世にも不思議な学校

内田 勝


  世にも不思議な学校という題名自体興味をそそられるものですが、読んで行かれる内にきっと頷かれるものと思います。最近届いた印刷物の中に大阪大学放射線技術科学学友会卒業者名簿がありました。懐かしさ一杯で早速開いて見ました。 

  多くの卒業者の活躍振りが現れており、知る人知らない人に拘わらず誠に意を強くしました。中でも関心が深かったのは特別会員(賛同者)名簿でした。技師学校時代から辛苦を共にして来た同僚の存在を知るだけでも胸に込み上げて来るものがありました。フト気が付いて見ると技師学校生みの親である西岡先生の名前が無い事でした。また創設時から共に語り合った宮永君の名もない事でした。もう忘れられたのか、物故者は省くのか、またその他の理由があるのか分かりませんが誠に残念な事です。

  せめて”物故者・不明者”の欄でも増設して、分かっている姓名・当時の職名などだけでも記録して頂くと有り難いと思います。技師学校発展の歴史と共に永久に残して置きたいものと思います。それを見る人々にこの学校の卒業生と教師との相関を想起させるからです。当事者に是非御一考願いたい事です。

  このページは技師学校を中心に一部短大も含めて編集して見ました。当初短大を創立すると言う西岡先生のお考えは”技術は学問ではない”という文部省の当時の方針によって潰され各種学校として認可されました。国立では阪大1校、私立ではレントゲン技術専修学校1校だけでした。足の悪い(透視で足先障害、大腿部切断、義足)先生のお共をして何度文部省に足を運んだか知れません。

  各種学校というのは高校卒後2年修業する制度で、料理学校や理容学校などと軌を同じくするものです。国立でも教員の身分は助手より下位、高校教員の身分でした。従って給料も安く本代にさえ事欠く始末でした。宮永君とも良く話し合った事ですが、”放射線技術学を立派な学問として作り上げ、医師と対等にものが言える技師を育てたい”と。”それには我々教師が隗よりはじめよだね。”若いと言うのは猪突猛進で恐いもの知らずです。それから約50年経った今大学はおろか大学院博士過程が予定されるまでに成長しました。

  この教師達の覚悟が各種学校に学ぶ学生に反映したのか、”親父の背中を見て育つ”の言葉は自惚れ過ぎのきらいがありますが、各種学校卒業生約200名強の内約十数名は工学或いは医学の博士号を受領されています。長く看護学校の教師をしていた知人は”看護教育の中では考えられない”と絶賛を惜しまれませんでした。日本で始めて出来た技師学校の卒業生がこのように評価を受ける事は何よりも嬉しい事です。

  残っている写真の中から思い出すままに記録して見ました。おじいちゃんの独り言と思って気に触る事でもあればどうぞお許し下さい。    

画像

技師学校校長会議。

  立て看板に第六回全国診療エックス線技師教育研究集会と書いてあります。通称校長会議と言っておりました。教務主任も同席したものです。岡山大学で昭和36年6月2・3日行われた時の記念写真です。第一回校長会議は昭和31年10月25・26日に大阪大学で行われました。

  したがって、技師学校開設当時の功労者の先生方でこの写真に載っていらっしゃらない方々もおられます。それでも入江・古賀・武田・高橋・立入・・・・・滝内・行岡・・・の各先生方が文部省事務官を中心に並んでおられます。特に教務主任の先生方は殆ど知己ばかりで懐かしく一人一人丹念に見て当時を懐かしみました。

  専任教員も速水・細江・原田・田中・林・・・・・・の各先生方の顔が見えます。確か前日は教務主任会議で専任も交えて会議を持ったと記憶しております。その席で何時も問題になる議題は技師学校の短期大学への昇格問題です。国立と私立の違いはあっても短大への昇格は遠い将来の希望として常に意識して置きたい問題だったのです。

  校長会議でもう一つ楽しみだった事は夜の懇親会でした。一次会は兎も角ニ次会がそれぞれ楽しいグループを作っ騒ぎ回った事です。おじいちゃんは何時もの事ながら入江・古賀両教授に捕まって囲碁を楽しみました。また内田セミナーを博多でした時など大濠公園のお宅にまでお邪魔して夜中の一時頃まで白黒を戦わせました。やっと探したタクシーで箱崎の宿舎まで帰ったのを覚えています。

