パスカル


 パスカル(Blaise Pascal,1623〜1662)はフランスの科学者・宗教家・文学者である。中部フランスのクレルモンに生まれる。父は税務関係の地方行政官であったが、数学その他の科学にも造詣が深く、当時の教養ある法服貴族の一典型である。パスカルが8歳の時、父は長官を退職して一家でパリに行き、メルセンヌの主宰する科学アカデミーに出入りする。パスカルは早熟の天才で、特に数学に秀で、はやくから父と共に科学者の集会に出席した。

 16歳の時「円錐曲線試論」を発表し、射影幾何学における「パスカルの定理」を明らかにした。17歳の時、一家はルーアンに移る。そこでパスカルは父の徴税業務を軽減する目的で史上初の計算機を製作した。また真空に関するトリチェリの実験を知るや、真空の存在を確証する種々の実験を試み、「パスカルの原理」を確立した。

 しかし、科学研究と並行して23歳の頃、宗教界に深い関心を持ち、「第一の回心」と呼ばれる宗教的自覚を体験する。24歳パリに戻り、28歳にして父を亡くし、宗教的情熱の減退をもたらす。反面、社交界の人士との交友を通じて「幾何学的精神」とは異なる「繊細の精神」で人間を観察する事に開眼する。同時に科学研究も精力的に続行しフェルマ−と共に「確率の問題」を論じ、その成果として「数三角形論」(1665)を著した。

 しかし、やがて心の空白を自覚するに至り、ついに「第ニの回心」と呼ばれる宗教体験を得て、信仰に一身を捧げる決心をした。以後彼はポールロァイヤル運動の同調者となり、最大の敵、イエズス会のたるんだ道徳観を攻撃して世論に一大センセーションを巻き起こした。その最中、寄宿生であった姪にある奇跡が生じ、この事に神意を読み取った彼は、やがて自由思想家に対してキリスト教の真理を明らかにする「キリスト教護教論」の構想に辿り着く。

 晩年のパスカルは、病気に悩まされながら求積問題を解決して、微積分学の先駆的業績を挙げた。また慈善事業の資金作りのために、パリに最初の乗り合い馬車の会社を設立する等の活動を行った。最も力を注いだのは「護教論」の執筆であるが、著述は完成せず、そのノートだけが残され「パンセ」として彼の死後出版された。

 パスカルは、科学技術者としては、権威を根拠とするスコラ自然学を排して、実験と推論を重視する実証主義的姿勢を主張した。同時に象徴主義を否定して科学研究は現象の原因と結果の繋がりの究明にあると断定した。しかし、宗教と人間の領域においては、逆に復古主義的神学を信奉した。ヒューマニズムと合理主義に妥協しようとする近代合理主義に反対し、象徴主義的見方に基ずいて人間存在の意味を探究した。

 パスカル以後、非合理主義、人間の主観性の問題は、それが生産力の増大に何ら寄与しないために、資本家階級には取り上げられなかった。もちろん、社会主義にも相手にされなかったけれども、近代合理主義が開花し続ける道の傍らで、キェルケゴール、ハイデッカー、サルトルなどに受け継がれ現代に至っている。

 パスカルに始まる近代非合理主義が主張するところは次のようである。
 デカルトの分析的に対してパスカルは総合的、客観的に対して主観的、量重視に対して質重視、物質的に対して精神的、理性的に対して心情的、普遍性重視に対して個別性重視、演繹論理的に対して帰納実験的と対比する事ができる。

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