学会50周年に向けて


講演  【ビデオ】

  アナログテープ方式で記録したものを,デジタル化したようですので解像力が落ちていまして余りいい出来ではありませんが、はじめてですので御寛容下さい。

             
学会50周年に向けて
                      

内田 勝

会長から”50周年に向けて”と題して何か喋って欲しいと言われ、”はい、いいよ。”と軽く引き受けたものの、執筆するとは思いもしなかった。講演だけなら自分のホームページを資料とすれば良いからである。私のホームページはRII(放射線イメージ・インフォーメーション研究会)とかMII(医用画像情報学会)の記事が一杯だから。そこでさてこれを纏め様とするとなかなか難しい。 

学会50周年と言うと、未だひとむかし将来の事だから、その時期の学会像についての希望的観測はどうかと言うことになる。それには本学会を立ち上げた時、即ちRII誕生の起源から思い起こさねばならない。(以下、ホームページをH.P.と略す)

RII誕生の起源に就いては、H.P.では(評論の広場3)ーRII研究会設立当時の回想ーとして記述されている。ー学会30年を思うーも含まれている。(評論の広場9)RIIの原点には放射線像の研究ーレスポンス関数ー(第1巻1964〜1966)及びー解析と評価ー(第2巻1966〜1968)に就いて当時の医学会の錚々たる権威者による批評と期待が寄せられている。第1巻では立入教授、足立教授、宮川教授、高橋教授など第2巻で高橋教授、足立教授、宮川教授等である。

評論の広場9(RIIの原点)から 一例として立入教授の序を述べよう。

”3年前の春に、それまでこの方面に興味を持ち熱心に研究を進めて来た内田君などを中心として、主として診断用のX線像を情報理論的にいろいろの角度から解析し、数的な根拠と理論を求める人達の集いとしてのRIIが始められました。始めは局外者には非常に難解であり、中々取っ付き難いのを承知の上で熱心な会員の間で、ひたむきに研究が続けられ、次々と報告が出されて来ました。しかもこうした研究運動は、初めの会員以外の人々に興味をかきたて、さらに技術上の躍進的改善を齎すために、この方面での研究が必要であるという認識が広く高まってきた結果、会員も数を増し、研究成果もあがったので、この機会に今迄の会の業績なり研究資料なりを、纏めて一冊の本とし頒布することになりました。会の発足当時、多少のお世話をした私として誠に喜ばしく思います。晴れの結婚式とまでは行かないが、娘の大学に入ったほどの喜びを感じる次第です。今後の発展を期待してやまないとともに、この小冊子が同学の皆様の研究上のお役に立てば、会員諸君ともども私達の幸いとするところであります。”

この外、第一巻・第二巻夫れ夫れ前記の各先生方の執筆による励ましの言葉を戴きました。RIIが出来た当初如何に各方面から期待され、将来を嘱望されていたかが良く判ります。医学会からの期待が大きく、当初は医学会からの質疑・関心が高く理工学者・技術者も張り切って応えて来ましたが、医学者にとって余りに難解なためであったのか次第次第に医学離れが進み、理工学者・技術者の研究の場が多くを占めるようになりました。

これではいかぬと多くの識者は自覚していました。しかし画像が原点であっても、画像を作る手段も付随していることから、主に放射線の線質・スペクトル・線量などの研究が進められていました。また医用画像の評価もデジタル画像の開発と共に新たな評価法がテーマとして盛んに研究されて来ました。しかし医学者の本格的な参入が望めないのは遺憾の極みでした。

此の傾向は”医用画像情報学会”に衣替えした当初でも続いていましたが、最近に見られるCADの興隆はこの悩みを吹き飛ばす端緒となりつつあります。それは医学者も理工学者も技術者もお互いに他分野の学識を必要とするからです。極めて密接な共同研究はRII当初からの期待を見事に実現しつつあると言えるでしょう。

このCADの研究が放射線画像のみならず、医用画像の多くの他分野に適用され、医師・技師・理工学者の共同研究が益々密接になることを切に希望します。CADに供される画像の製作についても未だ十分とは言えず大きなテーマが残っています。RIIを引き継いだ現在の医用画像情報学会の使命は未だ未だ前途洋々たるものがあると信じて疑いません。

RIIの原点から少し先へ進み過ぎた嫌いがあります。H.P.の初めに戻って、医用画像情報(MII)学会の中の研究会の項を見て見ましょう。プログラム一覧の第1回〜第30回から順に第141回〜第150回へと見て見ますと、プログラムの演題・演者・その所属などの徐々にではあるが変化しているのに気付かれるでありましょう。殊に今回に見られるように新装成った岐阜大学病院かかっての特別講演は会員にとって正にインパクトそのものでした。

これは医学系の中に工学系の研究講座を全国で初めて作った岐阜大学の成果でありましょう。これも保健学科の誕生がこの組織を進めて来たと思えます。ここに医学と工学の融合が感じられます。診療放射線技術学はここに根を張る地盤を持ちました。後は若い学徒の今後の研鑽と努力によって学問の金字塔を打ち立てるだけです。  

評論の広場11(MIIのIdentity)の中に掲載された藤田広志教授 の寄書を掲載しましよう。   ”本巻は第20巻と言う記念すべき節目の発刊になります(祝)。医用画像情報学会という発足当時から先見の学会名を記した会誌であり、今後の益々の発展を願うばかりです。本号は本会が発足して、第58号になり、また、前身のRII研究会の「放射線像研究」通して数えると、第133にもなります。MII学会発足時の第1巻第1号(1985.9)において、当時の内田会長が期待された月1回の発行にはいまだ至りませんが、発行回数はあまり問題にしないほうが良いかも知れません。むしろ、本会誌が医用画像情報学の分野において、研究者育成などにいかに貢献しているかを見てみると、以下に記述するように、本会誌は同分野で大きな役割を担っています。