  宮崎大学に医学部を創設する準備委員会のメンバーでしたので、入江先生の御意見・御助言を頂くため委員長と癌センターまでお伺いした事もあります。医療技術者養成の短期大学も附設する案を示しました。医学部は創設成功しましたが、宮崎医科大学として独立する事になったのは御存じの通りです。  

  話が脇にそれましたが、技師学校の発展した現在の姿はこのように多くの人々の絶えざる希望とたゆまぬ努力によって成就されたものと考えます。それぞれの立場においてこの事を認識して研鑽に励みたいと存じます。


  

日本放射線技術学会及び日本エックス線技師会役員。

  開催年度など良く分かりませんが、大阪で行われた理事会の様です。滝内・新門・細江・林・・・・先生などの顔が見えます。技術学会と技師会は昔からどうも上手く行って無い様ですが、この時は合同で懇親会をやった様です。

  もともと技術学会は学術団体であり、技師会は政治団体である事は明白な事実です。それぞれがその分をわきまえておれば何ら問題が起こる事はない筈です。それがどうした事か、会員がほぼ重なっているからか、混同されいろいろな面で問題が起こる様です。

  おじいちゃんがいた阪大放射線科は技術学会には好意的でしたが、技師会にはあまり好意的ではありませんでした。学問・研究の府であって見れば当然の事でした。そこで私も技術学会には直ぐ入りましたが、とうとう技師会には縁がありませんでした。

  現在、技師会会長で世界的にもリーダーシップを持っている中村 実君とは深い縁があります。若い頃、林君と私は中村君と一緒に技術学会の編集委員でした。いいにつけ悪いにつけ仲の良かった3人は3ヶ月毎の委員会が待ち遠いほど楽しみでした。林君には早く別れ、中村君とは縁が遠くなり寂しい限りです。  

阪大技師学校

左:
阪大1期生。


右:
見学旅行。


  左は阪大技師学校の1期生です。右は昭和37年卒業の9期生の見学旅行です。1期生はそれぞれ診療放射線技師として技師長或いは諸外国に診療援助に行くなど目覚ましい活躍をしました。1期2期3期生ぐらいまでは東京方面の病院に就職した者が多かったと記憶しております。

  技師学校では毎年見学旅行が実施され、楽しみの一つでした。この写真はその一枚です。確か富士フィルムを見学した時のものではないでしょうか。女子学生が二人いましたので事務員の小谷千鶴子君が同伴しています。遠藤先生も便乗同行しました。

  毎年毎年の見学旅行は学生は皆成年ですし、特に問題も無く楽しい年中行事でした。何期生の時だったか、学生には問題がなく、引率の私が血を吐いて救急車で病院に運び込まれる事件がありました。夕食時学生に勧められるままにビールを飲み過ぎたらしい。ソファーに横になって扇風機に吹かれたのが悪かった様です。一緒に同行していた速水君がいたので助かりました。

  救急病院では、”一時的なもので大した事ない、ベッドに一晩寝ていなさい。”と言う事で気分も良くなっていました。 付き添ってくれていた速水君と計らって、明け方こそっと病院を抜け出し宿舎に帰りました。後の見学は2日間牛乳とパンで過ごしました。学校に帰って直ぐ透視をしてもらいましたが、異常なしと言う事でホッとしました。勿論茅ヶ崎の病院には丁寧なお詫びとお礼状を出しました。



大日本レントゲン学校教職員および第1期生

  行岡先生は西岡先生と阪大医学部の同期生で親交がありました。阪大に技師学校が出来たのを見て、”よしそれでは技師学校の夜間を作ろう”と早速西岡先生と相談されて創立されました。”内田君、今度行岡君が夜間を作るから手伝ってやってくれ”との事、どうせついでだからとお受けしました。

  非常勤講師なども阪大の非常勤の先生方にお願いしました。校長は当初行岡先生が当たられましたが、大阪市の市会議員であり、行岡病院の院長でもありましたので、間もなく大日本レントゲン製作所の丹羽先生に変わられました。丹羽先生は戦時中陸軍技術少将であった方で温厚な先生でした。写真では丹羽先生を中央に宮永君も私も載っています。コニカの上田先生も見えます。

