【特 集】

研究今昔

第1回:私の恩師と愛弟子の研究雑感


岐阜大学大学院医学研究科再生医科学専攻知能イメージ情報部門

藤田 広志


この特集は、「本企画は会誌20巻を記念して、学会の中核をなす一人の先生を対象に、その先生の恩師と教え子の方にそれぞれの研究への思いを綴っていただくことで、新旧の研究者の思いを対比したい。」という新編集委員長の発案によるものです。このような企画は他のどのような学会誌でも見たことがなく斬新なものと思います。また、MIIはRIIも含めて40年近い長い歴史があるのでできる企画でもあります。今回は、編集委員長により私が指名され、私の岐阜大学の恩師として本会名誉会長の内田 勝先生が、また、私の岐阜大学における愛弟子として本会理事の原 武史先生が登場されます。

内田 勝先生は、私が岐阜大学4年生のときに、画像の魅力に惹かれて、1年間の卒業研究の研究室として選んだときの指導教授になります。この年に、内田先生は岐阜大学に赴任されたばかりでした。それ以来、修士課程の2年間も含めた学位取得(名古屋大学)までの8年間、大変にお世話になった“怖い(厳しい)指導教官”です。ちょうど内田先生がエントロピー解析を始められた時期でもあり、そのようなすばらしい時期に内田先生に師事できたのは幸せでした。私もすでにその当時の内田先生の年齢に達しましたが、この当時の内田先生の研究に対する真摯な姿を忘れてはならないと思います。時には夜中でも、研究のアイデアについて、“遺言として”しばしば電話が入ったこともありました。この8年間は、私の研究者としての基礎トレーニングの時期で、現在の私の研究者としての大いなる原点になります。学位取得後は、内田先生の推薦もあり、私にとってもう一人の偉大な恩師であるシカゴ大学の土井邦雄先生のもとで約3年間にわたり、研究生活をおくることができたことは、誠に幸せでした。土井先生の指導法は、内田先生とは異なるものでした(また別の機会に)。このシカゴにおける研究は、現在の私の研究思考法の原点になっており、また現在の私のCAD研究の起源になっています。

私が岐阜大学教授に昇格して約7年半が過ぎましたが(助教授も含めた在任期間は約12年)、この間に私の研究室で15名の工学博士が誕生しました。これらのほとんどの方々は大学教官の職についていたり、診療放射線技師であったり、あるいは医療系の企業で活躍しており、まさしく後継の人材として、CADを中心とした最先端の研究に従事し、また本会や医療技術系の学会などでも活躍しています。原先生はその中でも私の岐阜大学における初期の優秀な学生の一人であり、医工学連携として岐阜大学医学研究科に昨年4月に設立された再生医科学専攻の知能イメージ情報部門に私と一緒に移籍し、若手の助教授として幅広く活躍しています。また、本会の新理事のメンバーの一人として、庶務理事を担当しています。原先生は、これまでの多くの機会に、本会や日本放射線技術学会などにおいて内田門下生(さらにはシカゴ会メンバーとも)の多くの諸先生方と接していますので、研究に対する私の恩師の考え方などを後継しているものが自然にあると信じています。

内田先生には、益々お元気で、今後もよろしくご指導を賜りますようお願いいたします。原先生には今後のさらなる活躍を期待します。雑用に振り回されず、あと少なくとも10年(〜15年) は「研究以外はすべて雑用」の精神で、決して現状に満足することなく、いつも研究への情熱を維持して,自身に特有な研究分野を開拓していって下さい。



画  像  人  生

医用画像情報学会名誉会長

内田 勝


 世に“老人は過去に生き、若人は未来に生きる。”とあります。あまり好きな言葉ではありません。どうせ書くなら“老いは歴史に生き、若きは理想に生きる。”と言いたいものです。年齢は高齢者の部類に入っても気持ちでは未だ未だ若い積もりです。編集子から本学会誌発刊20巻記念の特集企画の執筆依頼の連絡がありました。

 希望原稿内容:1。現在の研究に進んだいきさつ、2。研究に対する心構え、3。研究の喜びと苦しみ、4。その他研究に関する雑感、など自由に纏めて下さいと懇切に述べられていました。上記の事柄は、筆者のホームページ※にあらかた載っていますので、ダブル箇所があるかも知れませんが、その際はご容赦下さい。

 先ず現在の研究に進んだいきさつですが、年金暮らしの現在は研究らしい事は何もしておりません。強いて言うならば、「デカルトとパスカル」を取り上げその比較論を中心に現代かわら版とでも言えるものをホームページに纏める事を楽しみにしております。従って現役時代の研究について述べることになります。

