評論の広場6


  暇に任せて過去の記事を見ていましたら懐かしいプリントが出てきました。それは約30年前のもので、技師会雑誌第17巻第7号{第203号)でした。技師学校からやっと大學に出向出来た頃の事です。

  もちろん技師会からの要請で重い筆を執ったものと思われます。今から30年前と言えばおじいちゃんの人生で働き盛り、煮ても焼いても生でも巧い年頃です。従って運筆も直情径行恥ずかしいものがありますが、大學紛争の最中真剣にそう思った事実を述べております。

  今じっくり読んでみても、そんなに違和感を感じないのはおじいちゃんがサッパリ進歩してないのか世の中が大して変わっていないのか何れにしても、怖いもの知らずの内容です。ご笑覧下さい。


技師学校と短期大学

宮崎大学教授 内田 勝

  うすれ行く記憶の中で、技師学校の像をなんらかの形で残しておきたいと思う。働くことの出来る人生の約半ばを技師学校と共に歩んだ私は、いまこそ第三者として歴史をふりかえることができよう。昭和27年西岡教授の愛情によって始められた阪大の技師学校は、立入教授の叡智によって育てられ昭和44年事実上その足跡を断った。

  卒業生約200名、いまや各方面で活躍していることは衆知のことである。これらの事実を母体として短期大学が創設され、私は現職に転出した。ここにおいて、技師学校とはどのようなものであったかを広い視野からふりかえることは意義があるであろう。

  現職にあって思うことは、”技師学校はよかった”ということである。これは決して過去は美化されるというような甘いことではない。現在まだ存続している技師学校の先生方はきっとそれどころではないであろう。短期大学に一日も早くなるよう最善の努力を続けておられるはずである。それは果たして、なんの為、誰の為になされている努力なのであろうかと経験して初めて得られる疑問につきあたる。

  形態的には短期大学は各種学校に比べてはるかな優位性を持っている。学生はいい施設、多くの図書、多くの選任の先生を持ち、教師は俸給も上がり身分も教育職(1)になり結構づくめである。それに比べて各種学校は、立入校長赴任時の言葉”これでも学校ですか”の通り、施設は悪く図書もないといってもよく、教師は専任2名(専攻科設置に伴い3名となる)、身分も教育職(2)で俸給も安い。生活に追われアルバイトを余儀なくさせられる。

  これだけ見れば、各種学校の教師が、学生が、短期大学の設置を望むのは無理からぬことである。現に私も技師学校在職中は切に望んだ一人である。この多年の念願を、自力ではなく、文部省のお仕着せの形で達した阪大の医療技術短期大学部には、当然のことながら多くの問題点が生じた。

  その第一は放射線技師のみならず、看護婦、衛生検査技師の養成を目的とする3科をもって一つの短期大学にしたことである。同じ医療技術者であるという安易な考え方から文部省は一つの枠内で処理したのであろうが、その学問的内容からすれば全くの形式主義であることは歴然としている。大學の電気工学科、機械工学科その他を考えてみれば明白であるが、おのおのの専門とするところは異なっていても、その基礎となる学問は共通していると思われる。

  これに反し、医療技術短大の3科はその基礎においてすでに明らかに異なっている。看護科におけるごときはまさに文科に類するのではないかと思われるほどである。この基礎の考え方の違いが短大運営上大きな障害になっていることは否めない。

  第2に文部省の大學教員資格に適合するその道の専門家を得にくいことである。現に放射線技師、衛生検査技師の教授は得られず、看護婦の教授が1名(教授定員5名)かろうじている程度である。したがって、それぞれの専門教育を行う上に大局的に総合された観点から論議されることが困難である。技師学校以上に寄せ木細工的な教育が行われる可能性が高い。

  第3に3カ年の僅かの期間の内、初めの約1カ年半を一般教育に分離して当てているため、専門課程に入ってからも放射線技師教員の不足から専門学科に興味を持ちにくいことである。2,3年におけるセミナーの選択を見れば明らかであるが、最終学年においてすら専門学科の選択は多くない。逆の見方をすれば、現在短大には一般教育のすぐれた専門家が多く、これが一つの特徴であるともいえる。大きな問題点としては以上の三つであろう。

