鎮魂歌2

内田 勝


  先の鎮魂歌では子供の頃から大学卒業までの多くの出来事の中からアルバムに残っていたものを中心に記して見ました。主に身内の問題や青春時代の思い出で埋め尽くされたのは止むを得ません。しかも白黒写真はどうしてか郷愁を誘うものです。

  岐阜大学に来るまでは白黒写真が多い。今回も白黒写真です。それらの一部を簡単な思い出を呟きながら載せて見ました。読者は今回もすでに化石となった古い物語を見る思いで気楽に読み流して下さい。題して”鎮魂歌2”としました。

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筑紫高女。

  ”マヤンの呟き”に述べましたように、近鉄を辞職して母の実家で町内会長などして居候していた時に、恩師九大金原 誠教授(元旅順工大教授)から呼び出しを受けました。先生は微分幾何の権威者で京大蟹谷教授の愛弟子であったと聞いていました。

  ”君この国家の重大時に遊んでいてはいかんね。僕の教室の講師で来る気はないか。”先生は独り決めして”数学はフランス語が必要です。”と一時間に亘って講義を受けさせられました。”一週間してまた来なさい。”の声を背に聞いてほうほうの体で三池に帰宅しました。

  いくら身贔屓しても到底数学の大学講師になるなど思いもよらない事でしたので、一週間してお伺いした時に恐る恐る御辞退しました。先生は残念そうにしておられましたが、”それでは中等学校で教員をしながら、遅れを取り戻しては”との親切なお言葉を喜んでお受けする事になりました。

  そしてお世話頂いたのが、私立筑紫高等女学校でした。私はまだ24、5歳、女学生と言っても専攻科ともなれば、19、20歳ぐらい。しかも花嫁学校とあっては就任の時、校長から”教室では成るべく天井を向いて喋って下さい。”と言われたのも尤もでした。物理研究部長として、女性の髪の毛先を顕微鏡で観察したり、部屋の高さによる塵の粒子サイズを測定したりして研究の雰囲気を忘れない様に努めました。一方九大工学部電気工学科に副手として在籍し、研究の遅れを取り戻そうと懸命でした。勿論校長の言を守って無事中学校に転任する事が出来ました。   


左:
福岡中。


右:
今宮中。


  左は福岡中学校、おじいちゃんは3年生のクラス担当で、悪餓鬼の中心にいます。右は今宮中学校でおじいちゃんは3年生です。何故この写真2枚を並べたかと言いますと、賢明な読者には既にお分かりと存じますが。福岡中学も今宮中学も有名な県立進学校です。今宮中学の端正厳格なデカルト教育の見本のような佇まいに対して、福岡中学の如何に戦後の解放されたパスカル教育とは言え悪餓鬼然とした姿にはクラス担当として恥ずかしい気持ちです。

  いまではどちらも福岡高校・今宮高校として相変わらず国立大学への進学校として名門です。敗戦を挟んで約10年隔ててはいるもののその変貌は驚く程のものがあります。教育において、これはどのように評価すればいいのでしょうか。デカルト教育にもパスカル教育にも夫々に長所・短所があるという事は理解出来るのですが。


左:
医局。


右:
技局。


  福岡高校から下関第2水産講習所(下関水産大学)に転任したのですが、その写真が全然ありません。そのアルバムが焼失したのかも知れません。機関科に属し学生実習で500トンの実習船に乗って、オホーツク海にトロール漁業一ヶ月を学生と行動を共にしたりしました。トロール漁業の2時間操業、2時間睡眠の24時間繰り返しの作業は現実のものとも思えない苛酷な労働です。獲物のある限り続けられるのです。こんな世界もあるとゾッとしました。

  ”マヤンの呟き”に述べたような経過で阪大医学部放射線科に技官として奉職しました。左は放射線科医局全員です。西岡教授始め医師の面々、また二宮技師長始め技師の面々です。右の写真はクリスマスかなにかの時技師・事務員全員のものです。何れの写真も一人一人見ていると、消息の分かっている人分からない人色々ありますが、苦しかった思い出・楽しかった思い出が交互に込み上げて来ます。皆さんお元気でしょうか。

