おじいちゃんの写真館 9


  第29回秋季学術大会は、秋季の学術大会としては初めて日本医学放射線学会第37回秋季臨床大会と合同で、平成13年11月8日〜10日名古屋国際会議場で開催されました。学術大会堀田勝平大会長の挨拶から引用すれば ”合同の開催テーマは「21世紀の放射線診療〜医学と技術の融和〜」といたしました。21世紀の放射線診療を発展させるには、放射線の臨床と技術をお互いに研究し融和させなくてはなりません。特に画像のデジタル化が進み新たな画像表示と画像解析の発展によってより正確な画像診断が期待されますし、核医学分野、放射線治療分野においても大きな進展が期待されます。今後の確実な進歩、発展のために、今まで以上に連携を図り学術研究活動に取り組んで行きたいものです。    中略。   本学会の将来ビジョンについて、昨年度から将来構想特別委員会で検討されており委員会による「教育制度の変革に伴う本学会の将来ビジョン」についてワークショップを企画しました。日本における診療放射線技師教育施設は、現在約40%が4年制大學に移行し、大学院修士・博士課程も既に発足して、これらの教育制度が大きく変革しているとき、本学会が歩むべき将来ビジョンについて討論されることを期待しています。   後略。”となっています。

  おじいちゃんは春の総会には大体出席していますが、秋の学術大会には殆ど出ておりません。今回名古屋で開催される画像分科会は50回目を数えます。年に2回分科会は開かれていますから、通算で25年も継続したことになります。この記念すべき節目を迎えて、秋季大会で初代の画像分科会長であったおじいちゃんに”四半世紀の画像工学研究”と題した記念講演を依頼されました。現画像分科会長桂川教授に”内田先生の研究の足跡を知ることは、日本の放射線画像工学の歴史を知ることにもなり、将来の画像研究の方向を考える上で大変参考になると思っています。多くの会員のご参集を期待しています。”と勧められました。

  堀田大会長の教育制度変革の問題もあるし、殊に桂川・藤田両教授の薦め、もだし難く”建学の精神”と注を付けてお引き受けしました。”画像通信”はおじいちゃんの時と藤田君の時のものはありましたが、中二人の分科会長の時のものが欠番でしたので、藤田君から取り寄せるなど泥縄的でしたが何とか揃えることが出来ました。大局的な傾向を見るにとどめました。また内容については、「評論の広場5」にその概略を述べていますが、「若い頃自分の青春を注ぎ込んだ技師学校への愛着は、他大學へ出向に伴って技術学会へと引き継がれた。それが画像部会である。」と注を付けています。やはり若い頃の情熱は何時までたっても冷めることはありません。

  プログラムの中でも関心があったのは、「将来構想特別委員会ワークショップー教育制度の変革に伴う本学会の将来ビジョンーでした。将来構想特別委員会 前越 久委員長の司会で始められました。その中でも基調講演:本学会向上のための体質改善と題する、シカゴ大學 土井教授の話の中で「かねがね思っていた、我が意を得た。」と賛同する部分がありました。それは「本学会は、定年後の人材を活用していない。ある程度の世代交代はやむを得ないとしても高年者の持つ知識・経験を生かして参考にするべきである。」と言うものでした。政治家の元某役職などが現役と同様に会議に参画しているのを見ても,一考に値する事ではないでしょうか。

  しかし学会は常に若く新しくあらねばならぬというのは学会員全ての望む所です。世に「若気の至り」という言葉があります。若さ余ってとんでも無い過ちを犯す事があります。そこに一人でも高齢者がおればその過ちは防げたものをと悔やまれる事もあります。その事を土井教授は戒められたものと思います。よくよくこの言葉を噛み締めて学会運営の上に反映させて頂きたいと存じます。

  

画像

名古屋国際会議場。

  名古屋国際会議場のシンボルのような馬上の勇姿像です。今まで何回も見たような気がしますから、きっと何度も学会が開催されたものでしょう。国際会議場についてはその由来、故事来歴など知りません。それより名古屋と言えば名大高橋信次教授を印象強く思い出します。それは先生が医用画像情報学会の会長を長く務められ、現在の基礎を作られたからです。その頃総務理事として活躍された佐々木常雄助教授(当時)も最近不帰の客となられました。「放射線像の研究 1.2 」を共同編著した竹中栄一教授も先年帰らぬ人となられました。ここに高橋先生のご逝去を悼む弔詞”大きな星”を再録してご冥福を祈ります。

