アルバム7

おじいちゃんの写真館7


  ここではおじいちゃんの近況についてお話ししましょう。5月脳梗塞、退院、リハビリなど危なく命拾いして、退院後約3ヶ月ヤケ半分、家内とインスパイア−に乗ってマリンエクスプレスで川崎上陸、静岡に10日滞在、懐かしいアチコチを思う存分走り回りました。帰途は往路と同じ、元気に帰れて幾分自信を持つ事が出来ました。しかし時々血圧の高下が激しく不安に駆られる事がありましたが、信頼する医師の指示を守って用心しています。

  20世紀末、2000年11月28日付けで思いもかけぬ一通の通知書に接しました。それはイオンド大学 日本校 学長からのもので、”名誉博士号授与に関する通知書”でした。内容は”前略。この度、本学の教授より構成される学位授与選考委員会は先生の社会的功労等を高く評価し名誉博士号(社会学)を授与することを検討しておりますので、ここに謹んで御通知致します。後略”と言うものでした。

  晴天の霹靂とはこのような事を言うのでしょうか。特に社会的に功労があったとは自覚出来ませんし、何かあるとすれば、青春を技師学校に注ぎ込み技師教育に集中した事ぐらいです。そして今に至るも日本放射線技術学会に関係し将来の発展を楽しみに生きている自分です。

  とつおいつ考えていましたが、12月16日付けで”名誉博士号授与決定通知書”がイオンド大学 名誉博士号推薦委員会委員長の署名で送られて来ました。後は諸手続きの連絡事項の記載がありました。イオンド大学は米国ハワイ州認可 W.A.U.C.大学連盟認定校です。IOND University の内容・学校案内・入学要項などに関しては次のアドレスのホームページに詳しく記載されています。URL:http://www.iond-univ.org/

  イオンド大学のホームページはIOND Universityをクリックして開いて下さい。

  有り難く名誉な話で、直ちにお受けするべきと考えました。然し乍ら自分の業績が社会学の分野において名誉博士号を受領出来る程の物であるかどうか、疑問であると考えました。そして考えた末、名誉博士号を御辞退する旨の回答をしました。おじいちゃんにとって多くの学者の中から名誉博士号授与候補者に選ばれ決定された事は何より名誉な事であり、それだけで十分の御褒美を頂いた気持ちでした。有り難うございました。心から感謝しております。

  折角の20世紀末残り福を辞退して、後悔めいた気持ちはありましたが、名誉欲を潔く解脱出来たような気分でサッパリ21世紀に突入出来ました。今回初めて知ったこのイオンド大学ですが、ホームページから理解するとおじいちゃんのホームページの問題点に一例として面白い対比が見られます。それは日本の文部省によって定められたデカルト思考による学制とイオンド大学のように文部省の管轄外でパスカル思考による独自の学制を維持している学校があると言う事です。イオンド大学のホームページを精読されて是非一緒に考えてみましょう。

  次は2001年1月24日に行われた第129回MII沖縄学会で沖縄に行った時のスナップです。昨年でしたか、”シカゴ大学でMIIの在外研究会を持ってから約5年になるので、そろそろ次の在外研究会のいい候補地は有りませんか”と土井教授に伺った事があります。彼は言下に”沖縄は如何ですか、私も一度行きたいのですが”と言う事で、早速理事会に計り在外研究会を第129回研究会に振り替えて施行したものです。冬から一度に夏になった様でホテルは冷房でした。同じ日本でありながらハワイに観光に来た様で珍しい風物を堪能しました。

  沖縄には家内の妹が嫁いでおり、主人がホンダに勤めている関係も有り、丸2日レジエンドで島内観光をさせてくれました。風物に見とれて写真を撮るのを忘れる程で楽しい沖縄でした。それにしても米軍基地は凄い面積と設備を持っているのですね。驚きました。

