マヤンの呟き

( おじいちゃんの独り言)

内田 勝

 デカルトとパスカルの哲学と言うには余りにも幼稚な記述から始まって、学会の紹介・綾町の紹介・おじいちゃんの写真館・評論の広場と続けて参りました。皆様からいろいろな反響を戴き嬉しく思っております。ここに、私の人生の過ぎ来し綾なす物語りを駄尾としたいと存じます。題して”マヤンの呟き”、これは宮崎県の銘焼酎の名前で県北地方の言葉です。”マヤン”とは”おじいちゃん”という意味です。

 始めはおじいちゃんの家に伝わっている一つの物語りからにしましょう。それは”三池の六曾呂、七張った”という言い伝えです。私も村の古老から聞いたことです。私の何代前かは知りませんが、九州一円でも頭株の大親分”三池の六曾呂”と言う侠客だったそうです。六曾呂は”寄る年波には勝てず”で九州一円の親分衆に”引退博打大会”の開催を呼びかけました。当日は九州一円の名だたる大親分衆が三池村に集まって時ならぬお祭り騒ぎだったそうです。

 物語りはこれからですが、肝心の”みけのろくぞろ”は七ばかり張って負け続け。今までの財産も無くなるばかり、子分は勿論のこと他の親分衆も”六曾呂さんもいよいよ耄碌したか”とこれ幸いと遠慮会釈なく取り上げました。いよいよ財産もあらかた無くなり、最後に残った家・屋敷・田畑全部を賭けました。しかも最後も”七”を賭けました。親分衆も我も我もと賭け金全部を賭けました。

 盆が開かれました。おお!!そこには”七”が出ているではないか。 皆吃驚しました。勿論いかさまです。一座はいきり立ちました。おっとり刀で六曾呂親分に詰め寄りました。その時、親分慌てず騒がず”勿論いかさまです。しかし七が出た。今まで私が七を賭けた時、親分衆はそれを咎めず私の賭け金を取ったではないか。今何故それを咎める事が出来るか。この勝負は私が貰った。”この理の通った弁舌には二の句が告げず、親分衆は全賭け金を取り上げられて帰ったと言います。

 六曾呂親分は莫大な賭け金全部を子分や村の人々に分け与えたと言います。そして村人から推されて庄屋として長く平和に暮らしたと伝えられています。この話を信じているわけではありませんけれども、母がとても情け深くて人助けしているのを子供心によく覚えています。やはり血は争えないものだと自己反省する事があります。

 順序としておじいちゃんの幼児時代からかい摘まんで話して見ましょう。私にとっては自分の事ですから、苦しい思いで楽しい思いでに拘わらず関心がありますが、第三者に取っては面白くないかもしれません。その節はどうぞ飛ばして読んで下さい。また人名には敬称を略させて戴きました。

1)幼少年時代・青年時代

 多難の母一人子一人の幼児時代を”事実は小説より奇なり”を地で行く様な軌跡を辿りました。これらは後年の私の性格に大きな影響を与えた事は否めません。母の私に託した希望に、私は幼稚園も小学校も中学校も応えて努力しました。4修で国立大学予科に合格。在学中、家庭教師をして苦学しながらもボート遠漕で沈没あわやと言う経験や、腸チブス感染危篤になるなどこれでもかこれでもかと言わんばかりの苦境に耐え、無事卒業出来ました。

 考えた末、当時大学院特別研究生と言う徴兵延期の初めての制度に応募し、合格しました。ところが第1回だったので、文部省と陸軍省の手続き不備の為、招集が来て熱河省の承徳に現地入営しました。 当時、大学卒は色々な優遇制度がありましたが、全然受けていなかったので、二等兵新兵として入隊しました。ペンしか握った事のない私には新兵教育はこたえたのか、生来の眼球震盪が高じて入院しました。大学院特別研究生の手続きミスが判明した事もあり、福岡陸軍病院で除隊になりました。

 大学の好意で大学院研究生として席はありましたので、無事大学に戻ったものの1年近く遅れを取ったその当時、勉学意欲を無くし、電気鉄道株式会社に入社しました。電気課に配属されたものの、 大阪大空襲で家も会社も丸焼けとなりました。空襲で運転手の欠勤が電車の運行に支障を来しておりました。私は運転課に転属を希望し短期間の教習で運転業務に着きました。当時は潤滑油が無く、松根油で代用、煙を出して電車が走ると言う珍現象でした。