左:
梅谷・林・二宮の各技師。


右:
江藤助教授。


  阪大の放射線科技師室に技師学校を創るまで約2年間在籍しました。当時の二宮技師長はじめ多くの先輩技師に実務の指導を受けながら勉強しました。その頃、日本放射線技術学会に入って勉学したり、東京大学医学部江藤助教授を訪ね指導を仰いだりしました。その頃です、東大理学部本多教授が主宰されるX線管協議会に3ヶ月に1回出席するのが唯一の楽しみであり、誇りでもありました。残念ながらその時の写真はありません。

  御存じ梅谷友吉技師は学校には特に行って居ないに拘わらず、英・独・仏を良くこなし、非常に研究熱心でその姿勢から学ぶ所多くありました。撮影技術に関する研究・歯科フィルムに関する特許などは有名です。彼の寄付金を元に梅谷賞が設けられている事は誰もが知る所です。よく可愛がって頂きました。”使って下さい”と東京出張の時などに何がしかの旅費を頂いた事も一度や二度ではありませんでした。また滝内校長と共に日本放射線技術学会の生みの親でもあります。

  奈良医大の林周二技師長です。彼とは年も近かった所為もあり、現技師会中村 実会長(当時三重医大技師長)と共に技術学会編集委員会のメンバーで、3ヶ月に一回会うのが楽しみでした。事の善し悪しに拘わらず仲良く行動を共にした思い出は忘れる事は出来ません。学会の星として将来を期待されていた林技師長の夭逝は惜しまれてなりません。隣は阪大医二宮技師長です。学会の重鎮でもあり、技師教育過渡期の難しい時に良く努力されました。今でも感謝しております。

  右は東大江藤助教授との酒宴のスナップです。酒豪の先生には到底相手が勤まりませんでしたが、物理学者で医学部におられる博学な先生に身内の親しみを感じていました。上京する度にお相手させて頂き、後に東大の江藤助教授・阪大の内田助教授と謂われた時期もあり過分な世評に戸惑った事でした。       

左:
工業会。


右:
国際談話。


  医用電気機械工業会の例会のメンバーです。滝内・丹羽・中堀・小原・・・各氏が見えます。おじいちゃんは工業会の客員をしていましたので出席しています。夫々の方々に深い思い出と繋がりがあり、限られた紙数では書き切れません。既におられない方々もあり、それらの記憶を今でも大事にしております。

  右の写真は確かミュンヘン大学ショウ−バー教授が会議で来日された時だと思いますが、当時RIIのメンバーと会合を持った時のものです。村田・金森・土井・竹中・・各氏の顔が見えます。RIIは創立当初だったと思いますが、将来の夢の実現を目指して張り切っている意気込みが見える様です。   

立入校長。

  確か何期生かの卒業式の後だったと思います。立入先生を囲んでのスナップです。速水・梅谷・遠藤・武田・木村・・・の各氏が見えます。速水講師は技師学校2期生でその後東京理科大学に進学し母校の教官になっていました。立入・内田・速水の3人共酉年生まれでよく3酉学校と呼ばれたものでした。木村事務員は3代目ですが、最も長く勤務して頂き短大昇格時の人事を含め、最も変動の大きい時期を持ち堪えてくれた女史です。縁の下の支えに徹した彼女に心から感謝しています。   

左:
入江教授。


右:
高橋教授。


  おじいちゃんが岐阜大学在勤中に突然入江教授から電話あり、”今日から2泊3日で乗鞍岳に登るから来なさい”こちらの都合も聞かずにの招待です。授業を何とか都合つけて岐阜駅から同乗しました。2泊共に先生の碁のお相手です。その時の写真です。入江先生は6段、私は初段何れも自称です。そこで二人の約束がありまして、初めは規約通り私が6目置きます。それからは一番手直りで一目づつ上がったり下がったりします。6局目には互先 になっている位の二人の実力です。それからが面白い。それなら初めから互先ですればいいものを入江先生の6段の誇りがそれを許さないのですね。徹夜です。昼の観光は目ではなく、車の中でうつらうつら。二日目も同じ、先生は本当に碁が好きでした。

