない。
 結局のところ、何に対して合理的なのか?誰のための合理性なのか?ということを考えなくてはならないと思える。そのために基準となるものが必要となるわけだが、これはおそらく個々それぞれの価値観であり社会的な道徳や常識といったものであろう。これらは流動的かつ互いに相反する面がある。そのためこのような思想や主義の違いが出て来てしまうのではないだろうか。僕自身、哲学的なデカルトやパスカルの思想をあまりよく理解してないためこのような統一性のない考えになってしまいました。 レポートとしては不十分かも知れませんが申し訳ありません。

宗教・文学・絵画など

M君

1)儒教と道教、法家思想
 中国における大きな思想背景となった儒教と道教は、相反する部分が多い。例えば、儒教の創始者である孔子は「人間のことさえよく分からないのに、鬼神のことまで議論出来ない」といい、明確に白黒の付けられない事象については語らなかったと言われる。後世、朱子は陰陽の二元論を用いて、全ての事象に対してなかば強引な形で白黒をつけた。この点に関しては合理的、演繹的であり、デカルト的な要素が見られる。
 道教では気功の鍛練、神仙の存在の肯定、神仙丹(不老長寿の薬)の合成などが行われ、目に見えない、白黒のはっきりしないものを主に扱った。(気については近年調査が行われ、証明されつつある。)神仙丹は非合理的な考えに基づいて調合されたもので、主に歴代の皇帝が愛飲したとされるが、成分に水銀が混じっていた(そのため赤神丹ともいわれた)ので、唐の玄宗を始め、多くの中毒者を出した。この点はパスカル的である。
 一方で、儒教に反対する形で現れた 法家思想では、法律を主体とした厳格な体制である(デカルト的)のに対し、儒教では「仁」を根本思想とし、「親は子のために隠し、子は親のために隠す」といった非合理性もみられる。
2)日本人と西洋人の清潔思考
 日本人には、2000年を迎えんとする現在でも、一般に「ケガレ」を嫌う呪術的信仰がみられる。近年では「抗菌」と称する商品が出回っているが、いくら除菌したところで空気中には絶えず細菌が存在しており、意識上で除菌したというイメージでしかない。また、現在でも用いられる「割り箸」は、他人の使ったものはたとえ洗ったとしても「汚れて」いて使いたくない、それならば捨ててしまおう、といった考えが潜んでいる。
 西洋人は一度使ったナイフ・フォークは洗って再び使用する。この点では、日本人は非合理的な部分があり、西洋人は合理的である。
3)日本人と西洋人の数的思考
 西洋人(とくにユダヤ系の人々)は数をもって明確に議論することを好む。例えば、日本人ならば「今日は暑いですね」と言うところを、彼らは「今日は摂氏40度の暑さだ」と言う。この点デカルト的である。また、日本人はわからないことがあると「不思議ですねえ」と逃げるが、西洋人はその点を深く考え、答えを出そうとする。元来、不思議=不可思議という、中国伝来の数の単位であるが、日本人はそれを単位としてではなく、意味として捉えてしまっている。
4)枕草子と源氏物語
 平安時代の代表的な宮廷文学作品である枕草子と源氏物語は、それぞれ「をかし」「あはれ」の文学といわれる。具体的には、枕草子では、「うつくしきもの。云々」となっていて、短い文章で列挙する、いわば理系のレポートのような文章であり、多くの物事に対しバッサリと切り捨てるところがある。この点がデカルト的である。それに対し、源氏物語では主語の省略が多く、文章も長めであり、冗長と思われる部分も少なくない。物語の主眼は人物の動きにおかれており、人物名なども架空名義である。この点はパスカル的な要素が感じられる。
5)絵画における古典主義と浪漫主義
 西洋ではフランス革命期において、「ギリシャ・ローマの芸術は最高のもの」と考える新古典主義と、それに反発し、人間の感性を重視するロマン主義が台頭した。前者の代表格であるダビッドは、素描に重点をおき、大きな作品を描くときには数的に正確な拡大図を複写して用いたという。また、後者の代表であるドラクロアは、むしろ色彩に重点をおき、青とオレンジに代表されるような補色の関係を用いて作品を製作した。古典を創作の源とするダビッドは、演繹的、つまりデカルト的であり、ドラクロアは感性重視と言う点でパスカル的である。
 後の印象派に影響を与えたのは後者であった。絵画の世界では、早くからパスカル的な側面が受け入れられたと言える。いくつかの色の点を置いて描く「点描」は、近くで見ると何なのか分からないが、遠くで見ると一枚の絵になる、というのはまさにパスカル的なものである。これは19世紀の産物であるが、この基は17世紀のスペインの宮廷画家ベラスケスの画法に由来している。(近くで見ると粗い感じであるが、離れてみると立体感が際立ってよく見える。)
 以上、簡単ながら今回の講義のレポートといたします。