  ”高橋先生が亡くなった。いまこのように追悼のことばを書いていると、在りし日の先生のことがつぎつぎと思い出されて来る。それも浜松医大副学長、愛知がんセンター総長として功成り名遂げられた時代でなく、一教授でRII研究会の会長をしておられた若き時代のことである。私は一度先生からコッピドク叱られたことがある。RIIの常任委員会を招集して置きながら、その本人が大遅刻をしたときのことである。重々私が悪いので一言の弁解の言葉もない。会長である先生は他の人々の気持ちを抑えるために、ひどく面責されたのである。なかなか出来ることではない。いまだにこの教訓は身にしみて肝に銘じている。

  その頃RII研究会にはよく出席された。先生は医学者であるから、われわれ理工学者の述語もその論理も難解であったに違いないと思うのに、演題の殆どに質問をされた。それも東北弁のタドタドしい特徴ある話し振りは耳にこびりついて離れない。中には見当違いのこともあった。しかし岡目八目と言っては誠に失礼であるが、すばらしい示唆に富んだ意見が泉のように湧き出てくるさまは正に驚きに値した。やはり、先生の画像に対する確固とした哲学が然らしめるところであったのだろうと今になって思うのである。

  私どもにとって偉大な人々が次から次ぎへと欠けて行く。今度も大きな星が落ちた。人間の持って生まれた宿命とは知りながらも悲しみに耐えない。後に続く者は先生の遺徳を忍び、遺産を受け継いで、1ミリでもいいピラミッドを高めて行きたいと心に期するものがある。先生、RII研究会はMII学会になりました。みんなできっと立派な学会にしてみせます。先生安んじて眠って下さい。さようなら。合掌。”

  ”撮影は放射線技師の金看板である”高橋教授の名遺訓と共に忘れられない名古屋です。

画像分科会理事会。

  画像分科会の理事会が開催されています。初めの頃の理事会と異なり、その若返りようは驚く程です。世代だけでなく皆E-mailで連絡を取り合うなどインターネットの時代です。約25年以前の委員もこの程度若かったのでしょう。しかし周りを取り巻く環境が比べ物にならないほど進歩しています。

  次に委員名と所属だけでも紹介して置きましょう。
桂川茂彦:日本文理大学NBU総合研究センター(画像分科会長)
朝原正喜:香川医科大学医学部付属病院放射線部
石田隆行:広島国際大学保健医療学部診療放射線学科
市川勝弘:名古屋市立大学病院中央放射線部
宇都宮あかね:大阪市立大学医学部付属病院中央放射線部
小倉敏裕:癌研究会付属病院放射線部
小田叙裕:産業医科大学病院放射線部
真田 茂:金沢大学医学部保健学科
白石順二: Kurt Rossmann Laboratories
原 武史:岐阜大学工学部応用情報学科
松井美楯:コニカ(株)MG事業本部MIシステムGr
宮地利明:金沢大学医学部保健学科放射線技術科学専攻
杜下淳治:京都医療技術短期大学

  以上ですが、この内半数以上が学位保持者です。25年前では考えられなかった事です。この新しいパワーで新しい画像分科会の発展を叡智を持って進めていただきたいと祈念致します。

聴衆。

  当日の参加者です。知人が沢山見えます。医学会と共催と言うことで多くの久し振りの人々と交歓出来ました。25年前の第一回画像分科会 のことを思い出します。主催側では精々50名ぐらいだろうとの予想で部屋を用意したところ100名以上の参加で大慌て椅子の用意が間に合わない状態でした。大盛況裏に終わった訳ですが、物見半分だったとしてもこの企画は成功でした。現在に見られるように沢山の分科会が出来て全て盛況であるとのこと、先鞭をつけた画像分科会は益々伸びねばなりません。

  殊に最近CADの開発は、医師・技師・理工学者3者協力のテーマとして各方面で取り上げられており、画像分科会もその一環として参加しています。特に医師・理工学者に技師の加わった研究会はこの画像分科会だけです。益々この特徴を生かして発展することを念じております。   

講演者の紹介。

  桂川分科会長が講演者のおじいちゃんを紹介しているところです。紹介に時間をとるのは勿体ないから簡単に済ませて欲しいと頼んで置きました。それでもどうしても長くなります。

