おじいちゃんの写真館4


  今回は第56回日本放射線技術学会総会出席の写真を中心に纏めました。中でもシカゴ会と桂川・吉田両教授の祝賀会には出席出来ませんでしたので、その部分は岐阜大藤田教授の資料によりました。有り難うございました。

  私事で恐縮ですが、おじいちゃんは2〜3年前から高血糖コントロールとして毎日1万歩が義務付けられ忠実に実行しておりました。ところが半年くらい前から左足踵が痛くなり医師の勧めで毎日5000歩に減らしましたが、一進一退です。

  総会出席もどうしようかと迷いました。大袈裟な様ですが、子供の頃母の”風邪熱くらいで休む事は許しません。死ぬなら学校で死になさい”と叱られ風邪も吹っ飛んだ事でした。用心したのですが、平均1万2千歩でした。特に後遺症もなく無事に帰宅出来たのは孫達の介護のお陰です。

  ”死ぬなら仕事場で死ね”の母の言葉は強烈ですけれども母の遺言として心に残っております。高年になると腱鞘炎もなかなか直り難いようですが、仲良く付き合って出来るだけ学会には出席したいと思っています。

  画像が上手く入力出来たものからアットランダムに掲載していきます。またちょいちょい更新して行きたいと思っています。ではアルバムを開いて見ましょう。アルバム1・2・3と同じ様に敬称は略させて頂きます。尚、記事その他で誤りや思い違いに気付かれた方は御面倒でもメールその他でお知らせ下さい。

画像

両手に花?。

  女性パワーに囲まれて御満悦のおじいちゃんです。左から事務局の鈴田主任・清水主任・おじいちゃん・平林会長・堤技師長です。”君は女性なのにえらいね。”と言ったら平林君から”それは差別用語ですよ”と嗜められました。言われて見ればその通りで一言もありませんでした。

  この頃男女差別が頓に少なくなって来た様に思われます。昔は”男は男らしく、女は女らしく”のパスカル的な教育が行われていました。この頃男性は女性化し女性は男性化し、中性化して来ていると言われています。男性女性の個性を無くしたいわばデカルト的な物体と化した様に思われます。その内男性の身体を借りてお産が行われる時代が来るかも知れません。”おお、いやですね。”

  事の序でに、臓器移植についておじいちゃんの考えを述べて見ましょう。デカルト派の人は人体も単なる物体と考え、故障した部品を付け替える様に修理する事が当然とされます。一方パスカル派の人に取っては人間の尊厳を守る為、苦しみや死さへも忍んで拒否します。武士は斬首よりも切腹を望み、虜囚の辱めを受けずと自決する事が戦時中パスカル日本の誇りとされました。現代、現実はどうでしょうか。両極端の間をおろおろと彷徨っている様な気がします。夫々の立場から考えて見ましょう。

花束贈呈。

  平林会長(阪大技師学校7期卒)に後輩の堤技師長(阪大技師学校11期卒)から花束の贈呈です。大会長招宴での挨拶の中で”平素男か女か分からない格好をしているので女性らしい服装をして来ました。”と言われるだけあってなかなかセンスのいい容姿には皆どっと歓声が沸きました。五日間に亘る学会大変でした。 お陰様で盛会裏に終わり万歳でした。

  一方堤君は越谷市立病院の技師長です。なかなか研究熱心であちらこちらの研究会や学会に顔を出し、研究発表を続けているおばちゃんです。おじいちゃんから”おばちゃん、おばちゃん”と言われるのは誠に心外な様ですが、学生の時からの呼び名で仕方ありません。”先生の目の黒い間に学位を頂きたい”と言うのが彼女の念願の様です。皆様宜しくお願いします。

清水主任。

  清水主任と新人の古谷事務員です。清水主任とは長いおつきあいです。一番の古株で正に生き字引的存在であろうと思います。したがって鈴田主任と共に何かにつけ頼りにしてお願いする事が多くお世話のかけっぱなしです。時には母の眼差しで、時には姉の厳しさを柔らかなムードで包んで接して頂き常に感謝しております。有り難うございます。何時何時までも宜敷くお願い致します。

寺小屋高弟。

  御存じ小寺教授と藤田教授です。小寺君は宮崎大学卒、藤田君は岐阜大学卒です。放射線技師とは全然関係ない学部を卒業して放射線技術学会で活躍している学者はこの二人くらいのものでしょう。おじいちゃんの系統を受け継いだものと言えましょう。

 小寺君は本学会の編集委員長の傍ら医用画像情報学会の総務理事も勤めています。名古屋大学教授ともなれば多忙を極めていると思われ、研究遂行上の障害にならねばと老婆心ながら心配しております。その上第57回総会大会長として指名されており、彼のタフネスに依るところ大なるものがあります。

