鎮魂歌

内田 勝


  大阪大空襲(S.20.3.9)の燃え盛る我が家からやっとの思いで持ち出した数冊のアルバムがあります。その中には今は亡き人々の遺影と共に遺して置きたい面影の数々があります。如何にもプライベートな記録で関係の無い読者には誠に申し訳ないと思いますが、消え行く記憶に逆らって温故知新、2000年の黎明を迎えるに当たって将来展望の礎にしたいと存じます。

  それらの一部を簡単な思い出を呟きながら載せて見ました。読者はすでに化石となった古い物語を見る思いで気楽に読み流して下さい。題して”鎮魂歌”としました。

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お母さん。

  朝夕仏壇に手を合わせる度に”母さん”と幽かに呟きます。母と二人きりの喜びや悲しみは私の生い立ちの総てであり、現在でも私の人生観の核と成っているものです。母は美人の誉れ高く、四国のお遍路さんのなかでも今で言う”ミスお遍路”だったとか、おばあちゃんから聞きました。上3人は男で末娘の四人兄妹、紺屋の父母の下で幸せな娘時代を送りました。家政女学校に通学させられたそうですが、井戸に逆さに吊るされてもいやだと言うくらい学校嫌いだったようです。それでも卒業はして、着物はもとより、袴まで縫い上げるほどの腕前だったそうです。わがまま娘だったのでしょうね。

  母は綺麗好きで朝夕の掃除は欠かさず、黒檀の箪笥を空拭きするのが私の務めでした。母は上の男兄妹から何かと言うと叩かれて育った所為か、私の躾も平手で教育しました。考えて見ると男親の居ない家庭で、父親の代わりをして育ててくれていたのでしょう。お陰で父親の厳しさを母から受けたと思っています。反面、冬の寒い朝など炬燵で肌着を暖めて着せてくれるなど過保護の所もありました。母は60歳で夭逝しました。残りの人生を私に託したのかも知れません。


おばあちゃん。

  私はよく”おばあちゃんッ子”と言われました。母が初めて嫁いだ父との仲が上手く行かず、気の強かった母は臨月のお腹をかかえて横浜から郷里三池に帰ってしまい、おばあちゃんの下に身を寄せました。従兄弟は沢山いましたが、特に私を可愛がってくれ、皆から妬まれた程でした。写真で顔を斜めにしているのは、生来の眼球振盪症で安定する位置が斜めなのです。現在でもその傾向があります。

  母は伯父有信の妻君江と特に仲良しで何かと言うと訪ねていました。大阪で美容院を開いていました。伯父は銀行定年の後、大牟田三池染料の廃液沈澱物に目をつけ、乾燥させて温泉入浴剤を製造販売していました。相当に売れた様です。最近温泉入浴剤は盛んですが、50年程前ですから先見の明があった様ですね。なかなか親孝行で博多に隠居所を建て、おばあちゃんが82歳になるまで孝養を尽くしました。

  この会社も美容院もS.20.3.9の大阪大空襲で丸焼けになりました。平素の防空消火訓練も何の役にも立たず、雨霰の様に降ってくる焼夷弾の中をかいくぐって上六のデパート地下に避難しました。その時私は除隊になって近畿日本鉄道に務めていました。


艶子姉さん。

  伯父有信(母の長兄)の娘(従姉弟)でどちらも一人っ子、”姉さん、姉さん”と言って慕い、可愛がってもらいました。いまでも存命で88歳です。写真を見る限り坊ちゃん坊ちゃんしていますが、その影に母の苦労が並々でなかったと思うと胸がつまります。有信は銀行の支店長で裕福な艶子姉さんでした。後年、陸軍少将の一人息子(医学博士)に嫁ぎました。

  夫は当時の逓信病院の院長をしていました。艶子は依頼心が強かった所為か、心臓神経症でしょっちゅう倒れては皆をハラハラさせました。惜しい事に夫は夭折して早く後家になりました。不思議な事にそれ以来心臓神経症は忘れた様に再発せず、3人の子育てに懸命になり、旅館を経営して立派に成人させました。先日も会いましたが、残り少ない身内の事、語るのに時間を忘れる程です。