都市計画

Y君

1はじめに
 本レポートは、デカルトの合理主義とパスカルの非合理主義を用いて、近代と古代における都市計画について比較解析する。
2近代都市計画に求められること
 近代都市計画を進める際には、次のような内容を検討し行われている。
・環境問題(公害、自然環境、生活環境、社会的要素(人口、住宅、職と住のバランス)、 、騒音、交通問題等)これらの問題は、都市計画を進める上で公的機関と住民とが事  前に環境アセスメントを行って検討することが求められる。
・都市開発の利益とコスト
 開発が自治体にもたらす税収の増加と、開発による自治体の出費の増加の関係の調査。
・都市空間の最適利用
 土地の高度利用が必ずしも土地の有効利用とは限らない。
・民間活力の利用
・住民に開かれた都市計画
 −質、量ともに高い情報の入手が容易である(情報公開)
 −明確な開発プロセス
 −客観性を維持する制度であること(独立した監視機能があること)
 −住民の実質的参加があること
 ここまでに見たように、近代都市計画は、総じて分析的、客観性、物質的、量的などを重視したデカルトの合理主義だと考えられる。
3古代都市計画(ここでは8〜9世紀を想定する)
 この時代律令制度の発達により中央集権的国家体制が整えられ、富が天皇、貴族にもたらされた。それにより古代都市計画では、天皇、貴族、宗教勢力を中心とした都市計画が行われた。
 古代都市計画では条理制に基づき、皇居、寺社、仏閣、政治機関、住居等計画的に配置が行われているが、それらは天皇、貴族、宗教勢力の権力の誇示、また身分制度等が大きく関与していた。また、その都市計画には風水や、神の存在も大きく影響を及ぼしていた。
 ここまでに見たように、古代都市計画は、総じて主観的、精神的、質的、心情的であり、パスカルの非合理主義であると考えられる。
4まとめ
 以上より、同じ都市計画においても、それを実行する中心的メンバーが、デカルト的考え方か、パスカル的考え方かにより大きく異なった都市が形成されていることがわかる。

病気

M君

 講演を聞いた感想ですが、ある一つの現象でもデカルト的な考え方とパスカル的な考え方があることを知り非常に興味深い話でした。現在の社会では完全にデカルト的な考え方の方が強いように思いますが、少しずつパスカル的な考え方も取り入れられているように思います。人間自体がそもそもパスカル的な要素を持っており、人間に関わる現象の理解にはどうしてもパスカル的な考えも必要だからだと思います。一つの例を挙げると、病気を挙げることが出来ると思います。「病は気から」と言う言葉があると思いますが、これは、パスカル的な考え方でしょう。ガンと闘っている患者さんでも、生きる意志が弱い人より強い人の方が生存する確率が高いとか、生きる意志が途絶えたところで様態が悪化するというのは良く聞く話です。しかし、現実的に考えれば気持ちの問題ではなく、何か原因があって病気になるのであって、病気を直すにはその原因を突き止めてしかるべき対処を行うのが普通でしょう。これは、デカルト的な考え方でしょう。では、なぜ前者のようなことが言えるのか考えてみれば、それはパスカル的な要素をもった人間の問題だからではないかと思います。
 もう一つ例を挙げれば、最近の子供は風邪に対する抵抗力がなくなってきていると言うのを新聞か何かで見たことがあります。これは、最近の子供は土やドロなどを触って遊ばなくなっており、ほとんど無菌状態で育っているのに等しいので菌に対する抵抗力がなくなっているからだそうです。これは、親のデカルト的な子育てがそうしているのだと思います。その時は、汚いものに触れずにきれいにしていれば病気になりにくいかも知れませんが、人間は幼いときに土やドロなどに触って色々な菌を体内に取り込んで抗体等の抵抗力を身につけて成長して行くからこそ、大人になったときに抵抗力のある丈夫な大人に成長出来るのではないでしょうか。この様な、昔の日本の子育てはパスカル的な要素があったと思います。このように考えると、結果的には、パスカル的に子育てして丈夫に育てれば良いじゃないかと思いますが、そのようにパスカル的に育てていて病原菌に犯されて病気になって死んでしまっては元も子もありません。このバランスが大切なのでしょう。
 デカルト思考とパスカル思考の狭間と言う言葉はこれにぴったりの言葉に思えます。様々な現象を考える場合において片方の思考だけでなく、双方の思考を取り入れた考え方が今後必要となってくるように思い、非常に興味深いお話でした。

