おじいちゃん再び

内田 勝


  今日は2004.12.5.です。このホームページの筆を折ったのは2003.10.3.でしたから、もう1年以上経っています。多くの尊敬する人々を失ってその悲しみから、時の助けのお陰でまだ健康でおられるのを感謝しつつ自分を意識しています。

  2004年4月の横浜学会に出席した折、中国学会会長の燕先生にお目にかかり、若い頃旅順に6年間在学した経験を持つ私は懐かしく、つい話しかけしばし写真を撮ったり雑談に興じました。その折”懐かしいしチャンスがあれば、是非お伺いしたい。”に対し”是非実現しましょう。”のやり取りがありました。

  お別れして何時とは無く忘れていましたが、9月その時の李先生(通訳)から連絡がありました。それは、10月29日山東省衛生学校での講演と翌30日の山東省衛生学校50周年記念式典での祝辞でした。行事予定日までやっと1ヶ月、言葉の問題は教え子の新潟大学教授佐井篤儀君に頼むとしても講義・祝辞の準備やら旅行手続きなど現在の体調で大丈夫だろうか。随分気を使いましたが、”これは最後のご奉公だ。”向こうでぶっ倒れてもいいと覚悟を決めました。

  佐井教授のエスコートの確約から講義・祝辞の準備、旅行手続き・日本放射線技術学会への連絡など毎日毎日目の回るような忙しさでした。それでもなんとか行く準備が出来ました。足が痺れていて時にはふらつく事もあり、体調は決して万全ではありませんでした。佐井君の支えのお陰でやっと今回の行事を全うする事が出来ました。

  旅行社の計画では、福岡・北京・済南・上海・福岡の各空港経由で用件をこなすものでした。10月27日の朝、福岡空港を発つ事になっていたのですが、天候が悪く、用心して26日から二人とも福岡泊りでした。27日福岡空港を発ってから帰国までは佐井君の手記を元に記録します。 

  旅順工大予科在学中は正課として当時の標準語(北京語)を1単位として学んでいましたので、卒業時には覚束ない中国語を読み書きできました。現在は如何でしょう。語嚢は簡略化され、台湾生まれの中国人である佐井君ですらなかなか難しいと言います。簡単な日常会話程度をおさらいする程度が関の山でした。

  今から60年以上前の話しで変わっているのは当然で、蝿がたかっている食べ物はご馳走だと言って喜んで現地人は食べていた時代でした。殊に清潔好きの日本人は好きになれない民族でした。ところが如何でしょう、今回の訪問ではホテルをはじめ北京・上海・済南だけしか知りませんが、立派なものです。写真でいろいろお見せしますが、日本と同格いやそれ以上と言ってもいいほどの品格です。出来るだけ写真を掲載して理解に勤めたいと思います。しかし聞くところによると貧富の差が激しくて、奥地には民度の低いところも多いと聞きました。日本のように安定した平和な国に居住している事を限りなく幸せに思った次第でした。

  では始める事に致しましょう。    

画像

左は”燕、李先生、右は佐井教授と

  左の写真は2004・4の学会でお眼にかかった時の記念写真です。右は同行してくれた佐井教授と記念に撮ったものです。4月学会では燕会長と李先生を案内して医療機器展示場をご案内してお別れしました。私の学んだ中国語では全然通じない事を知りショックでした。

10月26日

  午後の航空便で博多へ向かう。旅行社の指示通りビジネスホテルにチェックインする。夜10時頃佐井君ノックして入室する。明日からの打ち合わせを十分行う。

10月27日

  予定通り国際線で福岡ー北京へ。飛行場で旅行社の方が出迎え、午後4時にホテル着。その後、山東省衛生学校教員李さんがホテルで待ちうけ、タクシーで”天壇”の見物をする。夕食は北京で最も有名な北京ダックの店”全驟徳”で馳走になる。北京で最高の店だそうだが、香りが私の口に合わず全料理同じ香りで私には旨いとは思えなかった。私の口が異常だったのかも知れない。   

  

