評論の広場5


  下記内容にある様に阪大技師学校50周年記念と第50回画像分科会が8月と11月に開催される。何れも筆者は創設に関係しているので、一言発言する事になっている。

  筆者はどうした宿命か学校関係の創立に関係した事が多い。中でも技師学校と画像分科会は若い頃から情熱を傾けて集中しただけあって思い出に残る事も多い。

  他の演者の方々がどのような話を為さるか見当も付かないが、私は私なりに温故知新現況を踏まえ意見を述べて見たいと思う。


建学の精神

内田 勝

創立に携わった人々。

  今でも筆者の最も自負する所は診療エックス線技師学校の創立に関係した事である。その学校も今では立派な博士過程まで持つ四年制大学となっている。今年の8月25日には創立50周年が執り行われる。早いものである。1952年30歳であった青年も今では80歳の高齢者である。創立当初の上司・同僚・友人達で消息不明の人々も多い。記念式典に出席して一言発言する事になっているが、この際に原点を振り返り反省して見たいと思う。

  同時に、第29回日本放射線技術学会秋季学術大会第50回画像分科会が11月8日に行われ、50回記念講演”四半世紀の画像工学研究”と題して50回記念講演が予定されている。学校と研究会の違いはあるが、建学の精神は夫れ夫れの立場からすると正当であり、比較して見ると興味ある哲学の相違に気が付く。夫れ夫れある程度の経過を述べ、終わりに筆者なりの見通しについて述べたいと思う。

  筆者は28歳であった。縁あって当時阪大医学部放射線科の西岡教授と永井助教授の面接を受ける事になった。白髪のおじいちゃん然とした西岡先生に一目で惚れて仕舞ったと言って良い。条件は悪かった。現在、農林教官の身分が文部技官に格下げになる。それを先生は非常に気の毒がられた。近い将来短期大学にするから暫くの辛抱ですの言葉は一縷の望みではあったが、この新しい仕事に自分の人生を賭けて見ようの気持ちが強かった様に思う。

技術員室の行楽。

  1950年に技師室に入り、2年かけて学校設立の準備を続けた。その間技師室で実技を学ぶ傍ら、自分の能力で出来る学術を教えた。西岡先生の”医師は私たちが教育します。貴君は技師を教育して下さい。特に偽医者を作らない為に。”この言葉は私にとって非常に大きな感銘となって心に刻み付けられた。成る程病院で白衣を着ていると、患者から医師に間違えられる事が往々にしてある。胸部写真の診断など卒業間も無いインターンなどより遥かに良く読影する技師がいたものである。つい写真を翳して”大分良くなってますね”などと言って仕舞う。これは当然医師法違反である。

  ”技師は自分の仕事に誇りを持てないから、偽医者を気取るのだ。”と医者は厳しい。成る程と思う。1952年に診療エックス線技師学校として開学した。示されたカリキュラムはてんでバラバラの統一性を欠いた寄せ木細工的なものであった。専任教師は私と三つ年下の宮永一郎(東大理物理卒。後、原研理事)の二人、他は殆ど非常勤の医師であった。その頃旧来の技師救済の目的で特例試験などがあり、その講習会などに狩り出され落ち着かない日々が続いた。

  取り敢えず本省から示されたカリキュラムにしたがって授業は進められた。筆者は”偽医者”の一言が”今に見て居ろ、医師と対等にものの言える技師を作って見せる”と自分は技師でもないのに妙な所で判官びいきになって居た。一期生は気の毒であったとも言える。決まった教室とて無く、時間毎に病院内の空き部屋での講義である。偽医者の誤解を避けるため、貸与する白衣は上下のカーキ色の作業服にした。患者にしても作業着の人を医師と間違える事はないだろうからだ。

  この体制は、もう大丈夫と思われるまで何年か続いた。講義にしても特に専任は大学程度のレベルを目指した。学生は丸覚えの消化不良であったと思う。しかし専任の情熱には共感し将来の希望を見詰めてついて来た。学生に希望と夢を持たせる為、出来る限りの工夫を凝らした。宝塚歌劇から先生を引っ張って来てレコードによる音楽鑑賞を正課に入れたり、体育の時間に裏山の荒れ草地を均してバレーコートを作ったりした。また学生時代ボート選手だった専任の力で学生に漕艇実技を教え、学内大会で何度か優勝もした。

  西岡教授の愛情によって創立された技師学校も数年にして立入教授に変わり、以後立入教授の叡知によって育てられることになる。毎年の校長会議の議題に”短期大学に昇格”が挙げられるのが定番ではあったが、実現を見たのは昭和42年(1967年)である。15年かかった事になる。それでも阪大が最も早かった。短大に昇格した時の経緯は筆者のホームページに詳しい。関係者全力で取り組んだ人事ではあったが、今になって思えば全く烏合の衆としか思えない人事であった。 