  藤田君は30人からなる院生・研究生を抱え研究の推進には好都合だろうとは思いますが、それらの指導管理はこれまた大変であろうと危惧しております。その上本学会の画像分科会長、医用画像情報学会の編集委員長その他CAD関係学会の理事等体が幾つあっても足りない程の多忙さです。御自愛を切に切に祈るのみです。

寺小屋師範代。

  土井教授・山下教授と3人並びました。山下君は阪大技師学校2期卒です。二百数十名の卒業生の内あらゆる意味で最も活躍した人物であろうと思います。勝手に師範代などと称しましたが、技師学校卒で工学の学位を受領し初めて学者としての先鞭をつけた功績は偉大なものがあります。

  阪大医療短大から転出したおじいちゃんの後任として林 周二助教授が任命されましたが、僅かの期間で夭折し、その後任として山下助教授が任命されました。彼はパスカル的な技師学校にデカルト的な基礎を広げる事によって理想的な教育機関を作ろうと努力しました。

  短大はまだ良かったのですが、4年制へ移行時にカリキュラムについて、上層部との間に意見の相違を来たしました。それは従来の技師教育を完全に離れ、デカルト的に全く新しいカリキュラムを主張する上層部との意見の相違でした。彼はパスカル的な専門教育を更に深め、デカルト的な基礎教育を広げる事を強調しましたが、入れられずやむなく川崎医療短大教授として自ら転出しました。

  現在4年制は続々と進行中です。阪大における議論は何れもその立場からすれば正解ですが、どちらが時代にそって正解なのかそろそろ答えが出てくる頃でしょう。土井教授もおじいちゃんも山下君の意見に賛成で、大学技師教育はどうあるべきかについて意見の一致を見たところです。 

撮影分科会長。

  放射線撮影分科会長として永年業績を築いて来られた小川敬寿技師長は、おじいちゃんが画像部会を初めて作った時、同時に出来た分科会でした。これを見ても学会が撮影技術に関して本質的に学会の生命とまで考えている事が良く分かります。”放射線技師にとって撮影は金看板である”は今も変わらない名言です。各モダリティにおける”整位論””条件論”などは今に至るも古くて新しいテーマです。益々の発展を祈念します。

  前越教授は定年後も自称研究所長として相変わらず研究意欲の盛んなところが伺われ頼もしい限りです。吉富局長も相変わらず御元気です。頼りにしています。

大会長が待っています。

  中西省三技師長と砂屋敷助教授です。阪大中西技師長は第58回総会大会長として指名されています。彼の研究熱心は有名で名称を正確には覚えていませんが、血管造影の研究会を組織して長く存続し業績を挙げたと聞いております。

  砂屋敷 忠君は保健福祉短期大学に助教授として勤務し4年制大学として昇格の基礎固めに尽力しました。4年制に今年から昇格しましたが、彼は同時に定年で退職しました。名残惜しいものがあったに違いありません。

やっと世に出ました。

  桂川君とはおじいちゃんが岐阜大学に赴任して直ぐ、当時の仁田助教授からの紹介で専門の物性を画像に変更しての師弟関係が続きました。専修学校から岩手医大へ。シカゴ大学での研修が実り、今回の日本文理大学教授の栄職が得られました。長い間下積みに甘んじての苦労が実りました。本人は”好きな事をやっていましたから”とケロッとしていますが。同じ学校に勤務している稲津君と一緒に寺小屋を訪ねて来た時のものです。

滞米30年。

  今年のシカゴ会は「シカゴ会」並びに「土井先生30歳記念パーティー」として開催されました。一年遅れの還暦としての予定でしたが、土井教授が還暦の祝賀は好まれない様でしたので、滞米30年を記念しての行事となった様です。奥様も招待して歓を尽くした様です。夫婦でシカゴに留学した方々は婦人同伴の出席が多かったそうです。この写真は最後の土井教授御夫妻の挨拶の時のものです。

  土井教授は本第56回総会で名誉顧問を委嘱され、おじいちゃんも後継者が出来て心強い限りです。同時に名誉会員の称号が山下・橋本・山田の各氏に授与されました。遅きに過ぎたきらいがある程です。

御目出度う。

  桂川教授と吉田教授の就任祝賀会です。桂川教授は九大工学部出身、直ぐ岐阜大学助手として勤務、あとは前述した通り。吉田教授は佐賀大理工学部出身、更に岡山大付属診療放射線技師学校卒業、廣島大歯学部助手を経て母校技師学校講師を勤め、現在は広島県立保健福祉大の教授として在籍しています。経歴だけ見ても大変な苦労があったであろうと思われます。お二方とも医学博士です。

  桂川教授も平成14年保険学部増設に伴いそちらに移籍する事が予定されており、二人とも放射線技師の養成に携わる事になります。カリキュラムに関してはその主旨が色々と問題になっており、若くて広い頭脳に期待するところ大なるものがある事を認識して下さい。