  綾町では3月になると、ひな山節句で賑わいます。綾町では今でも長男の嫁に始めての女の子が生まれると、最初の桃の節句に「ひな山」を作ってお祝をします。表座敷きいっぱいに自然の草木や石やコケ等を使って奥山の風景を作り出し、その中にひな人形を飾ります。これを山が出来たと言います。綾の古老は次の様に言っています。”昔、綾は貧しい農山村で、金のかかるひな壇は作れませんでした。それで親類や隣近所が手分けして材料を採集、持ち帰り金のかからないひな壇を作って清らかな成長を願ったのが始まり”との事、飾る人形も紙人形や粘土の犬だったといいます。この風習は伝統として今に伝わり、写真のように立派なひな山になっています。

  最後に、綾に過ぎたる物ありと言われる「酒泉の杜」の概観と「グラスアート宮崎綾工房ガラス工芸館」の紹介をしましょう。酒泉の杜はおじいちゃんの家から車で約10分程歩いても知れています。主にガラス工芸館の他、綾温泉・綾陽亭(ホテル)・ビール工場・綾ワイナリー・雲海酒造綾工場・南風釜・木工芸館・綾伝統工芸館・綾古美術館などが犇めいています。とても全部は紹介できませんので、ガラス工芸館の展示場の一部だけお見せしましょう。



  例によって、写真はカメラとデジカメの2本立てで腕もお粗末だしカメラもお粗末、中には宣伝写真をスキャナーで取り込んだものもあり余り威張った出来栄ではありません。御容赦下さい。では7冊目のアルバムを開いて見ましょう。

     

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Iond University 日本校。

  この写真はイオンド大学日本校の入り口です。紹介はホームページに譲るとして、ここには学長からのメッセージの抜粋を述べましょう。 「前略。イオンド大学は、現在、行われている伝統的な大学教育を撃ち破るべく、全く新しい方法によって学生の教育を行おうとしている大学です。現在、行われている大学教育の多くは、暗記能力を重視した画一的教育であり、大きな教室に多人数の学生を詰め込み、教授からの一方的な講義により学生の創造的な学習意欲を失わせている面があります。しかも日本の教育で行われている偏差値万能の傾向は、小数のエリートのみを現行の教育体制の勝者として選抜し、この勝者も地位と権力により現行教育を人々に強制しています。

  また日本でも通信制大学が存在しますが、4年間は在籍しなければならず、一定期間のスクリーニングも義務付けられているため、卒業出来る学生は入学者の3%未満の状態です。この教育の現状は、多くの学生の欲求や必要性に応えていない結果だと思われます。

  イオンド大学は、インターネットを使ったパソコン通信を主としたマンツーマンの授業を行い、試験での獲得点数による画一的な成績評価や暗記するだけの学習方法や大学側が学生に価値観を強制する伝統的教育方法を否定し、学生に合わせて教育プログラムを組むという学生の欲求や必要性を重視した新しい非伝統的教育方法をとっております。

卒業式。

  学長のメッセージは続きます。「この点、我がイオンド大学が、これからの21世紀を切り開く多くの人材を育成出来ると自負する点であります。この点を別の面から見ますと、個人の経験と、その学問化ということであります。個々の人間は、日々の経験から多くの事を学習しその学習の中から人生を送る上での必須の「法則」若しくは「体系」を体得した人はいくらでもいるわけです。しかし、その個人的な経験を学問化した人は極めて小数であります。例えば肉体労働者がいたとして建築現場の数々の技術を経験により獲得したとしても、それだけでは経験は個人の物であり普遍化された学問とはいえません。しかし、学問的なアプローチの方法を教えられることによって普遍的な法則として個人的な経験を体系化したならば、その人は自分の人生経験を学問化した事にになりますし、その体系化された経験則は、本人だけではなく人類にとっても普遍の宝物になる可能性があります。そして、体系化された経験は他の人々にも教える事が可能になります。イオンド大学の教育目標は、このように個々人の経験を学問化し、世の中のために役立てることに置かれています。後略。」