  当時は、今まで専門一筋で研究・教育をして来た教員にとって、余りにも放射線技術に関して素人の集団であったからである。しかも、文部省の素人官吏が作った、カリキュラムであって見れば責めるのは無理なのかも知れない。徐徐に改良されるにしても誠に心細い限りである。果たして4年制になったのは平成6年(1994年)丸27年かかっている。そして50周年が今年なのである。               

  筆者は待てなかった。西岡教授との約束もあらかた守る事が出来た。もう自分の事を考えても良いと思った。転出した。若い頃、自分の青春を注ぎ込んだ仕事への愛着は技術学会へと引き継がれた。それが画像部会である。技師学校も画像部会(後年、画像分科会)も創立ではあるが、その建学の精神に将来の方向を決める大きな相違がある事に気が付く。

  ここにデカルト哲学とパスカル哲学について筆者の理解した範囲で略述したいと思う。筆者のホームページに簡単な解説があるが、ここでは両哲学の大まかな比較について述べて置かねばならない。

デカルト。

  デカルトは久しく近代思想の父と呼ばれて来た。それは、中世の態勢が崩れながらも未だ旧来の宇宙観、世界観、人間観に代わる価値観が見い出されず、新しい理想郷が打ち立てられるに至らなかった時期に生まれた事が大きい。彼は今から三百数十年前のフランスに現れた思想家である。17世紀前半の人物。フランスに生れ、ドイツで戦争に参加し、オランダで思想家としての仕事を仕上げ、最後はスウェーデンに客となって死んだのである。言わばヨーロッパ全体をまたに掛け、生前すでにヨーロッパ中に名を知られた人であった。

  デカルトの思想には二つの重要な点がある。第一はデカルトが始めて世界を全体として科学的に見る事をあえてした人であると言う事である。第ニは、そのように世界を客観的にみるところの主体である、「われ」と言うものをはっきり掴み、世界において「われ」がいかなる生き方を選ぶかについて単純かつ徹底した方針を立てた、と言う事である。

  もともと人間の思想の根本的な問題は、一口に言えば、第一に世界が如何にあるかと言う問いと、第二に世界の中でわれわれは如何に生くべきかという問いとである。

  詳しくはデカルトの「方法序説」の講読を是非お勧めする。

デカルト・・・演繹的論理的、分析的、客観的、物質的、量的、理性的、普遍性を重視し、ニュートン、ダーウィン、マルクスなどに引き継がれ、近代合理主義と誦せられている。 

パスカル。

  ブレ−ズ・パスカルはフランス17世紀の数学者物理学者で何よりも深い思想の持ち主として大方の思想家達が、これに深く影響され、或いは強く反抗した程の大いなる足跡を残した。自然科学においては有名な大気の重さに関する諸現象の実験的証明を始め、確率論の創始、積分理論の確立など、幾多の輝かしい業績を挙げた。

  惜しむらくは、生涯極めて虚弱、その厳格な禁欲主義はキリスト教徒的献身の模範とせられている。主著は「パンセ」と呼ばれる未完成の作品。これは彼が晩年、無神論者たちに対してキリスト教弁証論を意図し、人間の探究を試みて畢生の努力を注いだが、短い生涯の為それを完成せしめる事が出来ず、ただ切れ切れの覚え書きのみを世に残した。その遺稿を友人達が整理し、1670年に刊行したものである。

  フランス文学屈指の古典、人間研究はこの国に独自の伝統を持っているが、「パンセ」に見られる熱烈な信仰と冷徹なる科学的精神との融合は他に比類がない。

  詳しくはパスカルの「パンセ」の講読を是非お勧めする。

パスカル・・・帰納的実験的、総合的、主観的、精神的、質的、心情的、個別性を重視し、キエルケゴール、ハイデッカー、サルトルなどに引き継がれ、近代非合理主義と誦せられている。

  この時代のデカルトとパスカルとは対照的な人であった。デカルトが演繹的論理的であるのに対し、パスカルは帰納的実験的であった。デカルトは代數的方法を数学一般に押し拡げ得ると確信し、幾何学を代數化した。パスカルはデカルトの代數的解析の精神とは違ったものを持っていた。人間論においても、デカルトは「人間機械論」に近いが、パスカルは「繊細な精神」を理解していた。

  一つ一つ比較検討すれば非常に面白いが、ここでは紙数もないしまた目的でもない。
ルネ・デカルト(1596−1650)とブレーズ・パスカル(1623−1662)は17世紀に生きた二大哲学者である。しかも上述した様に相反する教義を持っている。しかし、対立する二つのものは永遠に対立し続けるものではなく、お互いに影響し続けながらこの世を構成していると考えられる。デカルトの中にもパスカルの要素があり、パスカルの中にもデカルトの要素がある。お互いに入れ子になっている部分もあるという事である。

