おじいちゃんの写真館6


  −暗い内から起き出して、不平不満を口にせず、働いて働いて夢と希望を大切に、働いて働いて、やっとここまで来たけれど働くだけが人生か、お疲れ様の日本に愛情一本チオビタドリンクーこれはかねてからおじいちゃんが好きなコマーシャルの一つです。そろそろゆっくりしようかなと思っていた矢先でした。新聞にマリンエキスプレスの本社を川崎から宮崎に移転した記念の懸賞募集が出ていました。早速家内に”ついでに出して置いてくれ”と言って忘れていました。

  ところが2月17日にその当選通知が来たではありませんか。吃驚するやら嬉しいやらで本社に確かめましたが間違いありません。宮崎から川崎または大阪の往復しかも一等ツイン客室、乗用車一台持って行けます。約20万円に相等します。これは神の恵みと、家内と9年振りの静岡・浜松訪問の計画を綿密に立てました。ホテルの予約から訪問先への連絡等。7月10日までの期限ですので、船の予約など準備を万端整えました。

  ”好事魔多し”と言う言葉があります。突如として脳梗塞に見舞われた事は”おじいちゃんの写真館5”に詳しく述べられています。そのような経過で6月20日に退院、自宅でリハビリに励みました。余りいい事があるとロクな事はありません。しかし折角のチャンス、40日入院のデメリットを無駄にするまいと、二人で駆け回りました。

  先ず7月10日の締め切りを10月10日に延期してもらいました。キャンセルした船の予約やホテルの予約を再予約しました。これ皆マリンエキスプレスの職員の方々の御好意によって可能になったものです。担当医は”回復は早いが、10日間は長いから十分気を付けて行ってらっしゃい”と注意を受けました。通常ならば、一年くらいは自宅謹慎と言ったところでしょうか。

  お陰様で、出発の段取りは出来ましたが、出発2〜3日前に夜200を超す血圧になったり、体調を崩したり必ずしも安心出来る状態ではありませんでした。しかし、この企画は是非実現したかった。家内の言葉によれば”旅行中に満一の事があっても決行したい”と囈言のように言っていたそうです。反省して見るとボートで明け暮れした青春時代の面影を海原から偲んでみたかったのでしょう。

  主に旅順港内での練習でしたが、1000メ−トル力漕してイージョ−ルがかかった瞬間、船底にぶっ倒れ気を失った様な状態が続きます。船底にピチャピチャという細波の音が天国に誘ってくれる様な快さです。今思い出してもゾクゾクするような青春の一こまです。その他瀬田川での全国インターハイの毎年の思いで、合宿の思いでなど数限りありません。特に旅順大連間遠漕の沈没事故では大学に迷惑を掛けました。

  これらについては”マヤンの呟き”にでもご紹介する事にしましょう。ついでですから、船の紹介もして置きましょう。聡トン数:11560トン・積載能力:大型トラック100台;乗用車90台・旅客定員660名などです。1万トン級の船ともなれば、特等・一等・ニ等(5階級)の区別もあります。その他展望サロン・レストラン・展望浴室・ゲームコーナー・チルドレンルーム・売店などいたれりつくせりの設備です。

  おじいちゃんの今までの船旅は、戦時中6年間大阪ー下関ー大連航路を一年に春夏正月の3回帰省往復と、下関水産大学機関科にいた時一ヶ月オホーツク海にトロール漁業の学生実習の引率で同行したくらいです。トロール漁業の船は500トンでしたが、引率者ですので士官なみのベッドが与えられました。学生の時の船室は板の間に敷物を敷いた粗末なものでした。それらを思い出しながら船室を見て歩きました。

  初めて見る一等船室には驚きました。おじいちゃんは学会でよくホテルに泊まります。そのツインに比べて約2倍の広さがあります。ツインベッド・バス・トイレ・ベランダ・応接セット・冷蔵庫・ドライヤー・TV付きなどが設備されています。特に海原が一望出来るベランダは船旅ならではのものでした。

  今でも学生専用のような板敷きの2等船室がありました。ここでゴロネしたものです。若者がワイワイ騒ぐので寝付かれず、一人で甲板に上がりビール瓶を片手に暗い海を見ながら将来の夢を思い描いたものです。半世紀以上も昔の話ですが、何時思い出しても新鮮で今は亡き友達も現実に話し相手になってくれます。   

  話が横道にそれました。以下の10枚程度の写真は家内が選んだものですが、今回の旅行日誌の様なものです。初めから順番に掲載しています。幸い旅行中は体調も好く、有り難い事でした。9月21日19:30乗船、翌22日16:30川崎港上陸。夕方高速を静岡まで走るのは、不安でしたので、前もって頼んでいた娘と孫の案内で新横浜プリンスホテルに落ち付きました。殆ど家内の運転ですが、さすが疲れてパタンキュウの状態でした。   