  これらは何れも容易に早急に改善することは困難であろうし、また見る人によってはこれらが問題点であるのかどうかも疑わしい。私が1,2年の教育を終えた3年生を初めて受け持った時の印象をまだ忘れることは出来ない。それはまさに”他人にあずけた里子を親元にひきとった”ときの気持ちそのものであったから。人はその人がとる立場によって視点が異なるものである。しかし、いかなる立場をとる人であっても、この新設医療技術短大に問題点が存在することは認めるであろう。それは、診療放射線技術科第1回卒業生の就職先を見てもうなずけることである。

  短大は短期大学であって大學ではない。したがって、教育の目的を明確にした理念と哲学が大學以上に必要である。現在の所、文部省にも短大当局にもこれらが欠如していると思われる。続々と短大が設置されない原因がここらにあると考えられる。短大において、筆者は学生と放射線技師の在り方とか、将来とか、不安、職業に対する悩み、医師との関連などについて話し合ったことがない。技師学校時代には、共に憂い、共に悩み、喜び合う場があった。

  放射線技師というテーマで教師と学生はしっかりと結びついたといえよう。いわゆる塾的な良さがあった。”貧家より孝子出ず”とは古くから言われている言葉であるが、施設無く、涙ほどの予算をやりくりし、毎日来てくれる非常勤講師の茶くみと化した専任を、よくいたわり慰めてくれたのは教え子である。放射線技術学の確立を叫ばしめ、研究に駆り立ててくれたのも教え子である。筆者の今までの研究の大半は教え子の手によってなされたものである。それらは放射線技術学の確立という大目標に向かって続けられた大行進の一部であったといえる。

  このような明確な目標を持ち、教え子の絶大な援助を受けていた技師学校は、たとえ実験器具はなく図書はなく、涙ほどの予算であっても幸せであったといえよう。バラエティに富んだ非常勤講師も本当によく学校を理解してくれ、報酬を度外視して親身に教育してくれた。17年の歴史の中には浮き沈みも多くあったが、各種学校として一つの哲学をもっていたと思う。これが筆者のせめてもの誇りである。

  現短大も完成年度を過ぎた。一般教育の充実その他各種学校に比べて多くの有利な条件をもっているのだから、あとは魂を入れることであろう。いかに表面的に立派であっても”ふぬけ”ではしようがない。塾のように、少数の指導者による教育の長所は短大では困難にしても、少なくとも各種学校の欠点は除かれるはずである。願わくば、短大に医療技術者としての哲学を打ちたてられんことを。

  これまでの記述は必ずしも短大に有利には展開していない。むしろ、各種学校の塾的な良さを強調したようである。筆者が宮崎大学工学部に赴任して約8ヶ月、学生に接し、紛争を知り、いま技師学校というものを過去としてみる立場を得た。このような立場からみるとき、短大学生は技師学校学生よりも大學の学生に近い。それは一般教育に十分の時間をかけられた者の共通した点であろう。技師学校学生のように”技師技師”していないおおらかさがある。放射線技師という職業を特別の職業のように意識していない。とくに医療技術にとらわれない。

  したがって、技師学校卒業生のようには放射線技師という職業に特別の愛着をもっていない。大學卒業生が彼らが所属する職業団体をあまり意識しないように、彼らもまたそうであるようだ。大學の電気を出ても、応物を出ても技師会というような職業団体はない。従って、学問としての電気には共通した意識はあっても、職業として電気だけで集会することはない。短大の学生はこのような行き方を求めているような気がする。これは従来の技師諸君には実に物足りない。はがゆい気持ちであろうと思う。