  ここでは苦い思い出があります。講師手当てがあまり良くないので、多くの非常勤の先生方の要請で行岡理事長に連名で嘆願書か要求書かを出しました。私が教務主任役をしていましたので、筆頭署名人でした。しばらくして私だけ呼び出されました。”突然だが、今回君に辞めてもらう事にした。他の連名者は全員私の条件をのんでくれました。この問題の責任者として辞めて頂く”と言うものでした。

  本件を要請した先生方の内誰ひとり私の側にたってくれる者がいなかった、自分だけ満足すれば良しとする姿を見てガッカリもしたし、自分の不徳の致す所と諦めざるを得ませんでした。今後のいい教訓として二度とこのような失敗はしませんでした。         

西岡先生

左:
西岡先生の御家族と。


右:
一休み。


  西岡先生には子供さんがおられませんでした。その所為か若いものを良く可愛がって下さいました。私も父を子供の頃から知りませんでしたので、ついつい甘えて先生のお供をよくしたものです。西岡先生はお家族でよくピクニックに行かれました。この写真はその帰り道かと思われます。

  右の写真は技師学校教務室で非常勤講師と歓談している所だと思います。後ろに見えるのは小谷事務員です。このような事務員が配属されるまではおじいちゃんがひとりひとりお茶を汲んで差し上げたものです。今になって思う事は、専門の異なる先生方との雑談がどれほど後に役立っているか知れないと言う事です。   

おじいちゃんの先生方

 

  左は小原誠先生です。私より一回り上で研究の事は勿論、人生哲学まで親しく教えて頂いた方です。大阪レントゲン製作所から立命館大学教授に転任されました。後に夜間部の主事にまでなられました。先生も技術学会の会員で総会にはよく一緒に出席しました。各演題に適宜な質問をされるのに感心したものです。その後消息が分かりません。御存じの方はお知らせ下さい。

  右は村田和美先生です。池田市の大阪工業技術試験所の研究部長をしておられる時、文献から先生を知り同じ池田市に住んでいましたので、良く訪ねて行って教えを乞いました。光学におけるレスポンス関数の権威でした。後で北海道大学教授として赴任されました。学会で特別講演をお願いしたり、寄稿してもらったり大変お世話になりました。   


  左は佐藤教授です。阪大教養部教授で数学専攻です。どうした事か昔からおじいちゃんには数学専攻の知己が多く何処の職場でも直ぐ仲好しが出来ました。佐藤先生は酒が好きで、囲碁が好き、また?も好きでおじいちゃんと肝胆相照らす仲でした。技師学校非常勤講師で毎週会えます。たまには北の新地に足をのばす事もありました。後に教養部長になりました。私の学位論文では数学に多くの示唆を頂きました。

  右の写真は短大の渡辺講師(当時)です。後に金澤大学教授として出向し文学部長になりました。東大仏文出身のパスカリアン渡辺君と京大出身のカルテジアン坂本助教授(後に信州大学教授)の二人に囲まれて私はデカルト・パスカルの洗礼を受けました。おじいちゃんを大局に目覚めさせてくれた恩人です。

  本技師学校は建物も狭くて酷い、予算も無いに等しく、従って設備・図書も貧弱、運動場もない。しかし周りの緑と非常勤講師の素晴らしさは此れ等を補って余りあったのでしょう。いい学生が育ちました。最近”学校崩壊”の言葉をよく耳にします。この技師学校と正反対の環境が何故崩壊に繋がるのでしょうか。やはり教師との繋がりに落ち着くのではないでしょうか。

技師学校から短大へ

  阪大病院石橋分院の門を入ると、左の石橋分院が目に入ります。後に短大本館になったものです。門から真直ぐに進むと、中の写真地獄坂にかかります。急な坂でその突き当たりがお山の幼稚園と言われた技師学校です。木造で廊下がガタビシいう古びた平家でした。それでも阪大病院の中を邪魔物扱いにあちこち転室させられた事を思うと独立校舎を持てただけで一人前になった様ないい気分でした。当時の立入校長が病院長を兼務しておられる時で皆感謝したものです。

  これでこのページを終わりますが、”世にも不思議な学校”のタイトルの意味がお分かりになったでしょうか。学校とは何をする所なのか、賢明な諸兄には既に御認識頂いた事と存じますが、温故知新現代に生かして更に発展させようではありませんか。