アルバム5

おじいちゃんの写真館5


  -マヤン倒る- の顛末は次の通りです。2000.5.15 のお昼頃、ホームページ用の画像を処理していた時でした。急に目の前がグルグルと周りだし、これはいかんと床に伏せました。約15年前静岡で食事中同じような経験があり、その時はソファーで横になっていただけでよくなりました。同じ脳虚血だぐらいに思い、丁度帰って来た家内にかかりつけの医師に電話して来てもらいました。

  直ぐ来てくれた医師も脳虚血だろうの診断で点滴などして帰りました。その後も少しも良くならず頭が重く気分の悪さはひどくなるばかり、その上飲んだポカリスエットも食べたものと一緒に吐く始末。これはおかしいと翌16日の5時頃救急車を呼び搬送を依頼しました。

  医大を頼んだのですが、急を要するとの事で宮崎市内の記念病院に運ばれました。脳外科では直ちにCT・MRI・その他の検査が行われた様です。入院当時の事はあまり良く覚えていません。担当医は家内に”脳梗塞で暫く様子を見ないとはっきりとは言えないが、生命の危険を覚悟して下さい”と宣告され葬式の心の準備をしたと言います。

  家内は私の最後になるかも知れないと思い教え子の中から小寺君に電話しました。”内田が脳梗塞で倒れました。2〜3の人に知らせて下さい”小寺君はさぞ吃驚した事でしょう。早速彼の周りの何人かに連絡をとってくれたそうです。

  入院時の事は良く覚えていないのですが、16日の深夜の徘徊は覚えています。誰かが”おーい、おじいちゃん。おーい、おじいちゃん”と呼ぶのです。幻聴ではありません。誰かが私を呼んでいる。行ってやらねばいかん。そう思った私は雁字搦めのパイプを付けたまま点滴台を押して声のする方へ廊下を進みました。間もなく看護婦が3〜4人飛んで来てベッドへ連れ戻しました。少しおかしい患者がいて、発作を起こすとあのように叫ぶのだそうです。

  見舞い客がぞくぞくと来てくれたようです。私自身今度が最後と思ったのか研究に関係ある人が来る度に囈言の様に語り続けました。見舞い客が帰った後は決まって平素140の血圧が220になっていました。降圧剤の舌下液の与薬を受けた事が何度もありました。24時間点滴のお陰かだんだん回復して6月1日に点滴終わり、経口薬に切り替わりました。

  リハビリが始まり、今までOT・PTなど言葉だけは知っていても実体を知らなかったのが、実際に彼等にリハビリをしてもらい如何に有効かを知る事が出来ました。お陰で6月20日に無事退院する事が出来ました。担当医によれば”当初CT・MRIの所見からこの様に早く回復するのは奇跡に近い。やはり回復しようと言う意欲がもたらしたものでしょう。”

  自宅に帰ってもリハビリの継続の様なもので恐る恐る動いていました。足の悪い家内と二人きりですので、見ても申し訳ない程の気の使いようです。入院中は家内の妹敬子の献身的な看護のお陰で生き延びられた気がします。家内の臨床日誌によれば、如何に気分が悪かったとは言え悪口雑言聞くに耐えない私の言葉が書き連ねられています。恥ずかしい限りです。

  多くの方々のお見舞いを頂き、陸の弧島と言われる程の不便な宮崎までわざわざお出で頂いた方もあり、病中・病後どれ程励まされ慰められたか知れません。ホームページを借りて心から厚くお礼申し上げます。お陰さまで8月の御盆の迎え火・送り火も元気にする事が出来ました。

  また張り切って、皆様のお力に縋って私に残された仕事を無理しないでボチボチ進めようと考えています。どうぞ宜しくお願い致します。終わりになりましたが、担当医師・看護婦・看護補助員・診療放射線技師・OT・PT・その他関係者各位に限り無い感謝と敬意を捧げます。有り難うございました。