  以上が学長からのメッセージの抜粋です。ここの写真は卒業式のようです。画像だけ見ても外国の卒業風景です。イオンド大学のホームページだけ見ても日本の文部省の画一的なデカルト思考でなく、自由な特徴あるパスカル的思考による制度であると認識しました。ハワイに本校のあるイオンド大学の創立の主旨は次のように述べられています。「本学は1999年4月12日、黒須英治博士によって創立され、21世紀をクリエイトする実学重視の世界大学として発展しています。中略。貴方の経験を査定、評価し、学問と経験の違いを教え、個人の経験を人類普遍の宝とすることを目的としています。 NONTRADITIONAL EDUCATIONはアメリカで生まれ、日本で完成した新しい研究・教育システムです。」  

  読めば読む程関心の高まる制度です。一度ホームページを開かれて、このように自由闊達な学位制度が有る事だけでも認識して下さい。我々が如何に今までデカルトの画一的な制度に悩まされ苦しめられて来たか幾分でも知ることが出来るでしょう。

沖縄MII。

   第129回MII大会のスナップです。沖縄県青年会館で行われました。沖縄職業能力開発大学校情報技術科の五籐三樹先生のお世話によって盛会裡に終了しました。写真にみられるようにパラパラのようですが、それでも3、40人の会員が遠い沖縄まで参加されたのは望外の喜びでした。各々お茶のペットボトルを前においての研究会は沖縄ならではのものでしょう。

  懇親会では挨拶を促されましたので、一言病気お見舞いのお礼を申し上げました。皆様と元気に会えた嬉しさからつい少し喋って仕舞いました。それは常常思っている事ですが、”思い込み”と言う立入先生の言葉を引用して、1.スリット法とコントラスト法によるMTFの相違 2.フィルム濃度の滲みの問題 3.可変波長スペクトル撮影などを例にとって思い込みの危険性を強調しました。挨拶は短い方が喜ばれるのは知っていましたが、嬉しさまぎれの失敗でした。   

守礼門。

  かって沖縄には一つの王国がありました。15世紀の前半、戦国時代を勝ち抜いて、始めて沖縄を統一したのが尚巴志。それから1879年の廃藩置県に至るまでの450年間、この島は琉球王国という一つの国家として、独自の文化と歴史を刻んだのです。中国や東南アジア諸国との交易を通じて取り入れられたさまざまな文物から、いわゆるチャンプルー文化と言う独自の文化が花開きました。大平洋戦争では、激戦地となり多くの歴史文化遺産がうしなわれましたが、誇り高き王国の歴史と文化は、今でも確かな足跡を残しているのです。

  写真は首里城の多くの城門の一つで沖縄観光の象徴になっています。「守礼之邦」の扁額が掲げられている事がその名の由来です。武器を持たない守礼の民を意味していると言われています。この写真の中に家内・妹・姪が見えています。

守衛。

  守衛と言うのか門衛と言うのか分かりませんが、首里城の入り口に琉球装束を身につけた見るからに人の良さそうな人物が立っていました。気軽に声を掛けて写真を撮らしてもらいました。何か言われましたが、言葉が分かりません。やはり言葉の通じない外国の感じです。

   沖縄のあらゆる事象は細かい所までInternet Explorer・Netscape Communicat・Yahoo!その他のホームページで沖縄を検索すれば知る事が出来ます。是非御覧になって下さい。  

首里城。

  写真についている説明がハッキリしませんので、再録します。歴代の琉球王の居城だった首里城。第二次大戦で消失しましたが、平成4年(1992)に復元されました。首里城正殿は沖縄最大の木造建築物。唐破風屋根と鮮やかな朱色が独特です。この首里城を中心に、かっての王都・首里には、王国を偲ぶ名所・旧跡が数多く残されています。

  沖縄で珍しかったのは”シーサー(seasar)”と言うお守りでした。魔よけ・厄よけから交通安全お守りにまでなっています。ホテルは勿論めぼしい建物にはこのシーサーと呼ばれる雌雄一対の想像上の動物が立っています。門にも有るし、屋根にもあります。良く見ると獅子によく似ているけど、猫にも似ていて可愛い。雄は2本牙を剥いていますが、雌にはない。沖縄土産に車のフロントにつける交通安全のお守りを沢山買って来ました。