  同じ大學でも、医学部出身者には医師会という職業団体がある。この流れをくんで技師会が生まれたことと思うが短大の学生ははたしてこの流れをくむことをいさぎよしとしているだろうか。私の見る限りでは余り”技師技師”していないように思える。まだ本質的であるとは思えないが、たとえ形式的であっても、国家を論じ、世界を議し、大學改革を叫ぶ彼らの姿には少なくとも”技師技師”した狭さを感じさせない。かれらは技師として進む自分の姿よりも国家の一員として世界を論ずる自分の姿に魅力を感じているようである。

  私は若者はかくありたいと願う。とてつもないことを考えるのは若者の特権である。若者がすでに敷かれたせまいレールを安全に走ることに汲々としているようでは、日本という国家もおしまいである。そのような意味では、短大学生はいい傾向をもっていると言えるであろう。このように考えると、放射線技師がどのようなものであるかを知らない専門家による教育は、たとえ寄せ木細工であっても学生に広い視野を与えるという意味から良しとするべきであろう。

  昔、大學と専門学校の2本建ての時代があった。大學に進むには旧制高等学校を経ねばならない。卒業したては実力ににおいて、大学卒は到底専門学校卒にはかなわないというのが常識であった。しかし、就職先で年数を経るにしたがい、大学卒は専門学校卒より伸びたということである。いまでは伝説に近いことであるが、やはり3カ年の旧制高校の時代に人生を支配する本質的な教育が行われたものであろう。小粒ではあっても短大と技師学校の間にこの様な相似があるのではなかろうか。

  私の技師学校在職中に、印象に残る言葉がいくつかある。”自分はX線技師から逃避するために大學に進んだ。いま私は自分が逃げ出したその技師学校の教師である。彼ら学生に将来の希望をもたせることができるのか。私はそれを考えるとうしろめたい。”という専任講師の悩みを聞いた。無理のないことである。大きな希望とバラ色の人生の夢は若人にのみ与えられた神の祝福であろう。その若人にとって、放射線技師職はあまりにも小市民的な袋小路の人生を思わせる。これではいけない。ならばどう考えればいいのだろうか。

  ある人はいう、”放射線技師職は聖職である”これはもっともらしい特訓であろう。しかしこのような聖職意識は現代の若人には受け入れられ難い。現代っ子はもっと割り切って現実的である。サラリーはどれくらいになるか、将来管理職になれるか、これが問題なのである。いまのところ、これらの問いに対して否定的な解答しかない。ある卒業生は言った。”技師学校の存在は自分の人生を誤らしめた。なければもっとましな人生が送れたろうに。”誠に勝手な奴だと思ったが、よくよく考えてみるとこれまたもっともなことである。

  以上のような否定的な言句の中にも、大多数の卒業生は黙々とその仕事に専念し各方面で活躍している。おのおの自分で進む道を考え、自分なりの希望とバラ色の人生を、選んだ道に見いだしていることであろう。これは単なるあきらめといえるであろうか。人生のうち約3カ年の教育である。専門教育といっても2年足らず、これをもって人生の方向を決めてしまうのはナンセンスである。学校では基礎教育をしっかり身につけ、放射線技師職はその一つの方向であるというくらいに考えていてよさそうである。専門職というのはすべて基礎教養の上に立った単なる一つの職業にすぎないのだから。

  いまや、放射線技師像はその像質を変えようとしている。先輩諸君はいたずらに今まで自分のとってきた立場に固執することなく、白紙で彼らの問いかけをしっかり受け止め、彼らの立場を理解するようにつとめたいものである。理解することによって話し合いの場が生まれ、大きな矛盾に対処する姿勢が出来るであろう。これは筆者が大学紛争に対してとっている態度でもある。医療体系の矛盾はいまさら問うまでもない。それも医療体系を直列と考えるか並列と考えるかによって異なってこよう。どのような立場をとろうと、”医療技術者は医師ではない。医療技術者の存在は医師の万能を否定する”。これだけの論理さえ明確ならば問題はないはずである。