 そして敗戦です。名張の運転手控え室で呆然と灼熱の田畑を見ていた記憶があります。今夜からは電灯を明るくして過ごせると言うのが真っ先の喜びでした。それからは毎日、嘘か真か分からないデマに悩まされました。”国破れて山河あり”という言葉がありますが、母の一人待つ故郷大牟田の生家に帰りました。母の望みで結婚した従姉弟と長男・長女まで同居でした。

 当時村の一角を占領して村の牛などを徴発していた中国人集団に、私のたどたどしい中国語が喜ばれ、徴発を免れた事を多として、24歳で町内会長に祭り上げられたりしました。その頃九大教授として転任しておられた恩師金原 誠教授から連絡があってお目にかかったのが私のその後の人生を方向付けました。始め恩師から”私の講座の講師に来ないか”との夢の様な話に有頂天になりながらも、到底数学で身を立てる自信はなく、ご辞退して女学校の教師として教育界への第一歩を踏み出しました。
 
 女学校から中学校へ、中学校は高等学校へ制度改革、高校から下関第二水産大学校へと出向しました。やっと研究と言う言葉が切実に響いて来るようになりました。女学校在籍の時から九大工学部電気工学科で副手として研究に馴染んではいましたが、時間の制約もあり遠い存在でしかありませんでした。今度は仕事の一部です。オーツク海にトロール漁業学生実習で、揺れる船室でも今までの遅れを取り戻そうと一心に勉強していたのを思い出します。

 その頃、大学ボート部で一緒にオールを握った仲間で、神戸の大会社の組合委員長として活躍し、クビになった先輩がいることを知り、応用化学専攻を幸いに紹介しました。丁度空きがあり、採用されました。その彼が話を一つ持って来ました。それは大阪の大学先輩が懇意な阪大の西岡教授から、X線技師を教育してくれる人を探していると言う話でした。君行かないかとの事、一度会う事になり、西岡時雄教授と永井春三助教授にお目にかかりました。西岡教授は白髪の片足を放射線障害で失った童顔のおじいちゃんでした。父を知らない私は堪らない親近感を覚えました。

 身分は農林教官から文部技官に降格になる。しかし近い将来には技師の短期大学を作る予定であり、そうなれば文部教官になりますとの事であった。帰ってからも考え続けました。人生の大きな分岐点であると感じていました。たとえ身分は降格になろうとも将来に希望を持って阪大を選ぼうと決心しました。大阪は未だ敗戦後5年、焼け野が原もそこかしこ、住居も無い、生活苦も目に見えている時代でした。我ながらよく決心したと希望に燃えた若者の強さをまざまざと見る思いです。

 この分岐点での選択に運命の女神は微笑んでくれたのかも知れません。望んでも得られなかった研究に一筋に打ち込む環境が出来た訳です。正に背水の陣で突進しました。今までの経歴を背負っての行動であって見れば、技師の教育は正にピッタリの仕事であったのかも知れません。 

 さていよいよ本題には入りましょう。私が放射線領域に入ったのは1950年9月でした。したがって、それより以前の事は聞いたり読んだりしたことで実感はありません。私が勤務した阪大病院では既にガス管球は陳列棚にあるだけで、現場では 5×5mm のクーリッジ熱電子管が幅を効かせていました。しかし全国は広いですから、何処かには未だガス管球が使用されていたかも知れません。其の当時は画像などというシャレた言葉も無く、X線撮影とかX線写真とか言われていました。現像も皿現像で撮影条件はオーバー気味にして現像で濃度を調節するのが常識になっていました。

 しかもこれを読影(その頃は読影とは言わないで検像と言っていましたが)する医師側にも問題がありました。すなわち、医師個人の好みが激しかった事です。濃度の濃い目の好きな医師・反対に薄い目の好きな医師・コントラストの強い写真・弱い写真などなど枚挙にいとまがないほどでした。其の当時の技師はそれらの要求に忠実に応える事が良い技師として重宝がれていました。私はこの姿を実際に見聞して、果たしてこのような状態で満足な診断が可能であろうかと身の程も知らずに憂えたものでした。

 撮影条件にしても技師は夫れ夫れ名人芸に類する条件を持っていて、秘中の秘として医師の好みと密着して大事にしていたものです。ベテラン技師は患者を一見するなり距離・電圧・電流・時間をサッサと決めて”ハイ、息を止めて”で撮影完了。直ちに条件を元のゼロに戻してしまう。従って新入りの弟子はカンから来るそれらの条件を覚えるのに一苦労も二苦労もさせられたものです。いまから考えるとウソのような話ですが、本当の事です。