 筆者の場合は、現在の恵まれた研究環境の人々と異なり、28〜9歳までの大事な研究適応年代を勤労奉仕・軍隊・生きるための闇屋・中高校の、でもしか先生などで過ごしました。やっと研究らしい職場を得たのは28歳、第二水産講習所(現下関水産大学)でした。それでも魚群探知機のテーマで文部省科研費を戴いて将来に希望を持ち続けていました。本学の助教授としてお世話した先輩が持って来た話ー診療エックス線技師を教育するーこれは大阪大学医学部付属病院放射線科のものでした。“一度教授に会って見ないか”の勧めに、幼稚園から府立今宮中学3年まで在学した大阪に愛着をもっていた筆者は西岡時雄教授と永井春三助教授にお目にかかりました。“医者はわれわれが教育します。君は技師を教育して下さい。”放射線障害で片足切断、義肢の白髪のおじいちゃん、一目で惚れてしまったと言って良いでしょう。“今は文部技官ですが、近い内に短期大学を作りますから文部教官になります。”の言葉は嬉しかったが、現在農林教官で専任講師の身分が一時的にも降格になる。悩みましたが、幸せの女神は囁きました。。“すぐるお前は大阪に行きなさい。きっと青い鳥が待っていますよ。”大阪大空襲の傷痕がまだ生々しい大阪では住居さえ意の如くならず、始めは阪大病院に入院の形で病室に暮らしました。それでも母の遺言“関屋先生(小学校の担任)にすぐるは小学校の先生にしたいと言ったら、それは役不足です。高度の研究職に着かせなさい。きっと大成しますよ。と言われたよ。”が頭の何処かにあったのでしょう。“十で神童十五で才子二十過ぎればただの人”も良いところの年ではありましたが、与えられた技師の教育に無我夢中でした。と言うより技師の仕事を知るのに懸命でした。

 先ず吃驚したのは、技師が患者を一目見るなり撮影条件を即座に決定してスイッチオンしたことです。それでも露出の多い少ないは現像でカバーするという巧みな方法で医師の満足する写真を供していました。従って医師の好みが最優先で、奇妙な医師技師のコンビが生まれる状態でした。筆者が画像にうつつを抜かす事になったのはこれが一番大きな原因です。これは徒弟制度の見本のようなもので、ベテランの撮影条件を盗み見るのに新入りは苦労したものです。ベテランはおおかた撮影直後条件を直ぐゼロに戻して終いましたから。

 これではいけない、誰でも学べば出来る撮影条件でなければいけない。これは科学的な学問になり得る。水を得た魚の様に目標をテーマを見つけた喜びに打ち震えたのを覚えています。しかし画像研究が現在のような画像評価・デジタル画像・CADなどに進もうとは神ならぬ身の知る由もありませんでした。それでも間もなく開発された自現機は撮影条件の恒常化を要請し、科学的撮影条件は日の目を見ることになりました。

 撮影領域に関心を持ち続け指数関数的撮影法と進みました。若いときの畏友山田正光から聞いた“情報理論”が如何にも難解で参考書もなく、原著に頼るしかありませんでしたが、蟷螂の斧とは知りつつも続けておりました。そのころ報告した最大情報量撮影は情報量の意味を掴んでの報告で真のシャノンの情報理論ではありませんでした。

 その頃“アサヒカメラ”で知った“レスポンス関数”は情報理論の勉強を中断させました。光学で評価の武器になるならX線領域でも可能であろうと思いました。果たして光学からの延長で増感紙・フィルムにはその評価にレスポンス関数が利用されていました。機器には未だです。早速“X線管焦点のフーリエ解析”を応用物理に発表しました。続いてあちこちから追試の報告が為され、機器への一角が崩れたのを実感しました。また余勢をかってAmerikan Journalに“Modulation Transfer Functions of the Ionization Chamber”を報告し測定系への適用を実証しました。後はご存じの“ウィーナースペクトル”など粒状性に進みます。

 研究に入っての一つの目標は学位の問題でした。学位は今のように卒業論文的なものではなく、昔は一つの分野を開拓することが必須条件でした。筆者の様な経歴では到底望むべくもありませんでした。微かな望みは持っていましたが、指導教官とて無く、医学部に在籍している身では工学の学位は夢でした。ところが幸運は向こうからやって来ました。技師学校の短大昇格人事に関係し、阪大工学部熊谷三郎教授に人事を依頼に行った時、“君は人の事ばかりやっていて自分の事はどうなっているのだね。一度論文を持って来たまえ。”天にも上る気持ちとはこのことだと思いました。後はトントン拍子で工学博士を受領いたしました。学位を戴いてからは世の中がすっかり変わってしまいました。    