  右の写真は技師学校の校長会議の折りのスナップです。”両巨頭何をや語る”の題名が相応しい様な写真です。医用画像情報学会の立入初代会長・高橋2代目会長です。高橋先生は回転横断撮影の創始者でその延長線上にCTの開発があると言われています。おじいちゃんの情報理論の放射線領域への導入が放射線ディジタル画像開発の引き金になったと言われている様なものでしょう。

技師学校ボート部優勝。

  おじいちゃんは中学時代はバレーボール部、高校・大学はボート部に属し活躍したものです。社会人になってもチャンスある毎に競技に出場しました。技師学校でも早速学生にボートの喜びを教え、阪大内のボート競技大会には必ず出場して何時も上位の成績を収めていました。この写真は優勝した年の祝賀会です。こんなに沢山のビールを並べたとは思いませんでしたが。

  お山の幼稚園と言われていた、待兼山の技師学校には運動場がありませんでした。阪大病院から移転して来た当初、運動にも困っていました。そこで開拓を思い付き裏山の空き地に目を付け体育の時間に学生・教員総動員で草木を刈り土地を均して僅かながらバレーコートぐらいの広っぱを作りました。尤も途中で大学の耳に入り、ブルド−ザ−などの援助があり、やっては見るものだと当局に感謝した次第でした。

卒後25年。

  大学卒業後25年、親友佐藤は工業技術院地質調査所所長・おじいちゃんは宮崎大学教授、彼は理学博士・おじいちゃんは工学博士、会えばボートを腕も折れよと漕いだ時代にタイムスリップします。彼が学会で九州に来た時に寄ってくれました。二人ともに50歳前の仕事盛りの時期でした。佐藤もおじいちゃんも下積みが長かっただけにこの日の喜びは何時いつまでも忘れられるものではありません。

  平和台や観光地を案内し、地質学上の”洗濯岩”の講義を聞いたり久し振りの談笑でした。夜は貴重な一日をわが官舎に泊めて何は無くとも歓待しました。ボートの合宿以来25年振り、枕を並べての思い出話しは尽きる事なく、夜が白々明ける頃まで続きました。その後も上京する度に彼を呼び出しては健康と活躍を祝福し合ったのでした。まだまだ沢山の話が話し切れないほどあったのに。

宮大ボート部。

  技師学校でボート部を作って気勢を挙げた様に、宮崎大学に赴任して早速ボート部創設の第一声を挙げました。それに応えてくれたのが、当時応用物理4年の卒論生引田周平でした。彼はラグビー部に所属していましたが、転部して来ました。彼をキャプテンとしてたちまち20名程集まりました。大学にはボートなど一隻もありません。まず陸上訓練からです。ランニング・バック台・棒引きなどです。希望というのは偉いものですね。ボートもないのに畳みの水練よくやったものです。

  並行して宮崎水産高校のボート部からナックルフォア−を借りる交渉、宮大教育学部体育の南 光義教授に依頼して大学としてボート(ナックルフォア−)の購入の予算化を進めて頂く事など走り廻りました。写真の向かっておじいちゃんの左は南教授・右は石田コーチ・後が引田キャプテンです。

  借り物のボートでも一心の練習は大したものです。九州地区あちこちの大会で上位の成績を収めました。続いて県に漕艇協会を作り、理事長として宮崎国体の備えに貢献しました。


  その他、宮大医学部の創設に尽力しました。後で宮崎医科大学になりましたが、その創設準備委員会のメンバーとして医学部に在籍した経験が大きく評価されました。

  1969.9〜1975.3まで5年6ヶ月間在任中の宮崎大学での仕事は、3ヶ月間アメリカ・スウェーデン・ドイツに文部省の短期在外研究生として出張し、業績を挙げて来た事、医学部創設・ボート部創設・県漕艇協会創設に尽力した事などです。ライフワークとしての”情報理論”の放射線領域への本格的導入は岐阜大学まで待たねばなりません。