 初めて技師室に入った私が新鮮な感覚で思った事は"撮影条件を名人芸でなく、誰でも学べば出来る科学的なものにせねばならない"と言うことでした。画像の善し悪しなどまだまだ先の話で、其の当時ソロソロ噂になり始めていた自現機に対応するためにもコンスタントな写真が必要とされていたからです。其の考えにピッタリ呼応するかの様に、綱川の係数撮影法が脚光を浴びて誕生しました。私も負けじと指数関数的撮影法を競合させました。1951年の頃です。

 面白い話があります。30cmの物差しに指数関数的撮影法で計算した厚さ・電圧・電流・時間などを書いて外科撮影室に備えて置きました。大変便利がられて、喜ばれましたが、直ぐ無くなって何回作り直したか覚えない程です。厚さを測って条件調べるより物差しをあてがうだけで条件が分かるので重用されたものでしょう。

 放射線技師の研究についての関心がこの撮影条件を機に急に高まって来た事は間違いありません。その後暫くは撮影条件の開発、検討の時代が進みます。自現機の全国的な普及および技師学校の誕生(1952年)がこれらの研究に大きな貢献をしたことは言うまでもありません。その頃2年がかりで西岡教授の技師学校(始めは短期大学)設立のお手伝いをした甲斐あって、国立では初めて認可されたものです。同時に私立では従来からあった島津のレントゲン技術専修学校が制度化されました。

 従って、研究よりも新制度の技師学校のカリキュラム・教育方針などに時間を割かれる事が多くありました。しかし、一般個人病院では技師は下男、看護婦は女中と同じような待遇からの脱皮であって見れば、その教育に情熱を注いだのも不思議ではありませんでした。私より1年遅れてこの方面に入って来た宮永一郎ともよく技師の将来について語り合ったものです。従来の技術員の救済措置として診療放射線技師の資格付与のため特例試験が施行されることになり、その準備講習会に引っ張りだされる事も多くありました。

 レントゲン技術専修学校の滝内校長と”特例試験に落ちたら教員を止めねばならないね。”とお互いに話しながら受験したことも懐かしい思いでです。準備講習会の先生が落ちたでは格好が着きません。幸い合格して面目を保てましたが。あれやこれやで暫くは研究どころではありませんでした。

 しかし、その頃欧米では20世紀にとって画期的な理論が育ちつつありました。1946年、ブザンソン大学のディフュー(P.M.Duffieux)による"フーリエ変換とその光学への応用"であり、1948年BELL電話研究所のシャノン(C.E.Shannon)による"情報理論"でした。戦後からレンズ王国である日本のカメラ業界は逸速くフーリエ解析を導入してレンズ設計の合理化に努めました。情報理論の具体的な利用は通信に始まり電算機利用の情報工学として発達しつつありました。

 放射線領域へのこれら理論の導入は驚くほど早いものがあります。フーリエ解析の導入はキャノンの佐柳和雄による”X線直接拡大撮影の最適倍率”(1957年)です。これは応用物理の”寄書”に掲載されたため、関心をもつ放射線技術学会会員の知る所とならなかったのは誠に残念でなりません。佐柳は東大応用物理出身の優れた理論家で、若くして亡くなる前にMII研究会に出席してそれとなく皆に別れを告げた事が後になり分かり、感涙にむせんだものでした。彼は学会がMII研究会と言っていた頃の第1回研究会に、既に報告をしている位早くから研究会発展に協力してくれました。そして委員として大いに活躍した人です。

 情報理論の導入についてもその述語が初めて現れたのは内田による”最大情報量撮影”(1959年)です。情報理論誕生から10年経ってはいましたが、まだまだ情報という言葉は”スパイ”と同義語くらいにしか考えられていなかった時代でした。私が情報理論の言葉を知ったのも畏友山田正光のお陰でした。いい友を持って幸せであったと今になってつくづく懐かしく思い出します。従って、フーリエ解析も情報理論もしばらく暗黒の時代が続きます。

2)壮年時代

 その頃、技師学校の安い月給(高校教員同格)で、東大理学部本田教授が主催される”X線管協議会”に出席するのが唯一の楽しみであり、励みでもありました。ある協議会の時、中堀孝志が”お蔭様で工学博士の学位を戴きました。有り難う御座いました”と挨拶されるのを聞いて”いつかは自分も”と帰りの汽車賃を考えながらも自分を勇気付けたものでした。

 おじいちゃんは予科時代からカメラがとても好きでした。戦時中の学生時代は勿論、困窮の戦後も到底手に入れる事は出来ませんでした。せめてともとアサヒカメラを毎月愛読していました。或る号のニュースに”レスポンス関数”と言う言葉が目につきました。何だろう。レンズの性能評価尺度だと言う事が分かりました。”これはいけるぞ”と直感の様なものを感じました。光学系で発展しつつある評価尺度ならば必ず放射線工学系にも適用可能だと新しい開発に胸躍る思いでした。