  以下の写真は習い初めのデジカメを家内の怪しい手つきで撮ったものの中から適当に選んで掲載したものです。従って順序もバラバラで整理されておりませんが、御寛容下さい。限られた10枚程度の写真ですが、説明文で補って苦しみや喜びを御想像下さい。例によって敬称はついたりつかなかったり不揃いですがお許し下さい。ではアルバム5を開いて見ましょう。     

画像

ベッドで。

  鬼の撹乱と言う言葉がありますが、鬼が撹乱を起こしてベッドに寝ていたらかくやあらんと思われます。平素至って元気に怒鳴りまわしていたと思えない程の神妙さです。5月27日の写真と言いますから、多少病状もましになっている頃の様です。入院当時の事はよくおぼえていませんが、5月13日は義父(家内の実父)の葬式が実家の都城であり、兄妹全員揃っていました。私が入院するというので皆駆け付けてくれたそうです。手続きから身の回りの世話まで有り難い事です。

  限られた通報者の中で5月17日に駆け付けてくれたのは横浜に嫁いでいる娘律子でした。何年振りかの面会で涙を押さえきれない程の嬉しさでした。元気ならばあちこち車で案内出来たものをと、まだぼんやりした頭で考え続けていました。病気が病気だけにいま一番危険な時期で面会はしない方がいいと言うのが医療関係者の意見でした。いま暫くとの思いで見舞いをこの時期遠慮された方が多いと聞きました。律子は家内の案内で2・3箇所行ったようです。17・18日我が家に2泊して19日名残りを惜しんで空港から立ちました。

  5月18日は義弟誠夫妻、5月20日には宮医大の上田技師(研究の話に夢中になり血圧220に上がりっ放し)、同日義妹温子、22日島津の赤間氏など家内の記録によります。見舞い客が見えると多少言語障害のある言葉で喋り続けたのは、意識のある内に思い残す事のないように言って置きたいの気持ちだけが先行していたのでしょう。

藤田教授。

  藤田教授は学会で外国を飛びまゎっている最中にわざわざ宮崎まで見舞いにきてくれました。5月27日経過良好で手術しないで済みそうだの診断で幾らかホッとしていた頃でした。入院初期は言語障害で言葉が良く聞き取れなかったと家内は言います。この頃は大分ましに成っていた様です。教え子に会うと学生時代のトピックスを思い出します。

  彼が大学院院生になりたての頃さっぱり教室に出てこない。癇癪持ちの私は田中助手(現在教授)に”家まで行って引っ張り出してこい”と言った憶えがあります。出て来た彼の言い種は”出て来ても勉強もせず、テニスばかりです。家で本でも読んでる方がましです。”途端に応答が出来ませんでした。その通りだったからです。しかしそれからの彼はキチンと出て来るようになりました。最近聞いた話ですが、死んだ猪俣公章の内弟子になった坂本冬美が当初車の運転手や家事手伝いばかりで、歌は教えてもらえなかった。デビユー直前に指導を受けたと聞きました。味わい深い事です。

吉田夫妻。

  熊本大学医療技術短大の吉田助教授と奥さんです。彼は阪大技師学校12期の卒業で、ヒゴモッコスで有名です。短期留学でシカゴ大学に行った時、土井教授とチャンチャンバラバラをやった猛者です。一風変わっていますが、根は純粋な学問好きな好青年です。現在九州芸術工科大学で学位論文を製作中です。5月27日に見舞いに来てくれました。奥さんは老人ホーム施設に勤めておられるとの事で、私の足を丹念に揉んで下さいました。感謝の限りです。

川村学会長。

  27日に東京から駆け付けてくれた川村学会長です。入院早々お見舞いの花束を東京から送られ、また本日は沢山の果物と過分のお見舞金を頂き恐縮至極でした。公人私人として二重の御負担をお掛けしたと申し訳なく思っております。如何に空路の便があるとは言え抱えきれない程の公用私用を処理しながらの御出張とあれば、余程の事でもない限り出来ない事お礼の言葉もない程感謝の気持ちで一杯です。有り難うございました。

