おじいちゃんの写真館 11


旅工大同窓の旅

内田 勝

同級生の河原君から今度クラスメートと旅順・大連に旅行する事になった。ついては行けない人々の為にインターネットで知らせたいと思う。写真その他必要事項は知らせるから貴君のホームページで紹介してくれないかとの依頼、渋々ながらOKした次第である。  

写真撮影及びメモ記録は川原君によって行われた。初めに川原君の自己紹介について、述べて置く。”川原君は小学校・中学校を安東で育ち又旅順工科大学で学んで満州の土になる事を夢見ていたが敗戦は果たせず80歳を超えた。安東・旅順に対する郷愁は強く、戦後訪れて昔を偲び心の糧としていたが一年前から大学同窓会の後の旅順行きを楽しみにしていた。

多分最後の訪問になるとカメラも2台用意したが,街の景観も年々変わっていて20枚程度の撮影に終わった。再び訪れる事はない故郷旅順にお別れをしてきた。戦後60年旧市街は学生時代の思い出に繋がるものは皆無と言っていいぐらい様変わりしている。新市街も旧市街に追う事になる”このように河原君は書いてきている。先ず初めに参加した6名の写真と名前を紹介しよう。 

画像

 

河原君は前列向かって右から4番目前列の中央である。卒業の年度が記されている。昭16卒が2名、昭17卒が1名、昭18卒が1名他は縁者である。年も年だから限られてくる。そろそろ本論に入るとしよう。

旅順駅

100年前の1903年にロシヤ人によって建てられたロシヤ風建築、1904年2月の日露戦争開戦の一年前、100年の日月にもめげず現在も使用されて旅順ー大連間の始発駅、昭和12年(1937年)頃は旅順駅を通っての旅が主体,安東中学校から士官学校、旅順工科大学の受験に又昭和19年(1944年)、2月にはこの駅から祝出征の襷を掛けて出発した筈だが70年の月日は全て忘れた。只覚えている事は夏休暇の実習に通っている中に恋が芽生えて一回だけ二人っきりでロシア基地を尋ねた。撮影は走るバスの窓越しで表面入口の裏側からで,白玉山を望める場所からだ。  

旧旅順工科大学本館

日露の役後、清国より台湾と共に関東州は日本の領土となって、ロシヤの建てた海兵団が旅順工科学堂として使われた後に大学に昇格した。旅順工科大学卒業生にとってロシヤ風の3階の建物は郷愁となって何時までも生き続けている。正面入口には次に述べる表札があって大連市の重要文化財となり、現在は解放軍406医院になって、外側は塗装がされて100年前の新築当時と変わらないが中は我々が学んだ頃と変わらない。

旧大学応用化学教室

学生時代は白亜の建物、現在はクリーム色になっているが建物自体は変わらぬ、学生時代電気工学科を専攻して中の様子は分からぬが本館同様だと思う。

旧大学正門から右側興亜寮を望む

正門は60年前より大きくなって立派な4車線道路が予科時代全寮制度で使われた興亜寮と武道館の間に新設されて寮、武道館共に撤去されていて一抹の寂しさを感じたが、旧市街は昔の思い出に繋がるものは数えるだけの様変わり、新市街にしても右へならえで数年にして昔の思い出は消えることと思う。

表札

大学本館に向かって右側に掲げられた標札で下記記されている。
大連市重点保護建築物  解放軍406医院
この建物は1903年 日本侵略時に旅順工科大学として使われた。近代的様式の建物である。
大連市の第一級重点保護建築物とする。
大連市  人民政府 2002年1月

大学本館内部2F

左が表側、奥は学長室があったと思う.廊下の広い事、中学(安東)校舎を訪ねて広いと思った以上の広さ、日本内地の建物に馴らされるとその感が強烈だ。セーラー服の水兵から海軍の病院だろう。

本館2階踊り場・毛沢東絶筆

左は大学本館正面入口から2Fへの階段踊り場から左右に分かれて登るようになっていたが忘れてしまった.手すりの塗装は中国人好みになっている。
1Fと2Fの階段の踊り場に掲げられた毛沢東絶筆、下記書かれている。

決起せよ.生を全うする為に疾病を減じて健康になれ、    毛沢東

老鉄山温泉・温泉前のスナップ


老鉄山温泉は温泉の少ない中国にとっては五竜背、熊丘城と共に貴重な存在のようだ。右は温泉前のスナップだが今でも薪を使っているのだろう。

旅順万忠墓及びその説明


旅順万忠墓には明治27年(1894年)日清の役で乃木少将が一日で旅順攻略した際、日本軍が惨殺したと言われる霊が祭られている。
旧市街高台で白玉山を望む処にあって、農園経営の日本人によって手厚く葬られていたもので説明には下記書かれてある。

1894年、日清戦争勃発したが、中国近代史上重要事件である。
   この戦争で旅順口は大混乱、約2万人無垢の同胞が日本軍に殺された。
   満忠墓は悲惨な出来事の証人である。
   以来100年、この出来事を忘れてはならないと旅順口の住人の拠出に
1994年,墓を改修して亡くなった霊を弔うと共に後継者を激励 す。

白髪3000丈の国だ。全ての説明文は反日感情の高揚を意図して書かれてあり、10年前に撫順を訪ねて再び訪ねるものかの気にさせたが、同じだ。 南京虐殺その他日本軍、日本が悪いの全ては反日感情以外の何物でも無いと見て嘆かわしい感だ。

黄海海戦の絵・万忠墓石碑

左の黄海海戦の絵は日本の画家が描いたもので以前内地で見ている、何故万忠墓にあるか分からぬ。右は万忠墓石碑。

水師営会見所門・同入口

右は水師営会見所門、左は入口である。

会見記念写真・手術台・なつめの樹・水師営の歌


一番左は乃木将軍とステッセル将軍を中心にした記念写真である。バックの石垣はナツメの樹と同じ。右2枚目は会見時にテーブルとして使われた手術台、生々しい当時を思い出した。下左は弾丸跡の石垣の中にあったナツメの樹、何代目かになるらしい。下右は最近の人は知らないと思うが、我々年代の人間にとって懐かしい”水師営の会見”の歌詞を載せておく。