 それからは光学系におけるレスポンス関数の文献を虱潰しに調べました。その頃池田の大阪府営住宅に住んでいましたが,驚いたことに近くの大阪工業技術試験所に村田和美博士と言う権威がおられる事が分かりました。レンズのレスポンス関数測定器を初めて作られた事で有名でした。早速お目にかかり、いろいろと光学系におけるレスポンス関数の役割などお伺いし、放射線工学系への導入についてのご意見を賜りました。後程出来たRII研究会にも特別講演をお願いしたりご援助戴きましたが、ほどなく北海道大学教授として赴任されました。

 情報理論の放射線工学系への導入が初期の目標でしたが、確立系を根底とするエントロピーを駆使しての本格的シャノンの情報理論の導入は成功せず、概念的な導入に止まっていました。3年遅れて金森仁志の論文も同様な導入でありました。ここで、既に光学系に導入が成功している”レスポンス関数”の適用が大きなテーマとして浮かび上がって来ました。まず目を付けたのは”X線管焦点のレスポンス関数”でした。技術員室で、”光学におけるジーメンスチャートの様なものを鉛で作れないかなあ”とそれこそ独り言の様に呟きました。

 器用な人でないと出来ない仕事です。 驚いた事に2〜3日してからでしょうか、遠藤俊夫技官が”先生これで如何ですか”と増感紙の薄い鉛を放射状に切ってガラスに張り付けたそれこそ世界で初めての鉛ジーメンスチャートを差し出したのです。欣喜雀躍、早速2〜3倍拡大撮影しました。そこには光学と同じく、これこそ偽解像だと言わんばかりにチャート像が得られているではありませんか。増感紙とかフィルムのレスポンス関数は光学系感光材料からの類推で適用は容易ですが、X線管焦点まで可能となると放射線機器・材料への適用が開けて参ります。

 ここに特記せねばならないのは、1964年に発足した放射線イメージ・インフォーメーション研究会(RII)の事です。”X線管焦点のフーリエ解析”の研究を機として、それまで光学の延長として進められていたX線フィルム・増感紙などの分野と共になって研究会を発足させました。個人的にはロスマンなどの早いフィルムに関する研究もありますが、研究会としてはおそらく世界で最初のものでしょう。そしてこれは、20年の歴史を経て現在の医用画像情報(MII)学会へと発展します。

 RIIの活動につれてMTF・WSなどの手法が放射線領域の各要素に活用され、多くの新しい業績が次々と樹立されました。画像工学という言葉が人々の口に上る様になったのもこの頃からです。当初、情報理論を医学放射線領域に導入する事が目的であったRIIでしたが、本格的なエントロピー解析の導入が困難で、観念的に情報量を把握して定量化したに止まっていました。従って、早くから実用されていたMTF・WSなどの手法が先に放射線領域への導入に成功したと思われます。

 自分を振り返って見て、当時放射線領域で何にでもMTFとかWSが適用出来そうなところには使って見たという感じでした。その頃はまだ大局的なフィロソフィーを持ってはいませんでした。研究に乗っている時は案外そうなのかも知れないと反省しています。今、CADの研究が其のような立場ではないかと考える事があります。ただその頃は、今までの様に”一定濃度の軟部組織の中に白い骨部が出ている様な写真”を得る条件に満足しないで、どのような画像が良い写真なのかを追求しているという意識が優先していたように思われます。

 特に専門の指導者を持たず、研究費も無く、フィルムとかX線装置位しか自由にならない技官の環境ではありましたが、研究意欲だけは旺盛で身の回りにある材料で何とか研究らしい実験を続けておりました。学者として身を立てるにはその資格として学位を戴く事が必須でした。この事は常に頭にありましたが、工学の学位を考えていましたので、医学部病院に在籍していてはどうにもならない状態でした。それどころか、技師学校の教務主任の入学・卒業・就職などの雑務、短期大学創設の人事などとても学位など考えるゆとりもありませんでした。ただ業績だけは溜めて置けば、何時かは役に立つだろうと考えていました。

 どうしたらいいだろうかと焦っているときには煙りも見えなかったチャンスが、短期大学創設の人事に携わった時の忙しい最中にやって来ました。短大人事は教養と放射線学科の二部門を担当しました。理工学関係の教授・助教授候補を依頼するため正月元旦に比叡山ホテルに静養中の熊谷三郎教授に電話で恐る恐るお願いしました。前述の様に成就は出来ませんでしたけれども、大学院特別研究生の指導教授でしたし、その後一度もお伺いもしていませんでしたので、叱られるのを覚悟でした。