     桂川教授の司会で講演をするとは人間の不思議な絆と言うか縁と言うか予想もしていなかったことです。岐阜大学に赴任した頃まだ統合以前で、元傭人の宿舎が割り当てられました。長屋で階下は3畳・台所・風呂場・くみ取り便所、2階は4畳半・押入と一人住まいには十分ですが、なにしろ築50年で倒壊寸前の家屋でした。2〜3年中には新築の官舎が出来るのでそれまでとのことでした。

  桂川君もこの長屋に住んでいました。私は単身赴任でしたが、彼は奥さん持ち、たまには奥さんの手料理の招待を受け、家庭料理の温かさを満喫しました。ある年、大風水害に見舞われました。夜中に誰か梯子をかけて2階に上って来る者がいる。”はて泥棒か”こんなボロやに酔狂な奴もいる”誰か”と怒鳴ると同時に”先生、洪水です。階下の物を2階に上げましょう”と桂川君の声、外を見ると近くの川から流れて来た水が氾濫しています。彼の助力で階下の物を2階に運び上げました。お陰で一睡も出来ませんでしたが、助かりました。

  他に教室員もいたのですが、車を安全な場所に移したり自分の事で精一杯で私の事など手が廻らなかったようでした。それにしても桂川君はよくぞ直接上司でもないのに私を助けてくれたといまでも感謝しています。この様なときに人間の誠意が分かると目が開かれた思いでした。

桂川座長。

  桂川分科会長の座長で講演を行いました。桂川教授はおじいちゃんより二周り年下で同じ酉年です。先年心臓の大手術をしておじいちゃんと同じような薬を飲んでいます。それでも元気いっぱいおじいちゃんを助けてくれました。病後に拘わらず、研究に精魂傾けて取り組んでいます。頑張れ、頑張れと励ますだけです。

  桂川教授との縁も不思議な関わりです。岐阜大学に赴任して直ぐ、仁田助教授から彼の去就について相談されました。その頃自転車で通っていましたが、ある日山道でパッタリ彼に会いました。直ぐ側の喫茶店には入り、事情を聞きました。結論として今までの磁性を画像に代えて研究を続けたいとのこと、望むところと早速大阪の専門学校の教員として紹介しました。

  後は内田ゼミを通して岩手医科大に入り、シカゴ大で研鑽を続け、現在の身分で活躍が期待されています。まだまだ彼の実力からすれば、適当な場所があると思いますが、”実力以下の身分で働く方が、実力以上の身分で働くより心が休まる”と若き頃の私を慰めてくれた人の言葉を思い出します。きっと病を克服して大成する人物だと信じています。  

内田講師。

  おじいちゃんが講演しているところです。ここはインターネットが入っていないとかで、私のホームページをCD-ROMに全部入力してそれを投射するという手順でスライド代わりにして講演しました。CD-ROMに入力から投射まで全て原助教授にお世話になりました。何しろ私の手元にはホームページを作るのがやっとの機材しかありませんし、それだけの能力もありません。原助教授のお陰でホームページの投射は巧く行ったのですが、時間の配分を間違って喋ることが多く時間足らずでさんざんでした。後はホームページを読んで頂こうと神頼みでした。

  講演の内容は予め直前の「画像通信」に載っていますので参考にして頂ければ幸甚です。またこのホームページにも「評論の広場5」建学の精神として写真入りで掲載されています。その安心感があったのか思うことの半分も話す事が出来ませんでした。おじいちゃんにとっては近来にない不出来でした。ご免なさい。

  後に、この講演を聴いた友人からのE-mailで「年に似合わずしっかりした口調で安心した。内容も教育について含蓄深く、これならまだまだ行ける。」と感想を貰い、お世辞半分とは思いながらも何かホットしたものです。ハラハラしていたであろう原助教授・中川院生のお陰と改めて感謝した次第です。

小寺理事。

  小寺君はこのホームページに何度も出ています。今では名大教授、君付けは失礼かと思いますが、学生時代の教え子と言うことで許して頂きましょう。おじいちゃん若き頃、技師学校から宮崎大学へ出向した翌年彼は入学して来ました。4年次の卒業論文は私について書き上げました。以来やかましい私の何処が気に入ったのか卒業後も研究生として私の講座に残りました。