  「おばあちゃんは勝さんをえこひいきしてお菓子を私達に隠して”これはすぐるのもの”と言って一つのお菓子でも勝さんにのけていたんよ。」と今でも悔しそうに言います。


飛行機。

  伯父有信夫妻、母と従姉弟です。今から約70年前の写真です。私は小学校。当時大阪の銀行支店長であった有信はよく博多ー大阪間を飛行機で往復していました。単発のプロペラ機は当時でも珍しく、誰でも利用出来る乗り物ではありませんでした。羽振りのいい伯父を見るにつけ、子供心にも母が可哀相でなりませんでした。

  伯父は写真でも分かる様に立派な体格で、柔道8段、囲碁6段の猛者で”恐い伯父さん”と呼んでいました。酒はまた強く、斗酒なお辞せずの部類で恐ろし程でした。酒が入れば入る程、弁説爽やか人を魅了する不思議な人物でした。その為か小学校しか卒業していないに拘わらず、銀行の支店長にまでなったのは頷けます。自分でも”酒でこの位置を得た”と言っていたくらいでした。

  私にとっては”恐い伯父さん”でしたが、父を知らない私には尊敬する偉大な父代わりでもありました。伯父は母の一人っ子でよわよわしい私に、殊更厳しく冷たく私の敵愾心を呷る様な態度を、意識して採った様な気がします。今にして思う事で当時は恨みがましい気持ちであったと思います。


今宮中学バレー部。

  ”逃げ帰った妻は要らぬが、勝は私の一人息子だ”と母の留守中に私は横浜に連れて行かれました。その時、急を聞いて駆け付けた母との大阪駅頭での別れは”お母ちゃんお母ちゃん”と泣叫ぶ私の声としがみついた改札口の木の冷たさが未だに忘れられません。その後気が狂った様になった母を宥める為、母のもとに返された私に母の一生懸命の教育が続けられました。私が角帽を被った時、実父に会う事を母から許され、生涯に一度だけ病に臥せっている父と会いました。

  この写真は当時3倍の倍率だった今宮中学のものです。ニ年生でバレー部に入部していました。母は当時縁あって楽器商、数見と結婚していました。義父数見は元和歌山藩の士族の出で母より5つ若く、今では姉さん女房は流行の先端の様ですが、当時は友達から聞かれる度に恥ずかしい思いをしました。将来、嫁さんは必ず年下を貰うぞと幼い決心をしました。義父はよく可愛がってくれ、三味線や琴の音を合わせる為、演奏しているのをうっとり聞いていたものです。


三池中学。

  中学3年の時、義父数見は新義州で病に倒れました。これを期に内田姓に戻り郷里三池に帰りました。そこでも母の苦労は続きました。母は仲居をして私を三池中学にやっていました。出来るだけ早く高校に入って母を助けようと必死で勉強しました。お陰で4年終了で旅順工科大学予科に合格しました(倍率22倍)。学費は出してやるとの伯父の言葉に喜び勇んで、16歳の時一人旅順の地を踏みました。母の涙ながらの反対を押し切って。

  当時4年終了ではなかなか高校には合格出来ませんでした。その上22倍と言う倍率です。内地の高校は一般に6〜7倍でした。しかも S15、6年の頃です。大陸へ大陸への国策に浮かされてドッとおしかけた若者が一杯でした。幸いにも合格して大陸雄飛を夢見ての神戸大連間の連絡船でした。母の事も伯父の事もすっかり忘れて飛ぶ様な3泊4日の船旅でした。

  3泊4日の船旅は何時も3等船室でしたけれども、大抵若者達の放歌高吟や談笑で賑やかな時が過ごせました。私は不思議と船酔いには強く、玄海の大波も揺りかごとまではいかなくても快い揺れと感じていました。これが運動部にボート部を選んだ一因だったのかも知れません。

  