 後で愛媛大学学長になられただけあって、快く協力を承諾され、”一度来なさい。君は人の事ばかり世話して、自分の事はどうなっているんだ。”とのお言葉、嬉しくて嬉しくて熱いものが胸にこみ上げて来ました。早速今までの目ぼしい論文を持参してお伺いしました。暫く応用物理・JJAP・American Journal など5〜6冊をご覧になっていましたが、”これだけあれば行ける。応物の鈴木教授を尋ねて行きなさい。私から電話して置きます。” どのようにして家に帰ったか覚えない程でした。

 それからは鈴木教授のご指導によって学位論文まとめに一心でした。冗長な文章の削除・仮名使いの訂正・学術的表現への改良など、初めての指導者とも言える先生の言葉は一つ一つ身に染みて感ぜられました。昭和42年(1967年)11月29日16:30から公聴会でした。審査は18:00から18:40まで行われ、”どんどん手続きをお進め下さい”との鈴木教授主査からの合格報告でした。この時の喜びは今にいたるも一生忘れられるものではありません。翌43年2月15日、学位論文、工学部教授会全員賛成票で決定しました。しばらくはあちらこちらの先生方に報告がてらお礼回りしたことはいうまでもありません。満46歳の春でした。

 1964年に発足したMIIも3年目を迎えいよいよ軌道に乗っていました。放射線機器・材料などのメーカー側の研究も、空間周波数解析の積極的な導入、電算機など情報工学による全面的な改革によって、機器・材料の見違える様な開発が続きました。空間周波数解析における評価が放射線機器・材料に与えた刺激は素晴らしい開発・改良を生みました。1972年のCT・1973年のMRI・1980年のDR・1981年のインバーター式高電圧発生装置・1986年のCRなど電算機による機器の開発は目を見張るものがあります。この様に20世紀末に至っての放射線領域の爆発的な発達は正に画像評価とのシーソー的な競合であったと考えても良いでありましょう。 

 一方、情報理論の導入に関しては、1958年から59年に亙って一年間毎月、日放技学会東京都支部会誌に”情報理論とそのX線撮影系への適用に就いて”と題して連載しているところを見ると、少なくとも55年位から勉強していたものと思われます。しかし、残念ながら概念的には理解出来ても、確率を基礎とする本格的なエントロピーの導入は困難でした。確率に代わるべき量を用いて情報量を定義したりしましたが旨く行きませんでした。その内に研究の本流は空間周波数解析に移り、何時しか情報理論は遠くなっておりました。その頃(1969年)身分は宮崎大学の教授として単身赴任しておりました。宮崎大学では工学部に新設された応用物理学科の建設中であり、時しも学生運動の真っ盛りでした。研究出来る雰囲気ではありませんでした。

 幸い文部省短期在外研究員が回って来て、アメリカ・スエーデン・ドイツに一カ月づつ勉強に行ける事になりました。アメリカではシカゴ大学のロスマン教授の研究室にお世話になりました。ここには後年ロスマン教授の跡を継いでロスマン研究所の所長になった土井教授が未だ講師でいた頃でした。ロスマン教授は”レスポンス関数で画像評価の城を作りたい。”と主張し、私は”エントロピーで画像評価の殿堂を作りたい”と強調しました。お互いに近い将来を約して別れました。

 次ぎはスエーデンのルント大学カールソン教授の研究室です。アメリカと違ってここは静かな瞑想的な雰囲気でした。レスポンス関数などの放射線領域への導入はまだまだの大学で私の知識が喜ばれました。殊に囲碁の指導で夜は引っ張りだこでした。日本ではフリーセックスで有名でしたが、外国人の私には表面的になんの変わりも見えませんでした。シカゴでもそうでしたが、ここでもルントを去るお別れ会は心温まるものでした。アメリカは活動的で生き生きしていましたが、ここスエーデンは対照的に静かな国と言う印象でした。激動のミュンヘンとは露知らず次の予定地ドイツに向かいます。

 ミュンヘンの空港に降り立ち、途端に途方に暮れました。シカゴでもルントでも迎えが来てくれていました。前以て連絡してあるので来てくれていると思い込んでいました。覚束無いドイツ語でホテルを探し一夜泊まりました。翌日調べてミュンヘン大学ショーバー教授の研究室に向かいました。驚いた事に私の来訪が2カ月前の連絡だったので、忘れていたとの事で平謝りに謝られました。ドイツ入国は幸先が悪かった様です。