 先ず自分に見合った自信が付いた事です。これからは学者で行こう。遅まきながら研究者として活躍したい、それには大学の職員になり母の遺言を実現しよう。20年近く在籍した技師学校も短大に昇格し、西岡先生との約束もほぼ果たした今、自分の事を考えても良かろうと思いました。満48歳でした。

 何カ所か候補大学がありましたが、大阪でクタクタに疲れた心身を癒す気もあり、また大阪での数々の嫌な事柄を成算する気もあり、最終的に宮崎大学工学部応用物理に決めました。“ここが先生の部屋です”と案内された教授室の椅子にゆったり座って暫し夢心地だったのを今でも感慨深く思い出します。応用物理は新設で初代教授としての雑用が多く、暫くは研究どころではありませんでした。教室の定員は、教授1、助教授1、助手1、技官2の5名です。それらの整備、カリキュラムの整備、実験室の整備など面白いほど雑用があります。少し落ち着いたら、ボート部の新設、医学部の新設、大学院修士課程の新設など大学紛争最中での活躍でした。対外的には迫る国体に向けて、県漕艇協会の新設に精力を注ぐなど暫くは研究そっちのけの事務屋でした。本来の筆者のライフワークと考えている“情報理論の放射線撮影系への適用”は常に頭の片隅にはありましたが、そのヒントさえまだ見当もついていませんでした。雑用に加えて、気候が温暖で、心身が締まらない事もあり、暖かな人情にそのまま埋没してしまいそうな危険を感じました。4、5年経って上記の雑用が一段落したのを機に気候風土の厳しい岐阜大学に赴任する事にしました。今思えば、思い切った決断だったと思います。しかし結果は正解だったようです。所属は電気工学科基礎講座でした。風土気候が厳しいだけでなく東京大阪の中央にあり、研究は正に修羅場と言ってもいいほど活気があります。 

 何より幸運だった事は、ライフワークのヒントが見つかった事です。何げなくよった生協図書で、ふと手にとった「心理学と情報理論」のページを捲った瞬間、総身の毛が逆立つ思いがしました。これこそ自分が今迄求めて得られなかった解析法だったのです。広範な情報理論のどの部分を広範な放射線撮影学の何処に適用すれば良いのか皆目見当も着かなかったのです。心理学にそのヒントがありました。後は気もふれんばかりに研究を進めました。有り難いことに修士課程の優秀な学生が何人も協力してくれました。エントロピー解析と名付けて岐阜大学在学中10年間、応用物理、JJAPに主として発表しました。研究のために選んだ岐阜大学は正に正解でした。今でも感謝しています。

 その頃の大学院生の何名かは研究職に着いていますが、エントロピー解析を発展させて、デジタル画像・CADのテーマでグローバルな仕事で活躍しています。

 定年後は常葉学園大学に在職し、浜松大学の創設に関係しました。2年間は経営情報学部長(予定者)として創設準備にかかり、成立後は初代学部長として創立時雑用に忙殺されました。 学部長職等という役目は正に雑用掛で研究を発展させる術もありません。

 ところが、その頃「ファジィ」という言葉をよく耳にするようになりました。環境的にエントロピー解析など話題にもなりません。しかし何かをの気持ちは離れません。手当たり次第に「ファジィ」の書籍を漁り読みました。どうも「ファジィ」のルーツはパスカルに溯るらしいと気が付き、それならその対比としてデカルトがある筈だと若き日の記憶が蘇りました。それは阪大の短大部にいたときの事、英語講師の東大仏文卒のパスカリアン・京大独文卒のドイツ語助教授のカルテシアンの二人の知己を得ました。研究が好き、議論が好き、おまけに酒が好きで3人は寄ると触るとデカルト・パスカル談義でした。筆者は何時も聞き役でしたが、それでも“方法序説”や“パンセ”を読むのが常でした。その当時は気が付きませんでしたが、今になって見るとその全く正反対の哲学には非常に興味をそそられます。それを意識して世の万物現象を見ると、中々面白い比較が出来ると益々関心が高まりました。放射線領域にも“ファジィ”の考え方を導入する事は非常に興味あるテーマです。殊に撮影条件の設定には“名人芸の再現”として無くてはならない武器です。いいテーマを抱えながら、環境が伴わず残念ながら見送るしかありません。 しかし技師の人々が何人か“ファジィ”に注目して研究を続けているのを見ると頼もしい限りです。