御庭(うなー)。

  北殿は重要案件を詮議した政務の中枢機関であり、册封使を歓待した場所でもありました。册封使はここから御庭の舞台を楽しんだと言います。册封使(さっぽうし)とは新国王が誕生すると、中国から册封使と呼ばれる皇帝の使節が来琉し、その就任を認める儀式が執り行われたと言われています。

  册封式典や様々な儀式が行われた広場でもありました。磚(せんと読む。敷き瓦)というタイル状のものが敷かれ、この縞模様の敷石は、儀式の際に諸官が位の順に立ち並ぶ目印の役割を持っていました。(東西約40m、南北約44m)

  琉球王国がうまれる以前、沖縄には各地にグスクと呼ばれる城が点在し、按司(あじ)と呼ばれる有力者が各々の地域を支配している事から、世界遺産への登録が申請されています。中城城(なかぐすくじょう)・勝連城(かつれんじょう)・座喜味城(ざきみじょう)・今帰仁城(なきじんじょう)など、今も観光の名所になっています。

玉陵。

  「たま うどぅん」と読みます。玉陵は、1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、第ニ尚氏王統の陵墓となりました。墓室は三つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋、創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、西室には、墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られました。

  全体の造りは、当時の板葺き屋根の宮殿を表した石造建造物になっています。墓城は、2442F。沖縄戦で大きな被害を受けましたが、、3年余りの歳月を掛け、修復工事が行われ、往時の姿を取り戻して今日に至っています。

   中に玉陵碑なるものが有り、この碑文は1501年に建てられたもので、玉陵に葬られるべき人々を規定したものです。尚真王外8人の名が記され、この書き付けに背くならば、”天に仰ぎ、地に伏して祟るべし”と結んでいます。碑文には長男・次男の名が見えず、王室内に勢力の対立があり、廃されたと見られています。     

雛山。

  新聞の「地域発信」からひな山について抜粋しました。山と言えば、昔から日本人はそこを神聖な場所と考えて来ました。山はひもろぎであり神座(かみくら)であり、神の居ます場所でした。その神聖な山に初孫の女の子(代理人形)を座らせて、一家の安泰と子孫繁栄を祈って来たものでしょう。

  古代中国の詩歌集「詩経」には、「桃夭(とうよう)」と題する詩が有り、娘が桃の花のように美しく立派に成長して嫁いだなら、きっとその家は栄えるであろうと歌っています。古代、桃には霊力が宿り、女性は豊かな霊力を持っていると考えられていました。

  昔、日本の国名は「やま壱国、やま台国、やまと」でした。神社例祭の山車やみこしも山といいます。その神座や王座には、アマテラス女神やヒミコ女神が座っておられます。このように山を考えて見ますと、ひな山とも無関係ではなさそうです。

お茶ぜんざいの接待。

  綾町商工会女性部は中央通りの三ケ所に伝統のひな飾り「ひな山」を設置。3月4日まで「ひな山まつり」を開いています。期間中の土、日曜日には甘酒が振る舞われるほか、野だて、無料の記念撮影も行われます。

  まつりは町商店街の活性化を図ろうと始めて開催されました。ひな山は横3.6m、奥行き1.8m、高さ約3m。ミカンのコンテナなどで土台を作り、一面にコケを敷き詰めています。七段飾りのほか松竹梅、タケノコ、センリョウ、マンリョウなどを配置、小石を敷き詰めて枯れ山水を表現しています。

  写真は奇特な町内の方々がお茶やぜんざいの接待をしてくれている所です。勿論おじいちゃんも日頃飢えているぜんざいを多少後ろめたい気持ちで頂きました。   

グラスアート。

  グラスアート宮崎綾工房は酒泉の杜の中にあります。ローマ国際美術博覧会で大賞受賞の「光琳」シリーズなどを生み出した「現代の名工」の一人黒木国昭氏主催の工房です。この工房では、息を吹き込んで一つずつ作り上げる製作過程の見学が出来ます。

  展示場では花瓶や切り子のグラスなど鮮やかな作品が並び、販売もされています。写真はその一部屋です。

  夢の世界のように美しく幻想的です。そこに書かれている値段を見てハッと現実に戻り、夢でも見ておこうと諦めるのです。