 放射線領域へのMTF・WSの導入は盛んで流石と、大いに同好の士を捕まえては討論を重ねました。研究では成果がありましたが、運悪く二つの事件に巻き込まれ、9月末帰国を余儀なくされました。一つはカフェでビールと称してボラレた事、一つは交通事故でミュンヘン大学病院に10日ほど入院した事です。あまり楽しい話ではありませんので詳しい事は別の機会にお話ししましょう。

 この短期三カ月の外国研修は私にとって人生観を見つめ直し、世界観を構築する素晴らしいものでありました。帰国してからも情報理論の導入は進展を見ず、大学内では医学部の新設・ボート部の新設・県では漕艇協会の新設などに走り回っていました。気候温暖・人情温和その上競争心が無く平穏無事な日常は研究心を鈍らせる結果となっていました。医学部も医大として設置が決まり、ボート部も対外試合をするまでに成長し、県の漕艇協会も国体に向けての準備も出来る様になりました。5〜6年経っていました。そろそろ自分の研究の今後を考える時期に来ていました。

 何時も心に思っていると何時かは機会が訪れるものとは考えられませんけれども、岐阜大学と名工大のチャンスが巡って来ました。岐阜大学を選びました。ここで長年の懸案であった情報理論を放射線領域への導入の端緒が得られるとは思いもしませんでした。厳しい気候の土地柄だけあって、宮崎とは打って変わって激しい情熱は、学問的にも一途な研鑽を追求する雰囲気でした。

 ある日、生協の図書部で”心理学と情報理論”と言う翻訳書を何げなく手にとって見ました。鳥肌が立つとはこの事でしょう。”これだ!”といくらも読み進まない内に目から鱗が落ちる思いでした。いままで頭の中で組み立てられていた情報理論の導入計画が一度に開花する思いでした。この様にして放射線技術学における画像評価は、MTF・WSなどの空間周波数解析を基調としてエントロピー解析を導入しました(1978年)。これは明らかに情報理論の放射線領域への導入であって、通信系とは異なる独自の開発でした。これによって、いままで殆ど正確さだけで評価されていた性能に対し、精密さ(ばらつき)からの評価を対等に認めた事に大きな意義があります。

 更に画像の最後の評価は人間の知覚であるという観点から、ロスマンが導入したROC解析に対し、このエントロピー解析は同じ目的にもっと広い範囲で適用を可能としました。エントロピー解析は空間領域に置ける総合評価ですが、金森・松本は空間周波数領域で導いた”情報容量”(1968年)を発展させて、1982年に”情報スペクトル”の概念を提案しました。これは医学物理学国際会議(1985年)のシンポジウムで取り上げられ、新しい総合評価法として学会人の耳目を引きました。

 1975年〜85年の10年間の岐阜大学時代は私に取って研究論文の黄金時代でした。業績集を見てもこの間には論文が鮨詰めに並んでいます。環境・教え子に恵まれた事も幸いしました。時代は1980年代にはいり、今まで殆ど定常状態の評価が行われていたのにたいし、非常に困難な非定常状態の評価が、反省として浮かび上がって来た時代と言えるでしょう。

 被写体が入って無い定常状態の評価法は出揃いました。それならそれが被写体が入った時の評価にも通用するでしょうか。このような原始的な質問にたいし、いままでのROCは一つの解答を示しています。しかし、それは noise limited signal に対してだけのものです。画像はバックにノイズをもつ淡いシグナルだけではありません。一般の被写体を含む画像にROCを適用させようという試みもありますが、まだ権威ある学会の認めるところとはなっていません。

 それなら、一般の被写体を含む画像の評価はどうなのでしょうか。1981年、稲津はエントロピー解析の延長として、冗長度の概念をエッジ像に適用して非定常画像の評価に挑みました。そしてあの有名なロスマンの針とビーズ玉の写真評価の定量的な証明に成功しました。そのほか、反転現像、増感紙−フィルム系の評価にその威力を示しました。 
 
 続いて1982年、情報理論の中から系列依存性が抽出され認知度の概念が定量化されました。系列依存性と言うのはもともと心理学に活用された概念ですが、それを画像の認知度に結び付けたものです。”一次元の文章は系列依存性が強いほど分かりやすい”と言う性質を”二次元の画像は系列依存性が強いほど認知度が高い”と置き換えただけです。

 ”いかにMTFが悪かろうと、WSが悪かろうと、私の望む部位がよく出ているこの写真が良い。”と豪語する臨床医に対して技術者は何ら応えるすべを知らなかったのです。被写体を含む画像には、視認しやすいという認知度による評価が重要です。この認知度の定量化には多くの困難な問題が存在します。その一つに個人の知覚の問題があります。それを記号系列の系列依存性と言う性質によって、巧みに回避したところに情報理論のひらめきを見ることが出来るように思われます。この認知度の定量化は画像評価に大きな要素の一つを加えたものと言えるでしょう。