北京


  左の写真は山東省衛生学校の教員李さんを囲んで撮ったもの。右は天壇の写真です。天壇の写真には俯瞰図がありましたので、掲載します。

  教員李さんは済南市からわざわざ私共を出迎えに北京に来てくれたもの。我々の滞在中ずっとエスコートしてくれた有難い人です。天壇公園は観光案内によれば、

  ”天壇公園は、北京の南端にあり、明代の永楽18年(1420)に建てられ、面積は約273万平方m。明・清時代に皇帝が天を祭り、雨を希求し五穀豊穣を祈念するところであった。天壇は中国最大の壇廟建築である。その建築仕組み、建築装飾は、中国建築史上に重要な地位を占めているばかりではなく、世界では現存する古代建築の珍しい遺産でもある。祈年殿は天壇の主体建築である。天壇は1988年に国連ユネスコに世界文化遺産に指定された。”

  とあります。27日は旅行社のパックの四ッ星ホテルで宿泊しました。日本人は四ッ星ホテル以上に泊める事になっているとの事で日本では上等の部です。。

  朝食はホテルで。その後李さんの案内で紫禁城(故宮)見物に行きました。

10月28日


紫禁城


  下図の平面図と比較しても、この広大な建築物を知る事はむりですが、その片鱗を窺うことが出来ましょう。


  観光案内によれば、紫禁城は次のように説明されている。   ”紫禁城は北京の中心部に位置し、明清両朝の皇宮で、1406年に建てられ、すでに約600年の歴史を持っており,合わせて24人の皇帝がここから500年近くも中国全土を支配した。

  紫禁城には宮殿と楼閣が幾重にも重なり合い、それに白石の彫刻された欄干、赤い壁と黄色いれんが、輪換の美の至りを尽くした。この敷地72万平方m.に及ぶ莫大な古代建築群には、建築面積15万平方m.、構造多様な殿堂890棟、部屋9千余間もある。周りに高さ10m.、長さ3428m.の城壁で囲まれ、その四つの隅に精美なやぐらが築かれていた。外は幅52m.、長さ3800m.の護城河である。厳重たる古代宮城に他ならない。

  建築に光り輝く紫禁城には雄大な殿堂と広々とした広場もあれば、美しい後宮と静かな小道、機密な国事を議論する場所もあり、また皇帝皇后ら皇室の休息・娯楽の御苑もある。紫禁城は前朝(朝廷の外側)と内定(朝廷の内側)の二つの部分に分かれている。前朝は太和殿・中和殿・保和殿の三大殿が主体で,文華殿と武英殿がその両翼をなし、皇帝が権力を行使する中心で、式典、大臣の接見、宴会など皆ここで行われた。内定は乾清宮・交泰殿・坤寧宮がその主体をなし、皇帝の寝宮と政務を処理する場所である。坤寧宮の北は御苑で、青い松柏と美しい花、楼閣とあずまや、それに池など、自然の雰囲気にあふれている。

  内定の三宮の両側は賓妃と皇室の住所即ち東六宮と西六宮であり、いずれの宮も二つの庭をもち、客を接待する前殿と休息の場である後殿及び両脇の部屋からなっている。西六宮の南にある養心殿は皇帝の住居で日常政務を処理するところであり、東六宮の南には皇帝が斎戒する時に住む斎宮がある。東西六宮の裏にある宮室は皇子皇女らの住所である。西六宮の西の宮殿は皇太后と皇太妃の寝宮であり、東六宮の東に乾隆帝が太上皇になってから建てた一組の宮殿がある。

  新中国成立してから紫禁城は非常によく保護されており、現存する中国のもっとも大きい古代建築群であり、世界でも一番完備している宮殿建築群である。1961年に中国の重点文物保護単位に列せられ、1987年にユネスコ(国連教育科学文化機関)も紫禁城を「世界文化遺産リスト」に加えた。古くて美しく輝く紫禁城は今や世界の文化遺産となった。  後述 略。”以上である。

  初めは数ある門・殿を通って最後の神武門まで行こうと意気込んでいたのですが、先ず足の弱い私がへたばり佐井君・李君も私に足を引っ張られて乾清宮あたりで引き返しました。

  それにしても素晴らしい建築群ですね。日本では日光東照宮ぐらいしか知りませんが足元にも及びませんね。1406年に建てられとあっては愕く他ありません。その他、万里の長城・米国のナイヤガラ瀑布など世界には数知れぬ愕くものがあります。出来れば早くこれらを知って、自分の人生観に役立てようではありませんか。