  機充ちて岐阜大学に出向する事になり、彼の処遇を如何にするか問題でしたが、彼は私について岐阜大学に行きたいと言います。優秀な人材であり望む所でもあり共に行くことにしました。私は阪大から宮崎大に来て各方面について思いっきり新しいことを提案し実行しました。歓迎された向きもありましたが、案外反抗勢力も強く5〜6年で中央へ転出するとなれば反感を持たれるのもやむを得ない事だったのでしょう。

  そんな空気の中で私と小寺君はそれでも十数人の見送りを受けて宮崎駅を出発しました。小倉でその頃開通して間のない新幹線に乗車しました。自由席身動きも出来ない程の満員です。小寺君は姫路で下車、岐阜での再会を約して別れました。私も彼も岐阜大では新人です。彼も苦労したであろうと思います。私は私なりの苦労はありましたが、それでも素晴らしい研究環境は補って余りあるものでした。若い頃の苦労は懐かしいものです。ここでまた新しい出会いが沢山待っていました

弟子と孫弟子。

   ご存じ藤田教授と加野亜紀子博士です。加野君はこの度、岐阜大学工学部社会人博士課程を終了し目出度く学位を受領されました。指導教官は藤田教授です。私にとっては弟子と孫弟子になります。おじいちゃんも良い弟子を持ったものです。加野君はコニカ松井部長の門下生と聞いております。

  衆知のように日本の代表的なフィルムメーカーには富士とコニカがあります。シェアーも二分されている感があります。受ける感じとしては富士はデカルト的であり、コニカはパスカル的であると思われます。どうも昔からコニカは商売下手でフィルム事故でもあると、直ぐ飛んでいって根ほり葉ほり原因調査で客を困らせたものです。その点富士は直ぐ飛んでいって平身低頭、客に詫び全品取り替えるという手段を執ります。客は満足します。

  このようにコニカは技術的研究的で、富士は「客は神様」的な体質をもっていました。昔から伝統的にこれは継続されていると思われますが、現在ではどうなっているか知る由もありません。その所為かコニカからは加野君のような女傑が誕生するようです。この頃の女性の進出は目覚ましいばかりです。あらゆる面で。  

木谷君。

  ご存じ木谷君です。学会に出席すると必ず何処からともなく現れて挨拶します。お互いに元気な声を掛け合うだけですが、それだけで十分意志が通じるから嬉しいものです。定年後は暫く農業に励んでいましたが、最近また個人病院だが乞われて勤めているとの事です。彼はまだまだ枯れる性分ではなく、益々良いのどを聞かせてくれる場所で活躍する事を期待します。

  大塚君とは中学か高校で同級生だそうで、常に近しく行き来しているようです。いつだったか「木谷の車に乗るのは命が幾つあっても足りない」」とこぼしていました。聞いてみると「高速で堂々と反対車線を突っ走るんだから・・・・・・」とのこと。何か理由があったんでしょうけれど。笑いながら言ってました。

  彼は酒飲みなので、定年を機に「運転免許をとっては」と勧めました。運転すれば深酒しなくなると考えたからです。これは成功したようです。「その内先生宅まで家内とドライブします。」と楽しい事を言ってくれます。待っています。

中川院生。

  岐阜大の中川院生です。今回初めて原助教授から紹介されました。藤田教授の配慮で病後の私の介添えとして同行してくれたものです。藤田保健衛生の技師学校を出ていて技師の資格を持っています。鈴鹿医療科学大学を卒業して岐阜大学の博士課程に在籍中、来年終了予定の俊才とのことです。おじいちゃんの曾孫弟子に当たるのでしょうか。会場で写真を撮ってくれたり、原助教授と一緒にホームページの投射をしてくれたり、申し訳ない程手助けしてくれました。持つべきは暖かき弟子であるとつくづく感謝しました。   

娘と孫。

  娘律子と孫達也です。名古屋のホテルから横浜の律子に久々に電話しました。遠いところ来なくて良いと言ったのに、末の息子を連れて名古屋空港まで見送りに来たものです。孫の長女長男とは最近会う機会もありましたが、次男達也とは長く会ってないので思いついたとの事です。先ず背の高いのに驚きました。写真の通り185センチあるとの事、高校でバスケットをやっていたのも影響しているのでしょう。千葉の某大學商学部商学科に在学中、英会話とパソコンを習熟しなさいと勧めました。この頃の若者は自由に胸膨らませて、携帯をもって飛び回っています。おじいちゃんの時代と比べて幸せなんだろうかと飛行機の中で考え続けました。