模糊数学

G君

 講演をお聞きしてデカルトの近代合理主義とパスカルの近代非合理主義によって物事を分析できるという話にとても興味深いと思います。私たちのこれまで受けて来た教育やこれからの研究についてもこのような考え方で理解して見ました。
 私のこれまで学校での勉強にデカルト的な要素が多く占めているように思います。デカルトの考え方は数学の明証性を範とし解析の方法を一般化したもので、明晰なものだけ扱い確実なデータを集めて物事を分析する。小学校の算数から始め中学校・高校で代数幾何学など、大学に至っては高等数学(微分・積分・線形代数など)を通じて、随分と数学的方法を学んで来ました。まさにデカルト思考そのもののように思います。問題に対して常に確実で厳密に論理的に分析して行きそしてその過程で勉強の楽しさを覚えます。
 高校のある講演で初めて「模糊数学」という言葉を聞きました。その時とても理解出来ませんでした。数学というと答えが明解で当然だと思っていました。そして大学に入って計算機学科の専攻でしたが、人工頭脳という分野に出会いました。そこにこれまでと違った考え方がありました。例えば問題解決の方法として遺伝子アルゴリズムがあります。問題を論理的演繹的に証明するのではなく、初期状態から誤差を逆伝搬してフィードバックして解を修正するという考え方でした。それはこれまで馴れない考え方でしたが、問題解決に結び付けていけるから、驚きながらとても新鮮でいい勉強になりました。数学の分野でもこのような帰納的実験的パスカル式の考え方がある。これからも様々な現象を考える時デカルト思考とパスカル思考を比較しながら、両方の考え方を理解出来、人間・科学・社会に対して深い理解が出来るのではないかと思います。