  日本国家の一つの体制の禄を食むわれわれが、国家的な大きな矛盾に対処するにはおのずから制限がある。問題はこの体制の中でどのようにすれば医療体系を円滑に運行させることができるかにある。放射線技師はその大きな鎖の小さな小さな一つの輪である。ヤングパワーは古い体制をたたきこわそうとしている。”破壊されたあとに生まれ出ずるもの”に期待している彼らは”ノアの箱舟”に乗って新世界の誕生を夢みていることだろう。いまの私にその勇気はない。もっともっと現実的に臆病である。

  ここに、医療技術短期大学は新しい放射線技術像を目指して、ひたすら邁進すべきである。そして技師学校卒業の先輩諸君は、技師学校教育の否定を甘受し、新しい放射線技師像とはいかなるものか、共に考え、共に悩み、共に成長したいものである。筆者は現在少なくとも技師学校、短期大学よりは広い分野で物事を考える立場に立っている。

     大學は大學で異質の大きな悩みをかかえている。これらの根本的な解決はいずこにおいても対話以外に無いと信じている。国家権力による表面的な鎮圧はいたずらに深く根をはることになるであろう。国家100年の行く末を思うとき、これら絶対値の大きいヤングパワーに対して日本の政治家ははたしてその運用を誤らなかったであろうか。100年後の歴史にどのように判断されるか知りたいものである。

  書き流しの原稿でとりとめないことになってしまったが、最後に結びらしいものを書いて筆をおくとしよう。 技師学校は一つの放射線技師像を作った。いまや短期大学は古い像にとらわれない新しい放射線技師像を作ろうとしている。新旧技師像の相関をどのようにするかはこれらに関心をもつすべての人々のテーマである。後世の人々に笑われない歴史のひと駒をつくることこそ、われわれの義務であろう。


  上述の原稿を途中まで書いて、大阪大学診療放射線技師教育50年記念式典(於:大阪国際会議場)に出席しました。歴史も50年にもなると創立の理念も世代が変わるにつれ変化してくるものです。古い卒業生から新しい卒業生まで一堂に集い和気藹々と心行くまで楽しい数時間でした。パネリスト4名・特別発言者1名のパネルディスカッションがありました。パネリスト4名それぞれ各大学を中心に紹介・意見具申などあり、おじいちゃんにも特別発言の機会が与えられました。時間は僅かしかありませんでしたが次のことはしっかりと念を押しておきました。

  「脱診療」・「脱放射線」の言葉を強調された大學には(診療放射線技師を作る大學ですよ。国家試験合格率100%を得られた後、更なる資格を願うのはいいことですが、その逆は考えられません。大學の猛省を促します)と。また画像と撮影の違いをくどくどと説きました。(撮影は画像と違い人間が介在しています。撮影を全て消して画像に機械的に振り替えたカリキュラムを見ます。人間の介在する撮影という言葉を真剣に考えて頂きたい)と力説しました。また古い時代の言葉ですが、当初”患者取り扱い法”という科目がありました。内容は重要なものですが、名前が悪く、数年で削除されました。これは(患者心理学)とでも改称して復活を希望します。

  外部評価委員の一人シカゴ大學の土井教授から報告を受けた中に、保険学科教員の内、放射線を専門とする教官は約半分、大學3年4年の卒業論文のテーマで放射線に関係のないテーマが約半分と聞いては唖然とするしかありませんでした。まさに羊頭狗肉ではないでしょうか。優秀な放射線の専門家は日本に埋もれています。それらを採用しないで非専門家を採用している現状を文部省は知っているのでしょうか。現在各方面で改革の時代、一番歴史の古い大阪大学医学部保険学科こそ見本を示して頂きたいのはこれらに関心を持つ人々の熱望するところです。

  技師学校から短大への時期に抱えた悩みと現在短大から4年制大學への時期に抱える悩みには共通したものがあります。其の時期時期で乗り越えてきたのです。学友会総員でこの歴史を守り、新しい改革を続け向上して行こうではありませんか。 50年記念式典はスナップの現焼きが出来上がり次第”おじいちゃんの写真館8”に紹介します。楽しみに待っていて下さい。