 1978年、エントロピー解析の放射線領域に初めての導入は放射線画像のディジタル化を示唆するものでもありました。1985年、岐阜大学を定年退官するまで卒論性・院生の論文指導は殆ど空間周波数特性とエントロピー解析によるものでした。時代はディジタル画像に急速な勢いで変身しつつありました。其の当時の卒業生の数名は約15年経った現在、放射線ディジタル画像の権威者として活躍しているのを見ても頷ける事でしょう。

 ディジタルX線画像の研究もアナログ画像と同様に、その画質特性を正確に理解することから始まります。X線診断画像の基本的な画質の特性には、入出力特性・解像特性・ノイズ特性の3要素があります。夫れ夫れ、特性曲線・MTF(Modulation Transfer Function)・WS(Wiener Spectrum)で表す事が出来ます。また、信号対雑音比の点からNEQ(Noise−Equivalent Number of Quanta)やDQE(Detective Quantum Efficiency)も使われています。基本的にアナログ画像で用いられて来たこれらの評価方法が適用されています。これらの研究が精力的に行われました。

 1985年頃からコンピューター支援診断(computer aided diagnosis:CAD)に関する本格的な研究が始まりました。この臨床への実用化ははかばかしくはありませんでしたが、1998年6月にR2テクノロジー社のマンモグラフィ専用のCADシステムがFDA(米国食品医薬品局)から販売の許可を受けました。これによって乳癌の集団検診にCADシステムを利用する事が出来る様になりました。日本でもこのシステムは薬事申請中との事です。 

 CADの研究及び実用化はシカゴ大学の土井邦雄教授が世界的にも中心になって進められて来ました。日本でもシカゴ大学土井研究室に留学研鑽した若い学徒によって、CADの研究は続けられ評価されています。今では放射線技術学の中でも確立した分野を占めています。おじいちゃんの弟子・孫弟子が何人もこの方面で活躍しているのを見聞きする度に嬉しくてなりません。

3)熟年時代

 1985年岐阜大学を定年退官してから、1年間は大学の非常勤講師で過ごしましたが、縁あって常葉学園大学教授として再び教職に就く事が出来ました。教育学部理科に属していましたが、自分一人で研究は思うに任せず、2年後に予定されている浜松大学の学部長予定者であって見れば管理的な仕事で研究とは迂遠になるばかりでした。常葉学園大学に奉職した年に大変な事が起こりました。

 妻がバイクで倒れて右大腿部を打撲したのが原因で、静岡県立病院・宮崎県立病院を経て国立福岡中央病院で右大腿骨盤離断手術を受けました。肉腫という事で一時はどうなる事かと心配しましたが、転移が認められないとの事で薄氷を踏む様な安堵感でした。8カ月振りに静岡に帰宅しました。長い入院生活で疲れ、鬱になっている妻を励まし元気付ける為に医師と相談して車の運転免許を取る事にしました。身障者ですので、自動車学校のバスが自宅まで来てくれるとのこと、それならと私も一緒に通う事にしました。

 人に”66歳と言えば車の運転を止める年だよ”と言われながらもセッセと通い続けやっと運転免許をものにしました。妻も鬱を振り払って元気になりました。またおじいちゃんも新設浜松大学学部長のストレスを車で払い飛ばして6年間無事に務める事が出来ました。車が運転出来るようになって、二人共世の中が変わったように感じられました。暇さえあれば富士の裾野・伊豆半島など駆け巡りました。楽しみが一つまた増えました。

 その頃、ファジィ推論が実用化され、一大ブームが巻き起こりました。このホームページの中心になっている”デカルトとパスカル”は、ファジィのルーツはパスカルであるという事に起源を発している事はご承知の通りです。浜松大学初代学部長として6年間管理職を務めましたが、その間文系大学の中での理工学実験などは叶いませんでした。

 デカルト思考とパスカル思考の比較ひいてはファジィ推論によるX線撮影条件の設定などについて細々と考え続けていました。哲学的な雰囲気で理工学全般・社会問題を比較検討する楽しみを覚える様になって来ました。研究テーマも年齢によって変遷するものです。重箱の隅をほじくる様なテーマから大きく大局的なテーマに変わるようです。

 平成4年浜松大学を定年退職しました。続いて静岡理工科大学客員教授として籍を持ちました。同時に静岡の住居を売却して、宮崎に終の棲み家を求めました。約1年かけて綾町に家を新築しました。平成5年です。綾南川が崖下50mに見える見晴らしの良い自然林の中です。空気も良く鳥の囀りが珍しく、広々とした土地は何物にも変え難い風情です。終の棲み家として夫婦二人とも最高に満足しています。