 現在の筆者に出来る事は、ホームページでも作って言いたい放題の事を記事にして世界に公表する事ぐらいしかありません。それでも、“研究がしたくても出来ない環境”に鬱々としている自分の唯一の慰めになる事は間違いありません。 絵も入れました、音も入れました、お暇の折り是非ご笑覧下さい。

 ここまで書き流しの様な文章でお恥ずかしい限りですが、当初に書いた編集子からの要望事項については読者自らが感じ取って戴ければ幸いこれにすぐるものはありません。一通り読み返して見て、以上の記述は筆者の研究面のいわば表だけの事で、それを支えている裏の家庭面については触れておりません。正直に申すならば、筆者は“家庭を犠牲にして研究をした”と言えば些か格好がいいのですが、宮崎も岐阜も単身赴任で通し、それに伴った善悪を全て経験したと言っても良いでしょう。決して勧められる事ではなく、単身赴任など以っての外で、健全な家庭の後ろ盾があって始めて男は良い仕事が出来ると思っております。

 父が家庭的で無かったに拘わらず、2男2女は夫れ夫れ自分の道を逞しく生きております。このような幸せがあるでしょうか。神仏に感謝するのみです。                    

ただ弁解がましい事ですが、一つお断りして置きたい事があります。環境も才能も潤沢な人は、今述べたように、円満な家庭を基盤とし、その上で思いっきり仕事に打ち込む事です。家庭のback upがあつてこそ世の荒波を乗り越える事が出来ると思います。幸せな人です。それに反して環境や才能がどちらかまたはどちらも欠けている人はそれこそ必死になって仕事にしがみつくしか方法がありません。そのためには環境を犠牲にしてでもその分仕事に励む事です。筆者の場合も特に才能もありませんので、環境(家庭)を犠牲にして研究に打ち込んだと言えば格好が良いのですが。単身赴任させてくれた家庭にこそ感謝すべきでしょう。

 粗稿はこれで終わりたいと思います。“終わり良ければ全て好し”という言葉があります。まだ終わりとは思っておりませが、この言葉の如くありたいと念じております。    

最後に諸氏の更なる健康と更なる研鑽を祈って止みません。


(URL:http://www.mnet.ne.jp/~s-uchida/)


写真:若き内田先生と藤田先生(1980年1月撮影)
[注釈は編集部による]

 

写真:内田先生と研究室の仲間(岐阜大学時代、軽井沢のテニス合宿、1976年7月撮影)
[注釈は編集部による]



研究をはじめて10年

岐阜大学大学院医学研究科再生医科学専攻知能イメージ情報部門

原 武史

 画像の研究を始めてほぼ10年が経ちましたが、内田先生の研究歴とはまったく比較にならないほどわずかな経験しかありません。この特別企画の依頼があったのには、「そんなに研究歴がないのに」と恐縮しましたが、その未経験さも重要かもと考え、これまでのことを書き記したいと思います。
 まず、私が画像の研究に進んだいきさつです。私は、地元の普通高校から一 浪して岐阜大学工学部へ進学したある学生でした。大学での成績は芳しいはずもなく、大学卒業には1、2、3、3、3、4年生と学年が進み、普通の学 生よりも1。5倍の年を必要としました。3回目の3年生のころには、「まだ 学生をやっているのか?」と周辺からうらやましがられることも多く、ほとんど毎日アルバイトに精を出す典型的なアホな学生でした。今でも当時は何を勉強していたかを考えるとほとんど思い出せません。しかし、大学の授業中には居眠りをしたことはありません。授業では、電磁気ではマクスウェルの方程式を学び、電子・電子回路では演算子法による微分方程式の解法を学び、複素関数では留数定理の意味が分かりませんでした。もっとも、「授業に出て寝るくらいなら、授業に出ない」、と強く決めていましたので、出席しなかった授業が多かったのです。これは両親に謝らないといけません。もっとも今思えば寝ながらでも授業に出れば授業で身に付いたことは多かったのかもしれません。

 当時の岐阜大学工学部では、4年生の時点で卒業研究の配属が行われました。卒業研究を行なわなければ当然卒業はできません。そのころは、言語処理、画像処理、光・電磁波シミュレーション、離散数学、音声・計算機、計算機言語、電磁波・磁界解析、VR・画像処理の8つの研究室がありました。そ この中から自分の行きたい研究室を選ぶ必要がありました。そのころ藤田先生は岐阜大学への着任2年目で、留年中の授業ではたしか3年生にはディジタル信号処理、4年生には画像処理を担当されていました(当然、3年生の私は 単位申請だけの幽霊学生です)。顎髭をたくわえた風ぼうは印象的でした。