  デカルトからパスカルへ、パスカルからデカルトへという循環を繰り返しながら、この世は自然に進んで行くと考えられないだろうか。陰陽説の中にもこの様な世界観が見られる。結末から先に述べよう。

  技師教育はパスカルからデカルトに進んでいる。画像分科会はデカルトからパスカルに方向を持っている。これらの観点から現状を分析し、将来の進路の一つを示す事が出来ればと願うものである。

  先ずは技師教育である。技師の育成は徒弟制度から始まっている。これは明らかにパスカル思考である。技師教育に限った事ではなく、あらゆる技術は全てここが原点である。放射線技術も先輩の技術を見よう見まねして学んで来たものである。少なくとも筆者が技師室に入った時の状態はそうであった。その状態が原点であり、それを纏め切れずにチグハグなカリキュラムにしたがって教育が行われた。それが技師学校であった。

  その後、関係者の努力によってデカルト思考によるカリキュラムの整備が徐々に進められ、殊に基礎教養の整備は短期大学昇格までに気運を高めた。4年制まではもう一息であったが、それが中々である。パスカルからデカルトへ完全変換するのか、パスカルを軸に置いてデカルトで固めるのか喧々諤々の議論が繰り返されたに違いない。殊に阪大はテストケースと言って良い。外見的には阪大は完全デカルト変換に踏み切った様に見受けられる。勇気ある決断だと思う。数校ある他大学はパスカルを軸に置いた伝統技術を主観とする形式を取っているように思える。

  何れがベターなのか今は分からない。最終的には何れも同じ目標に達するのかも知れない。しかしそこに達するまでの過程ではどうであろうか。途中経過の卒業生はどうであろうか。放射線技術をもって医療に貢献する技師としては、パスカル技術を軸においてデカルトで基礎を固める方式が世に歓迎されるのではなかろうか。診療放射線技師なのである。卒論も学位論文も放射線技術がテーマであらねばならぬと思うのは筆者だけであろうか。旧来からのパスカル的伝統技術(デカルト思考で基礎付けられた)を卒論或いは学位論文のテーマに採用する事の出来る大学が果たして今どれ程あるのだろうか。

  デカルト的な基礎はしっかりして来た。この上に立ってパスカル的な専門を確立する事こそが放射線技術学の確立である。”仏作って魂入れず”と言う言葉がある。形だけ出来て中身が伴わないでは意味が無いのである。今こそパスカル的な専門技術が台頭する時期ではなかろうか。現教職員の一層の開眼・研鑽を期待するものである。

梅谷友吉技師。

   画像分科会にはいる。日本放射線技術学会はその名の示す通り医学とも工学ともまして文学とも規定していない。この名の由来は学会創立者の一人 梅谷友吉技師を語らねばならない。梅谷技師は学会名の示す通り、何物にも従属しない独立した学会をイメージしたのである。時代を同じくした先輩であるが、日本放射線技術学会は外にはパスカル的であっても、内部はデカルト思考で組織されねばならぬ事をよく認識していたと思う。当初画像部会と測定部会の二専門部会に大別し、夫れ夫れを分科会で構成する形が取られたが、後年に分科会に統一された。

  従って第1回の画像分科会の講演も次の様な順序で行われた。山下一也(部会名称の問題点、今後の進め方);山崎 武(視覚の法則);津田元久(放射線機器と放射線像);佐藤孝志(診療に有効なスペクトル);田中俊夫(写真化学その問題点);金森仁志(情報理論適用の問題点);内田 勝(線形と非線形の接点)

  見られる通り放射線技術の問題点を万遍なく選んで示したのである。今もう一度聞いて見たい気もするぐらい懐かしい。一巻づつ目を通して見ると号を追うに従ってパスカル的にテーマが収斂して行くのが分かる。まもなくMTFの空間周波数特性の時代が、続いて情報理論・ROC・ディジタル画像・CAD・・・・が驀進中である。今CADが花盛りである。

  どんどんテーマがパスカル的に先鋭化し他は鳴りを潜めている感じである。発展途上学問の公式通りに進んでいる。 これもデカルトの基礎があったればこその発展であってデカルトの基礎なくしてこの隆盛は考えられない。当分はこの体制が続くと思われるが、近い将来にはこのCADもデカルト的に普遍化され他をサポートする手法となるであろう。楽しみな事である。

  以上、”開学の精神”と大上段に振り翳したにしては極平凡な論説となったが、これは筆者の精一杯の考究の結果である。また、文中関係者各位に失礼な言辞なしとしない。諸兄の御寛容を願う次第である。