 その頃、Windows95 が出ました。浜松大学でコンピューター概論を講義していた関係で関心がありましたので、早速セットを購入し直ぐのめり込みました。まずはE−mail,多くの友達と簡便に通信のやり取りが出来るので筆が遠くなる欠点はありますが、安い事と留守でも意志を伝えられる便利さが有利です。次にホームページのサーフィン、これがまたとても楽しい。
 
 その内自分でもホームページを作りたくなりました。しかし現役を引いた今、内容を何にするか何年も呻吟しました。uploadも簡単ではありませんが、原始的な方法で忠実に実行すれば出来ます。問題は内容です。そこで悩みに悩んだ末”おじいちゃんの寺小屋”として内容は”デカルトとパスカル”の比較を一般社会現象に適用して見るというものです。それだけでは堅苦しすぎますので、カラー写真を入れて柔らかく休める部分も作りました。

 平成8年に医用画像情報学会会長を辞任したのを機に静岡理工科大学客員教授も辞任しました。会長を辞任した後も名誉会長として役職に留まる事になり、責任の重大さを痛感しております。思えば1964年から99年まで今年で35周年を迎える本学会は多くの実績を残して来ました。学位の基になる多くの論文を育て、若い学徒の研究発表の場として親しまれて来ました。今後も多くの後輩達によって語り継がれ成長して行く事を祈っています。

 おじいちゃんの若さを全身込めて育てた技師学校も、今では博士過程が予定されている立派な大学として存在しています。昭和27年(1952年)に誕生した技師学校は47年経って現在を迎える事が出来ました。それにともなって、技師の社会的身分も高まり50年前とは比較にならないほどの向上振りです。技師学校創設時に苦労された西岡教授・滝内校長その他多くの関係者は地下できっと大喜びしておられる事しょう。

 予定ページ数も少なくなりました。終わりに昭和61年オーム社から出版の”放射線画像工学”の序論に書いています二つの”将来の展望”の行く末を中心に少し蛇足を加えたいと存じます。

 始めは”画像伝達系”の問題です。そこではフィルムの銀の枯渇によっても人間の目の並列伝達系に相応しい並列伝達系の受光系(フィルムの代替物)の研究開発を希望しています。これはディジタル画像の開発に伴い、CCDの適用が解決してくれそうな様子です。二つ目は撮影条件の問題です。いかに素晴らしいCR・DRであっても受光物質に含まれていない情報は再生する事は出来ません。情報が僅かでも含まれていれば、これはDRなどによって認知出来る様にする事ができます。
 
 ここではX線スペクトルの問題を提案しています。即ち、任意波形X線スペクトルの製作と適用です。一つの被写体を50kVと140kVの二つの線質で撮影して合成スペクトルの結果を吟味しています。明らかに単独管電圧による撮影結果とは異なる画像が得られたと報告しています。それからもう40年近くなっていますのに未だ実現の火種もありません。残念としか言いようがありません。

 ”撮影は撮影条件に始まり撮影条件に終わる”と言う名言があります。このX線スペクトルの問題が解決しない限り、撮影条件は終わらないと断言して憚りません。現在トピックスのCADについても、体内情報が細大漏らさず含まれいるフィルムであってこそ、その機能を十分発揮出来ると考えられます。撮影条件で残るはこの合成X線スペクトルの問題だけです。是非世人の関心を喚起したいと思います。 
 
 最近ディジタルX線画像の開発に伴い、離散フーリエ変換・ウェーブレット解析などが利用され、多くのディジタル技術の基礎がその導入を考えられています。曰く、ファジィ・ニューラルネットワーク・フラクタル・カオス・遺伝的アルゴリズムなどです。この様な技術は現在多用されている訳ではありませんが、今後X線画像の分野に利用されるものと思われます。

 以上おじいちゃんの独り言を長々と呟きました。幼少年時代・青年時代の苦労話・壮年時代の活躍話・熟年時代の充実話など、私は自分の事ですから飽きませんが、寺子の諸君は欠伸が出たかも知れません。その節はお許しください。兎にも角にも今現在は、ドライブとインターネットで自然に囲まれて幸せに過ごしております。いろいろな経験を書き記して残す事が今のおじいちゃんの唯一の仕事だと思っております。感謝・感謝の毎日です。

 予定ページも大体尽きたようです。未だ未だ呟きたい事は山程あります。それらは纏めてまたの機会に”マヤンの呟き2”として披露させて戴く事にしましょう。