旅順工科大学予科。

  始めこそ順調な伯父との関係でしたが、約束と異なり母の相変わらずの苦境を見兼ね、それが元で独立を決意しました。私は家庭教師、母も働きました。一週間に3軒の家庭教師で約2500円の収入、それらは寮費・学費でギリギリでしたが、母からの仕送りで何とか息をついていました。三池中学から3人同窓がいました。同級生角は亡くなりましたが、一年先輩の小川は元気です。何かにつけ励まし合ったものです。

  全寮制度は個人の自由を制限します。一人っ子で育った私にはとても辛い修練でした。部屋は大きく勉強部屋と寝室に分けられます。夫々約15人程度の収容能力があります。すべて板張りでスリッパ使用です。ここでは机・椅子などの所属は自分であっても、トランプやマージャンその他何人かで共通の事に使用する時には一年生のものが自由に使用されます。また夜中のストームには始め泣かされました。酔っぱらって帰って来た先輩は寝台の上に跨がり、滔々と持論やお説教をするのです。内地の高校でも同じだったようですが。始め辛かった事も自分が上級生になるにつれ同じ事をしているのに気付くのです。


バック台。

  全寮制度・全員運動部所属は旅順工大閉学(共産思想分子逮捕による)解除の条件として存在していました。私は入学するなりボート部を志望しました。固定席6人乗りのボート2杯とスカールがありました。先輩は私の身体を見るなり”君の身体では無理だ。病気するか落第するか、いずれにしても止めておけ”と言うものでした。粘りに粘ってやっと入部する事が出来ました。予科3年の時、クルーは整調藤井・5番内田・4番佐藤・2番岸、力を合わせあらん限りの力でオールを引いた仲間です。高校全国大会・インターハイで瀬田川遠征は今思っても血涌き肉躍る青春の日々です。初戦で破れはしたものの、唐橋の上から遠来のクルーを応援してくれた人々の声が聞こえる様です。

その後の初秋寮生約300名の内50名が腸チブスに感染しました。10名が死にました。時は戦時中であり、沢庵にチブス菌が混入されていた事が後で判明しました。私は真っ先に担ぎ出され旅順病院で約3ヶ月呻吟しました。危篤の電報で初めて旅順に来た母は死装束を用意して来ていました。母の医師への嘆願で親友佐藤の輸血が何度も行われました。お陰で奇跡的に持ち直し、三途の川を渡らずに済みました。退院の日に私の付き添いのおばさんがチブスで亡くなったのも何かの因縁でしょう。色んな方々のお陰で今があると感謝の念を強くします。

  バック台の写真です。今では二人を失い、二人残っているだけです。旅順ー大連間遠漕では沈没してあわやと言う目に会いましたが、今となっては懐かしい青春の一頁です。

電気工学科。

  全員7名です。日本人5名、中国人2名です。旅順工大予科一学年定員は100名その内留学生は10名割り当てられていました。学部学科は、電気・機械・航空・応用化学・採鉱冶金の5学科でした。電気は難しいと志望者が少なく、お陰でサボれず精勤を余儀無くされました。学部一年の終わり頃、チブスその他で借金がたまりどうにもならなくなりました。中退を決意し母に相談しました。母は”折角ここまで苦労して頑張って来たのだから、今止めるのは勿体無い、私に任せなさい”と言って伯父有信と相談しました。

  そして持って来た話は”伯父には跡取りがいない。養子として跡を継ぐ”と言うものでした。母も安定した暮らしをしていましたし、伯父のお陰でこの危機を乗り越える事が出来ました。

断琴の交わり。

  先年親友佐藤が病に倒れ帰らぬ人となりました。”棺を覆いて事定まる”という言葉があります。16歳から現在に至るまで、輸血による血の繋がりもあるからでしょうか、居場所は何時も離れていても、心の通い合う間柄でした。存在すると思うだけで心強く何かに付けて連絡しあい、東京出張の度に肩を叩き合って喜びました。存在しない今、彼の偉大さは”事定まる”思いです。彼が贈ってくれた瀬田川天満宮のお守り札をフロントガラスにつけてドライブしている作今です。

  いまは亡き君たちのために私たちは何も出来ない。だのに、君たちは私たちの事を常に思い続けてくれている。

( 聖書より)