 さて、そのような研究室の中から卒業研究を行なう研究室を選ばなければなりません。まずまっさきに画像処理(藤田先生)を選びました、としたいところですが、実はそうではありません。もともと音声・計算機に興味がありましたので、最初はその方向の研究室を希望していました。そして、2回目の3年生のときにはその研究室へ仮に配属されました。が、結局遊びの虫が直らず、1年棒に振ってしまいました。そして、3回目の3年生のときによく知っている同級生がいることから藤田研究室を選びました。記事にもならないつまらない理由ですが、これが私の現在の研究に進んだいきさつといえるでしょう。

 これで、晴れて画像処理の研究を始めるようになりました。そのころの藤田研究室では、ディジタル系の画像処理と画像評価を行なっていました。画像処理の研究では、ニューラルネットワークによるノイズ除去フィルタの作成、骨りょう解析、SPECT画像の解析などを行なっていました。また、ディジタ ル画像のウィーナスペクトル測定なども行なっていました。私が最初に取り組んだテーマは、心筋SPECT画像の評価システムの構築でした。そこでは、 昔の同級生(研究室では先輩)と一緒に作業を行ないました。具体的には、ニューラルネットワークで判定した病名の結果とSPECT画像を提示して、読影者の判定がどのくらい変化するのかを測定するシステムを構築しました。システムを共同研究者の病院へ送り、その結果をフロッピーディスクに保存してもらってこちらで解析するというものでした。概ね1年間以上この研究を行ないましたが、これを通じて、研究の組み立て方のおおまかな流れ、他人との協調作業の重要性、機材の設定の必要性、そして何よりもまして、研究のテー マとそれに取り組む機会を得られたうれしさを感じることができました。

 その後、大学院博士前期課程、後期課程と進み、博士後期課程を9ケ月で退学して、幸運にも岐阜大学工学部の技官として就職することができました。そのころの研究は胸部単純X線写真における結節状陰影の検出法の開発と、乳房X線写真のためのCADシステムの開発でした。研究室のスタッフとなったことで、研究室の卒研生、大学院生などの研究進捗に個別に関わるようになってきました。ここでは、いきなり学生の立場から教官の立場に替わったわけですので、かなりのプレッシャーがありました。いわば、藤田先生と学生さんの間の中間管理職で、それは勉強になりました。多くの学生さんは非常にまじめに研究に取り組み、乳房X線写真と胸部X線写真のためのCADの研究テーマについてたくさんの課題をいっしょに解決することができました。しかしながら、なかには、私には理解できない行動をとったり、会話も成立しないような方もおられて、その対応にはかなりの時間を無駄にしたと思います。絶対的な命令系統のない研究室の運営での難しさを感じました。そんな頃に、博士の学位取得が次の目標となってきました。これは、修士を卒業後4年を過ぎて学位申請ができるようになったためです。それまでの研究をまとめ学位論文として提出し、工学博士の学位を得ることができました。それまでの研究内容を振り返るよい機会であったとも考えています。現在は、出身学部の工学部から離れて医学研究科へ移籍しましたが、いままでの研究テーマをさらにすすめて研究を行なっています。 

 このように、画像の研究を始めてほぼ10年が経ちました。そして、研究を続けてきたよろこびは、なによりまして多くの優れた人と研究について議論ができたことです。藤田広志先生をはじめ、ここに名を挙げますと、国立名古屋病院・遠藤登喜子先生、愛知県がんセンター病院・岩瀬拓士先生、堀田勝平先生、名古屋大学・小寺吉衞先生、津坂昌利先生、名古屋文理大学・松原友子先 生、新潟大学・佐井篤儀先生・李鎔範先生、岐阜高専・山田功先生、福岡大輔先生、畑中裕司先生、ほかにも、とてもとても多くの先生方がおられます。一学生であった私が研究者として認められようとしているもっとも大きな理由は、それら先生方とさまざまな議論ができるからであって、そして、紐解けば 内田先生が築きあげられた研究分野と人材であるということに気づかないわけにはいきません。最後に、藤田広志先生からは、学生時代から研究機会のみならず、さまざまな活動の機会をいただいています。ここに心から感謝の意を表します。

写真:学位授与式における藤田先生と原先生(2000年9月撮影)
[注釈は編集部による]