画像

旅立ちの日。

  この写真は宮崎港で乗船する船をバックに撮ったものです。海は多少荒れ気味でしたので、船に弱い家内は停泊中に風呂に入ってベッドに潜っていました。私は珍しいので船内を歩き回りました。昔の様にドラの音はしなかったように思いますが、何時の間にか真っ暗な海原に乗り出していました。

  何時もの様にテレビを楽しんで、何時の間にか快い揺りかごに身を任せて寝に付きました。翌日の海は昨日より幾らか凪いでいました。家内も慣れたのか幾らか元気でバイキングの朝食をレストランで一緒しました。私は船には強く学生時代は船酔いで食べない人の勧める食事を頂く事も間々ありました。

  16:30川崎港上陸、出迎えの律子・孫の雄一郎の案内で折からの金曜ラッシュ時を1時間位かかって新横浜プリンスホテルに辿り付きました。家内の運転でしたが、二人ともヘトヘト殊に私はふらっとして立っておれない程の状態でした。夕食は弁当にしましたが、弁当もそこそこにべッドに倒れ込みました。暫くして回復しましたが、豪華ホテルの雰囲気を楽しむゆとりはありませんでした。親父の懐知らずに、豪華ホテルは分に過ぎたものでした。

  翌23日は10:00〜11:00ナビを頼りに横浜青葉ICまで一苦労です。後、高速道は割合楽でした。16:00清水ICで降りて静岡北ワシントンホテルチェックインで一応落ち着き、やっと目的地に着いた安堵の気持ちで二人とも旅の疲れも何のその明日からの予定の再検討です。

富士山五合目。

  今日24日は富士登山の日です。”富士に一度登る馬鹿、登らぬ馬鹿”と言う言葉がありますが、おじいちゃんもその馬鹿の一人です。せめてその半分だけでもと静岡にいた時、五合目までは車で何回もドライブしたものです。折角遠くからきたのに”富士は遠来の客には恥ずかしがって顔を見せない”との言い伝え通りに出てくれませんでした。

  それでも10年足らずの間に道路が整備されたり、富士山スカイラインの料金が無料になったり変化があちこち見られました。この写真は五合目駐車場です。

五合目登山口。

  ここは五合目からの登山口です。昔はここまで登るのに大変な苦労と体力が必要だったようです。現在はここまで車、ここから登山準備をして頂上を目指す事になります。頂上で一泊、ご来光を拝んで下山という段取りだそうです。富士山は下界から見るのが一番美しい。春夏秋冬何時見ても素晴らしい。上空からでも、あるべきところに富士山があるだけでなにかホッとするものを感じるのは日本人だからでしょうか。駐車場の車の中で昼弁当を使い次の目的地に向かいます。   

大妻大学原田教授。

  現在は大妻大学教授ですが、もと浜松大学教授です。社会福祉学の権威者として知られています。おじいちゃんが学部長をしていましたので、その女房役、教務部長を勤めてくれていました。しかも初代でした。一方、曹洞宗のりょう(漢字がありません)厳院の住職を兼務しています。禅宗の厳しい戒律と学問を備えた人物です。今でもいろいろと教えられる所の多い友人と思っています。文通のやりとりはしていますが、10年振りくらいの再会にしばし別れ難い思いでした。

上沢御夫妻と。

  静岡日本平桜ヶ丘団地に住んでいた時家族ぐるみの親交のあった方々です。停年で岐阜大学官舎を引き払ってここに来て直ぐ町内会長に選ばれ、その時副会長を勤めて下さった方です。約120戸足らずの団地でしたが、下水道の完備・集会所の建築などその他多くの問題を抱えていました。町内会長は戦後郷里で一度経験がありますが、100戸以上の纏めは大変です。好く助けて頂いた上沢先生(高校の先生)には今でも感謝しております。

    久しぶりと言う事で松風閣に招待され豪華な昼食のもてなしを受けました。大平洋を眺めながら、尽きぬ思い出話しに夢中でした。帰りはまた上沢宅に寄り、上沢先生のハーモニカソロ(何時の間に習得されたのか)に感心したり、猫談義(何時の間にか7匹も同居)、さらにはこれからインターネットを始めると言うので私の幼い講議など時間が立つのを覚えない程でした。お暇して昔よく行った”麦”で夕食をとりました。そこのマスターが覚えていてくれたのはとても嬉しく思いました。  

孫みたいな直樹君。

  今日26日は日本建築専門学校(4年制)を訪問しました。ここにはおじいちゃんの家を建築してくれた井上棟梁の一人息子が在学しています。縁があって、中学の時から、一週間に一度ぐらい勉強の面倒を見ました。勿論散歩がてらですからボランティアです。親父の跡を継ぐ気持ちの様で棟梁は大喜びです。直樹君も”先生は恐いけど、おじいちゃんみたいだ。”と慕ってくれます。近くで昼食している所です。