娘婿と孫。

  5月27日、鹿児島空港からレンタカーを駆って来てくれた娘婿小川和好と孫雄一郎です。”孫”の歌にあるように孫は可愛いものです。横浜にいて平素たびたび会えないから余計に情けがかかるのかしっかり手を握り締めているのがわれながらいじらしく思われます。姉弟二人いて姉は亜紀子、弟は達也と言います。今年の夏は宮崎に遊びに行くと言っていましたが、どうでしょうか。  

リハビリ。

  ベッドの上でリハビリを受けているところです。訓練をしているのは木村PT(physical therapist 理学療法士)です。初めはベッドの上でしたが、2〜3回だけで後は体育館の様な広い場所で行われました。小脳がやられているので、平衡感覚の訓練が重要でした。平行してOT(occupational therapist 作業療法士)による訓練もありましたが、異常無さそうで2〜3回で終わりました。

田中・佐井・山田の各教授。

  6月5日3教授が見舞いに見えました。田中教授は岐阜大・佐井教授は新潟大・山田教授は岐阜高専です。それぞれ任地から来て頂いたものです。遠い所からわざわざお出で頂きお礼の言葉もありません。6月1日に点滴が終わり経口薬に切り替わっていました。鬱陶しい点滴のカテーテルがなくなって気分快適、暫く彼等と楽しく話しが出来ました。この日は我が家を建築してくれた身内同様のおつきあいをしている井上夫妻も見えました。

歩行器。

  小脳の脳梗塞は平衡感覚をやられるようです。ベッドから降りても立つ事すら出来ません。木村PTに支えてもらってやっと起立出来る情けない状態でした。人間の回復力は恐ろしいもので、日を経るに従って独りで立てるようになりました。写真の歩行器などに縋ってそろそろ歩く練習です。次ぎは杖をたよりに歩く。次は階段の上り下りとだんだん健常に近ずけます。同病の人々から”なかなか上達が早い”と誉められうれしくて励んだ事でした。

小島学部長。

  6月11日に浜松から小島教授が駆け付けてくれました。本年度から学部長の要職にあり公私ともに忙しい最中に拘わらず来てくれました。彼との出会いから25年以上経ちました。彼をよく知っている私は常々”他に気をとられずに大学の事だけに集中しなさい”と言っていたのが良かったのかも知れませんが、何よりも彼の人徳の致す所と御同慶の至りです。

木谷氏。

  妙なもので同じ教え子でも気楽に話せる人と構えて話す人とあります。何故か未だに分かりませんが、阪大技師学校7期の木谷猪佐夫君は前者に属します。滅多に会えないのですが、会えば彼の好いのどを聞かせてもらうのが一番の楽しみです。私がもっと若ければ、夜行動を共にして楽しみたい所ですが。彼が来てくれたのは6月15日そろそろ退院の声が聞かれる頃です。病状を勘案して辛抱していたとの事です。   

我が家で。

  6月20日無事退院しました。6月に入ってから自宅近所の人々が大勢見舞いと退院お祝に来てくれました。皆に心配かけまいと隣近所には知らせて無かったのですが、何れからともなく知れて御迷惑をかけました。退院直前従姉弟にあたる福岡の艶子姉が長男の車で見舞いに来てくれたのには感激しました。88歳になる艶子姉も大腸を手術した直後だったのによく来てくれました。

  写真は6月29日訪ねてくれた小寺・稲津・松井・飯山の各氏です。小寺君には5月28日にも来て頂いており、連絡その他今回一番お世話に成りました。厚くお礼申します。また稲津君にも5月24日にお見舞い頂いており御心配を一番お掛けしたと存じます。有り難うございました。松井君はまだ車椅子のお世話になる身体に拘わらずお出で頂きお礼の申しようもありません。飯山君ともども厚くお礼申し上げます。

  このように集まって談笑出来るのも健康のお陰、分かってはいるもののつくづく思い知った事でした。