コンピュータ

T君

 一極集中、根本からの改善をデカルト的、多極分散、今あるものの改良をパスカル的と理解した自分は、これらがコンピュータにも当てはまることろがあると感じた。
 一極集中、これが表すものは、メインフレームでありマザーコンピュータである。唯一神のように巨大で、絶対的な存在である。祈祷師(=システム管理者)が彼と神のみが理解できる言葉(=専用プログラム)で会話し、神事を執り行う。一般の人々が触れることを許されるのは、神に似せた偶像(=端末)のみであり、直接神に触れることは許されない。また、こうした大規模なシステムは次世代システムが出現した場合、旧世代との互換性を維持しない場合が多い。アーキテクチャの変更があった場合、その非互換性から、エンジニアは用無しになるか新たな言語を覚える必要がある。
 神が変わった時、かの祈祷師は祭壇を追われるのである。そして、すべての偶像は破壊され新たな偶像が与えられる。システムの総入れ替えを迫られるのである。コストは漠大だが仕方がない。神は絶対なのだから。
 だが、こうしたシステムはもろいものである。システムの硬直化は容易い。柔軟性のないものは、重圧に耐えかね折れてしまうか、わずかな振動が共鳴を起こし崩れ去る。
 現にメインフレームはミニコンに、ミニコンはPCに駆逐された。自然淘汰といってもいい。
 多極分散、これが表すものは、PCとインターネットである。
 PCは個々が処理能力を持ち、使える者は誰でも使うことができる。多少覚える事はあるにせよ、不可解極まりない言語などに触れる必要はないのである。これら各計算機は、ネットワークで結ばれる。ピアツーピアからLAN,WANそしてインターネットへと、ネットワークは拡大していく。
 多極分散であるがゆえに、ネットワークにつながる個々のシステムは平等である。平等であるから、このネットワークを一括管理できるものは存在しない。インターネットを管理することなどできない。たとえMicrosoftでも。かって、ビルゲイツはCompuServ(現AOL)にMSNで対抗したが、時代はインターネットにシフトしていた。ビルは矛先を変え、MSNはインターネットを越えるネットワークになるはずだった。そして、MSNは消え去った。MS1社に管理され、Windowsのみで構成されるMSNは、メインフレームを髣髴とさせる。
 蜘蛛の巣が地球上を覆ってから久しいが、ネットワークの成長は止まるところを知らない。WWWが加速させたネットワークの広がりは一般家庭にまで及び、新たな可能性を生み出した。
 インターネットの普及と、そこに接続される全計算機のCPUパワーはすでにメインフレームを凌駕している。この膨大な資源を利用した興味深い試みとして、RSAのSKCやSETI@Homeがある。前者は暗号解読と警告、後者は地球外生命体の発見が目的である。
 デカルト的思考とパスカル的思考がコンピュータの世界で明暗を分けることとなった。デカルト的なものを否定するわけではない。だが、システムに「ゆらぎ」を持たないものは周囲の変化に適応できないのである。ゆらぎあるところに生命の可能性がある。インターネットにおける情報生命(AIではない)出現の示唆も、あながち世迷い事ではあるまい。


読後感

おじいちゃん

 全26編のレポートの中から代表的な17編を掲載しました。大きく分けて、デカルト的思考とパスカル的思考にバッサリ分類したデカルト的明快型と、両極端の間を行きつ戻りつするパスカル的迷走型がありました。何れにしても、それはそれなりにその立場からすると正しいと考えられ、多岐の専門に亙った論説は頷くところ多く非常に参考になりました。”教える”と言うことは”教えられる”と言うことであると今更の様に感じた次第です。
 人間は一生”デカルト主義とパスカル主義の狭間を迷い続ける”者であると考えられないでしょうか。何か問題に当たって、何れの主義をとる人もその人の立場からすると正しい 解答である訳です。例え正反対の解答であってもです。しかしその人は何れかの立場あるいはその間の何処かに立脚して考えねばなりません。人間はその立場をどの様にして決めているのでしょうか。
 人間はその人がその年齢まで培って来た人生観が基盤となって立場を考えるのではないでしょうか。最近の朝ドラで、和菓子の伝統を守るパスカル的職人と職人として教え込まれたその娘がデカルトに目覚め普遍的に和菓子を作るというシナリオは興味津々たるものがあります。どちらの立場も理解できます。しかし自分ならこちらをとるというのがあっていい筈です。
 東京都にある国家機関の移転を進める政府案(デカルト)に対し、現在地で改造の都知事案(パスカル)があります。議員定数削減の政府案(デカルト)に対し、反対の野党案(パスカル)があります。その他。何か互いに反対する事象には、必ずと言ってよいほど上述の立場の違いが見られます。
 いずれもその立場から見ると正しいとするなら、物事はどのようにして決まるのでしょうか。私たちは民主主義の世界に身を置いています。民主主義ではいうまでもなく、多数決です。その一つ一つの質は問題にしません。そして多数決による世論が問題を解決します。私たちはその立場夫れ夫れを理解し、自分の人生観に基づく立場から意志決定をしたいと考えていますが如何でしょうか。
 分かったような事を書きましたが、それがそうでもないところに人生の面白みがあるのかも知れません。今後も色々と教えて頂く事が一杯あります。諸賢のご指導を切にお願い致します。