これまでの会誌をめくって見ますと、私が関係した原著論文は、本号を含めて44編あり、解説など5編あります。また、国際会議報告が12編になります。これらの論文の中には、医学博士の学位取得(岐阜大学)に用いられたものは1編、工学博士の学位取得(岐阜大学)に用いられたものは5割を超える24編にもなります。その他、修士論文や卒業論文を原著論文にまとめて、投稿した者も多く含まれます。また、これらの論文の幾つかは、内田論文賞や金森奨励賞に輝きました。

この統計データはたまたま私が関与したものですが、、これらの論文に限らず、本会誌では研究者としての最初(または初期)の論文として投稿・掲載されたものが多くあります。すなわち本会誌への論文掲載は、研究初心者の良き目標であり(第一関門)、論文掲載に対して最初の大きな喜びを与えて呉れる”忘れられない”会誌であると思います。今後も本学会の大きな役割として、このような若手研究者の育成に本会誌は益々寄与していくべきと信じています。なお、投稿から掲載までの期間が非常に短いのも、本会誌の大きな魅力になっています。   

医学系に限らず工学系などの分野でも、英語で作成されたインパクトファクタ等が高い論文でないと業績として評価がされにくい時代になってきましたが、そのような中でも、本会誌は学術論文への登竜門 としての役割を、今後も胸を張って担い続けて行くものと、心から期待しています。”

現在では学位も”医科学博士”が誕生したようです。上記の内容は岐阜大学のみならず、全国の大学に及びつつあります。本学会創立50周年のその時期には学問的にも社会的にも現存他学問分野と同等な組織が生まれているものと思われます。ここに至って、初めて当初医学会から期待された医用画像情報学会が誕生したものと言えるでしょう。学会創成期にお手伝いした者にとってこの様な予測が出来る事は何よりも喜ばしい事です。

ホームページに折角収録してあるので、”おじいちゃん再び”も紹介して置きましょう。

昨年4月横浜学会に出席した折り中国学会会長燕先生にお目にかかったのが奇縁で、10月29日山東省衛生学校での講演と山東省衛生学校50周年記念式典での祝辞の依頼が来ました。行事予定日までやっと一カ月、通訳は新潟大佐井教授(岐大の教え子)としても準備大丈夫だろうかと心配しましたが、何とか仕上げて来ました。

内容はホームページに譲りますが、一番驚かされましたのは国全体の発展振りです。私が居りましたのは、1938から1944の間6年で約60年前ですから、無理も無いと思いますが、それにしても言葉まで簡略語とかでチンプンカンプンです。中国の発展振りを見て日本もウカウカ出来ないぞと帯を締め直した次第です。

これでホームページを主体とした講演の原稿を終わりますが、結論として”学会50周年に向けて”の内容は

”今迄通り人との出会いを大事に、自然体で臨めば良い。”を肝に銘じて進むとしましょう。

以上は今回の岐阜学会で行った記念講演の記録に掲載されます。

平成17年度総会および年次(第142回)大会は平成17(2005)年6月4日(土曜日)に開催されました。会場は新装成った岐阜大学医学部付属病院多目的ホールで行われました。

私は体調が余り優れませんので、6月3日から5日まで滞在する事にしました。3日は藤田教授に5日は佐井教授にエスコートして頂く事になりました。始めて見る名古屋新空港は海に突き出た国際新空港でまだ日が浅く空港利用客に見物客も交じって大変な込みようでした。

以下の画像は何れも名古屋空港のものですが、左は空港内の商店街通り、右は同じく通りに面した食事処、食堂街は各店舗、皆行列で到底待てない。来た時は藤田君、帰りは佐井君と食堂には入れず立ち食いの状態でした。開店百貨店の食堂と思えば丁度いい。

画像

名古屋空港から岐阜までは名鉄特急で1時間、懐かしいワシントン・ホテルにチェックインする。万歩計は既に2万歩を示している。些か疲れたのでベッドに横になる。18時から内田研の懇談会がある。下図の左は有志の面々、右は特に近かった人達。懐かしい昔話に花が咲く。

小島君は同宿だったので、翌日学会当日は彼がエスコートして会場に行く。左は新装成った岐阜大学医学部病院、市内に在った旧館とは話にならない。右は学生による受付である。

会場は100名以上の出席者があり、過去の研究会では考えられないほどの入りでした。私も特別講演は元より研究発表もあらかた耳を欹てて聞く事が出来ました。医学者の協力により今の私では困難な所も多々ありましたが、これがMIIの進む方向だと思えば納得出来ました。

私の記念講演の後岐阜大学付属病院内2階のレストラン ファインで大勢で行われました。原先生を通して写真をお願いしていましたので、下に順不同で沢山掲載して置きます。

幾らか関係の在りそうな写真だけ掲載しましたが、肝心の特別講演者の写真が無いなどやはり人頼みではいけません。教室とか実験室など見たいものが一杯ありましたが、目的が異なりますので仕方ありません。懇親会では知己の人・新しい人構わずどんどん入り込んで出会いを楽しんで来ました。

5日は帰る日ですので、佐井君に頼んで、和田さん姉妹と会う約束がしてありました。約束通り9時には佐井君・和田姉妹がワシントン・ホテルに揃いました。和田さん姉妹は私が岐大在籍中にお世話になった洋服商の娘さんで、長男と3名で単身赴任の私のいい話し相手になってくれたものです。

兄妹3人とも未だ独身で母と4人で仲良く暮らしています。若い働き盛りの思い出に詰まった岐阜を去る時間が来ました。佐井君に感謝しながら共に新名古屋空港に向かいました。