  昼食は市内のレストランで、昼食後は一旦ホテルに戻り、コーヒーを飲みながら李さんと歓談しました。15:30に旅行社の者が3名専用車で空港まで送ってくれました。夕方国内機で”北京”から゛斎南”へ向かいました。北京でいろいろお世話いただいた旅行社の人と記念写真を。

  斎南空港で衛生学校学科長李 萌先生の出迎えを受けました。空港で頼りにされた日本人のために、わざわざ山東大学まで送られた親切さにはホトホト驚きました。出迎えに来ている筈なのに来ていず途方にくれていたとの事でした。その後車で市内に向かい、レストランで夕食を取りました。ここで初めて挨拶をしました。(李先生・李さん・林先生(通訳)・内田・佐井)

  夕食後、衛生学校が経営する外来者向けのホテルに案内されました。23時近くに着いたので、シャワーの湯が出ず風邪を引く思いでした。ここは風呂はなくシャワーのみで3泊した事になります。   

  

10月29日

  朝食は学内の教職員専用食堂で李先生に案内されて取りました。外来者も何人か居たようでした。11時に校長への表敬訪問をしました。(校長・副校長・教務部長・李先生・林先生・内田・佐井)。

挨拶その他講演


  左は学校教職員の朝食堂、右は李先生と林先生,李さんと私達。

  7枚の写真は表敬訪問した時のスナップです。学長クラスから学部長クラスまでの出席で佐井君と二人のために集まって下さり恐縮でした。それぞれ何か頂いているようですが、個々には覚えていません。その後、学校主催の昼食会。副校長・教務部長・李先生・張先生(放射線教員)・林先生らと共にする。その後、部屋で休憩。16:00から17:30まで招待講演が行われました。

  私はホームページを映写してデカルトとパスカルの哲学から、技師教育から大学教育への変遷について関連付けを行いました。多少難しかったかもしれませんが、ゴチャゴチャした世界からの脱皮にはいい話だったと思っています。佐井君はエントロピーを主体に系列依存性のCADへの適用について講演しました。これは未発表ですが、将来可能性の大きいテーマであると思っています。夕食は中国映像学会秦副会長主催の夕食会に出席しました(秦副会長・李先生・張先生・その他2名)。料理は北京を離れるにしたがって私の口に合うようになって来ています。

  

10月30日

  朝食は学内の教職員専用食堂で。10:00から山東省衛生学校創立50周年式典に出席し、来賓代表として祝辞を述べました。翻訳は林先生に全てお任せしました。来賓代表としては日本とオーストラリアの2国でした。2000名を超える出席者の前で、面映かったが何台ものテレビモニターの前で堂々と大きな声で祝辞を述べる事が出来ました。後で佐井君からの好評には心から嬉しく思いました。

  左は規律して国家斉唱、右は私が祝辞を読み上げているところです。下図は会場の雰囲気と真っ先に会場で待っている内田と佐井二名が見えます。左端の印刷物は小さくて読み難いですが、プログラムです。日本から内田名誉会長の記事が書かれています。スペースが出来ましたので、次の話題である孔子像を掲載しました。


    式典は11:30頃終了しました。盛大な祝典でした。学内楽団の演奏と共に、花吹雪が舞い、色とりどりの風船が飛び、平和の使者鳩が空一面に放たれ、爆竹が鳴り渡り、観衆のどよめきが会場を覆い、この雰囲気に存在する自分を祝福する事が出来ました。その後、車で市内へ。市内のレストランで昼食(林先生・運転手夫妻・内田・佐井)。

  高速道路を利用して、済南市から150Km.離れた"孔子の生家″・"孔廟”・″孔府”を見物、16:30頃車で済南市に戻りました。

  孔子と言う学問の神様は広辞苑に寄れば、次のように説明されている。”中国春秋時代の学者・思想家。儒家の祖。名は丘、字は仲尼。魯の山東曲阜に生まれた。堯・舜・文王・武王・周公らを尊崇し、古来の思想を大成、仁を理想の道徳とし,孝悌と忠恕とを以って理想を達成する根底とした。魯に仕えたが容れられず、諸国を歴遊して治国の道を説くこと三十年,用いられず、時世の非なるを見て教育と著述とに専念、六経を算術して教えを万世に垂れ、その面目は言行録(論語)に見られる。後世、至聖文宣王と称した。”