  別れて、富士五湖を巡り、ナビを頼りに”エクセル山中湖”にやっと着きました。そこの豪華な診療所には静岡の済生会病院でお世話になった大久保技師・清王技師が活躍していました。お互いに久かつを詫び健在を喜び会いました。夕食は清水IC近くの”いほはら”で松茸料理の初物でした。

文化祭出品。

  写真はチョット後戻りますが、日本建築専門学校では、事務長が学校の隅からすみまでを丹念に案内説明をしてくれました。今日は残念ながら富士は顔を見せませんが、学生達は何時も富士の偉容と春夏秋冬合い対時して勉学に励んでいます。誠に羨ましい限りです。 写真は学校主催の文化祭に出品するミニチュアで卒業作品でもあるのだそうです。後で校長・担任の先生(本校卒業の女性)にも紹介されました。建築業界にも4年制の専門学校があると技師学校の足跡を思い浮かべました。

静岡大学内田 恵教授。

   今日27日は静岡大学に予定しています。約束の10時に教育学部内田教授室(英語学専攻)を訪れました。恵君の父親とは岐阜大学で同僚でした。ほぼ前後して停年退官しました。同姓と言うのは何処かで繋がっているもので、彼の父親とは同姓以上の付き合いをしていました。退官後間もなく彼の父親は不治の病に犯され入院して仕舞いました。

  見舞いに行った私に、声もでない危篤のベッドから手を出して私を拝むのです。私には”恵を宜しく頼む”と言っているのが良く分かりました。”恵君の事は安心しなさい。きっと静岡のお母さんの下へ来れる様に努力します”と慰め励ましました。そして心の中でかたく誓いました。

  いろいろと紆余曲折はありましたが、現在立派な静岡大学教授です。父親も地下でどれほど喜んでいる事でしょう。しばらく教授室で過去の懐古談に花を咲かせました。その後日本平ホテル別館で昼食を御馳走になりました。今日も富士は見えませんでしたが、本当にいい日でした。  

石川教授と村瀬助教授。

  29日今日は朝から私の運転で昔懐かしい小夜の中山を通って浜松大学に行きました。小島学部長は外国学会出張で留守、目的は浜松名物”紅やのミソマン”です。予め中西教授にお願いしてありましたので、手配されていました。阿倍教授も同席してミソマンをさかなにたまりにたまった四方山話しに夢中でした。写真を撮るのを忘れたほどです。

  写真は二人とも常葉学園大学の所属です。おじいちゃんが浜松大学開学の準備として在籍した大学です。常葉学園大学は教育学部と外国語学部の文系大学です。文系大学における理系教員の環境は好い所も悪い所もあります。好い所を生かして伸びる人と悪い所に悩んで屈折する人とあります。何れにしても本人の考え次第で将来が決まるものと考えています。おじいちゃんはどちらかと言えば後者に近かった様に思います。

  どちらがどちらとは言えませんが、二人とも自覚の上研鑽している事であり、将来を期待しています。久し振りしゃぶしゃぶを囲んで未来の素晴らしい夢を語り合いました。

夜泣き石。

  国道1号線の静岡・浜松のほぼ中程に、”小夜の中山”という所があります。おじいちゃんは金曜夜から月曜朝にかけて静岡と浜松を往復していました。丁度中間なのでそこにある茶店で”天そば”を食べるのが楽しみであり習慣にもなっていました。

  その茶店の写真です。ほぼ10年前と変わらぬ風情でした。ここには”夜泣き石”と言うのがあります。昔、盗賊に殺された母親が石となり、毎晩子供を慕い泣いたと言われています。哀れな物語です。懐かしくて茶店に寄ったのですが、お目当ての”天そば”はありませんでした。   

展望サロン。

  ここは特等・一等のフロワ−にある展望サロンです。船の舳先にあるので迫り来る前方を見ながらふんぞり返っています。好い気持ちです。今回の旅は今日で終わります。本当に天地皆様のお陰で総べてかすり傷一つ負わずに予定通り遂行出来ました。感謝しながらふるさとの港に下船しました。

  ”一期一会”と言う言葉があります。茶道の心得をいう言葉の様ですが、一生に一度だけ会うの意で出会いを大切にしょうと解釈されます。おじいちゃんの年になると総べて一期一会の心得で風物出会いを大切にするようになります。今回も素晴らしい一期一会が多くありました。元気でおれば、また来年・再来年と訪れる事が出来ましょう。楽しい夢を乗せてインスパイア−は家路に着きました。