  学問の神様を祭ってある孔子廟は実に立派ですが、出口・入り口は物売りの店でごった返している有様、あまりいい眺めではありません。夕食は教務部長主催の夕食会に出席しました(干教務部長・李先生・林先生・運転手夫妻・内田・佐井)。21:00頃ホテルへ帰りました。

10月31日

  朝食は学内食堂で(李先生・林先生・李さん・運転手さん・内田・佐井)共にする。その後ホテルのチェックアウト。続いて市内観光、中国一の泉の集落へ、上図に見られるように大きな泉が五つ六つあったでしょうか。その後、土産物店へ。絹織物の専門店があると言うので出かけました。日本のご婦人方に、ハンカチ・パジャマ・ネグリジェなどを求めました。絹に刺繍がしてあり日本では相当高価なもののようでした。

  その後、市内で昼食を(林先生・李さん・運転手さん・内田・佐井)共にする。それから車で済南空港へ。15:25の飛行便で上海へ。午後5時前に上海「虹橋空港」に着きました。旅行社のガイドさんは女性の曹さんでした。曹さんの案内で専用車でホテルへ。上図に見られるように立派なホテルでした。終わりの写真は林先生です。ずっと通訳として、陰になり日向になり慣れない私を援護して頂いた先生です。

  北京に着いてから、ずっと中華料理ばかりで些か食傷気味、そう言ってもお茶漬けと言う訳にも行かず二人で相談してホテル近くのハンバーガー屋で軽く夕食を取りました。

11月1日

  朝食は佐井君と共にホテルで。8時過ぎガイドの曹さんがホテルまで迎えに来てくれました。専用車で上海国際空港まで、所要時間は約1時間。9時過ぎ空港に到着、出発11:25まで待合室をうろうろ。珍しい掛軸があったので求めました。予定通り11:25に上海ー福岡の便で帰国の途に着きました。上海で多少観光でもと思っていましたが、旅行社との手違いもあって叶いませんでした。


  以上で”おじいちゃん再び”の新刊は中国遠征で成功したかに見えたのですが、そうではない所に人生の面白みがあるのでしょう。帰国して4日目頃から体調が優れず、ホームドクターは風邪だからと服薬と安静、それから毎日点滴に通うようにとのお達しです。元々今回の出張は体調からして無理な事は分かっていたのですが、初めにも書きました様に”懐かしい中国で倒れても本望だ。”の気持ちが強く,在中国中は足はふら付きながらも気はしっかり持っていました。

  それが帰国した途端に疲労と気の緩みとから発病したものでしょう。若い頃は風邪ぐらい1週間で好くなっていたのですが、80超えてから急に体がガタガタになって弱くなりました。点滴に通う事約20日でやっと本復。残念ですが、仕方ありません。それにしても中国の変わりようは筆舌に尽くし得ません。約60年前の中国とは考えられないほどの発展振りです。最近、IBM を買収したと大々的に報道されましたが、こんな事で驚くにはあたりません。何十億の民が食べて行く為にはもっともっと驚く事が起こり得ます。われわれ日本人も平和の上に胡坐をかいてないでしっかり人生を見詰め様ではありませんか。

  最後にこの度いろいろお世話になった山東省衛生学校の広大な敷地の一部を写真でご紹介しましょう。

  今度の中国旅行ではデジカメ・カメラなどで沢山写真を撮りましたので、本文には無かった写真を何枚か掲載しておきます。

  まだまだ沢山あるのですが、写真は中身があって面白いので写真だけでは当人以外にはあまり興味が無いでしょう。それよりも技師学校から大学への道を進んでいるわが国の歴史は、技師学校創立50周年を数年前に済ませました。山東省衛生学校はわが国で言えば、短期大学に相当する制度で、この枠の中で充実を図っているようです。広い土地に高層鉄筋コンクリートの建物が幾重にも建てられています。殊に感心したのは学生の厚生施設が完備している事です。また、日本の技師制度及び研究・教育に非常に関心が高い事で、日本の学者・技師との交流を熱望しています。是非隣国との親密な交流を将来にわたって希望するものです。