今年(2001年)4月、日本放射線技術学会総会で土井教授に会った時、”以前、先生のランチョンセミナーで、ロスマン教授のスライドを拝見し懐かしく思いました。先生のホームページに載せて頂いては。”と言われました。”うん”と生返事したものの、何しろ30年前のスライドであり、殆どコダック・エクタクロームのリバーサルですが、褪色の心配もあり自信ありませんでした。黴の生えていそうな箱を捜し出し、やっと資料を作りました。

  おじいちゃんが国外に出るのは学生時代6年間の旅順を除いては始めてです。1970年7月から7・8・9と3ヶ月シカゴ・ルント・ミュンヘンに夫々一ヶ月づつ滞在しました。勿論文部省の短期在外研究員としてです。その当時身分は宮崎大学工学部教授になり立てでした。本稿ではシカゴ大学のロスマン教授の教室にお世話になった頃を思い出しつつ述べていきます。

今は亡きロスマン教授に捧ぐ

内田 勝

  大学の夏休みを中心に予定を組んでいました。考えて見るまでもなくシカゴ大学も夏休み、ロスマン教授も7月は夏休みで前半は留守、後半にならないと会えないとの事、仕舞ったと思ったが後の祭り。やむなく前半は教室員との交流、学会出張、遊覧など英会話を楽しみながら過ごしました。後半のロスマン教授とのディスカッションに備えての勉強も励みました。

  もともと私は診療放射線技師の資格・制度・学識などに関心があり、日本と米国の比較に大変興味がありました。土井さんを通じて調べた所、全然違った制度である事が分かりました。一言で言うならば、アメリカでは技師は完全に operator に徹している事です。日本ではどちらかと言えば医学の中での物理学者という雰囲気です。従ってシカゴ大学においても特に技師とは交流せず主に物理学者とdiscussion する様に努めました。日本の技師教育の程度の高さを改めて再確認しました。土井教授の話によれば現在でも同じ体制だそうです。

  文中敬称は殆ど略しましたが、職名があるのはその当時のものです。しかも30年前のもので記憶も怪しいものです。従って氏名も間違ってはいけないと思い日本語で記しました。失礼ある時は御勘弁下さい。ではアルバムを開いて見ましょう。

画像

ロスマン教授。

  先ずはロスマン教授のプロフィールです。親しみやすい人柄で前後数回のディスカッションでもそのテーマは細々した事ではなく、医学の中での物理学とか物理学者の役割と言った総合的な事が殆どでした。言葉の壁があるので土井研究員(現教授)の援助で大助かりでした。色々な事を話し合いましたが、中でも彼は”医学の中での物理学者の仕事は常に放射線医との相互作用によって研究すべきである”と主張しました。今になって思えば、その通りですが、当時日本における医師と技師のギスギスした関係に悩んでいたおじいちゃんは”物理学者は放射線医と独立して仕事をするべきである。医師に従属するものではない。放射線医の目的を知れば、その目的達成の為に物理的な研究をするべきである。”と主張しました。お互いにその立場において理解する事が出来ました。

  また研究面においては彼の”私は放射線画像の評価を空間周波数領域において解析したい。またROC解析を適用したい。”と熱っぽく語りました。私はまだその当時エントロピー解析の糸口を掴んではいませんでしたが、”私はシャノンの情報理論によって画像評価をしたい。”と将来の希望を述べました。彼は”近い内に画像評価の城を作る”とも真剣でした。

  どうにも意見の一致を見なかったのはロスマン教授の”研究は診断の役に立たなければ意味がない”と強い信念を持っておられた事です。土井研究員もボスの意見に従います。私は”研究とは自然の隠された姿の真実を少しでも解き明かす事であり、それが何の役に立つかとは関係ない。”と反論しました。如何にも青臭い意見ですが、今でもそう思っております。夫々自分の哲学を持って然るべきでお互いに良い雰囲気で理解しました。

  5、6年前MIIの有志20名とシカゴ大学を訪れた事があります。その時メッツ教授に”ロスマン教授の墓参りをしたい”と訪ねたところ”彼の墓はない。遺言によりミシガン湖に散骨しました。”との事、静かに湖に向かって彼の霊に黙悼を捧げました。

教授室にて。

  教授室におけるロスマン教授です。日本の大学の教授室とは比べ物にならないほど質素な部屋です。しかし明るく清潔で必要なものは全部揃っていると言う感じの部屋でした。ロスマン教授はドイツ人でロチェスタ−のコダックから赴任したと聞きました。英語は我々と同じく第3国語です。従ってゆっくりとした語調で私にはとても分かりやすく助かりました。

  とても親切な人で、慣れない私のシカゴにおける生活を土井研究員共々援助して頂きました。それはスウェーデン出発間際まで続けられました。出発前夜はロスマン教授宅で私の送別会を教室挙げてして頂きました。それは7月31日ロスマン教授宅でした。モ−ズレイ学部長も見えていました。その他ロスマン・土井・メッツ・アート・スツルブラ−各氏放射線科のスタッフ全員の出席です。それに各人奥様同伴ですので、私を入れて全員13名の大勢でした。

  夫人同士は大いに喋りまくり、旦那達は皆小さくなって、台所で喋っている有り様です。モーズレイ夫人にロスマン教授から紹介があった直後”ラッシュ ストリートに行かれたのですね”と言われ吃驚しました。一昨日土井研究員と”topless go go"に行ったところだったからです。やはり学部長夫人ともなるとニュースが早いと妙な所で感心したものです。夫人達の指揮の下、旦那様達はパンや料理をまめまめしく運びます。

  スツルブラ−君は同じ部屋にいる所為か一番話しやすい。”こちらは主人が台所をして運ぶのですか?日本は反対だよ。””大変羨ましいと思っている。こちらの風習です。私の所は日本式ですよ。”と返事が返って来る。

討論。

  ロスマン教授のこの部屋で土井研究員と一緒に何度も何度も討論を重ねました。それはさておき前項送別会の続きを話しましょう。飲み物から始まってテーブルの料理が終わり、女性群を除いて皆私のテーブルに集まって来ました。話はラッシュストリートから始まって上がったり下がったり何処の男性も同じかと心を強くしました。何れの先生も国際的ですから、話も国際的です。ロスマン教授の”日本に赤線はありますか?”が口火で世界を回っているだけあって各国の話が出ます。

  ”何所とかはウイークデイは危ない。日曜の朝ならいい。”とモ−ズレイ、すかさず”朝からプレイするのですか。我々は通常夜プレイする事になっていますが。”と私、初めは笑いを噛み殺していたようですが、堪り兼ね一同大爆笑、女性群が話を止め聞き耳を立て出す始末です。”スウェーデンには貴方の為に私が代わりに行っても良いですよ。”とモ−ズレイ、”何だったらいろんな場所を教えましょうか?”とロスマン。”ありがとう、しかし結構です。私自身で探す事にします。”と私。実に上品な国際的なY談です。この時ほど人間として男性として教養を身につけた人々を素晴らしいと思った事はありません。

  後で土井さんが言った事ですが、”今日は素晴らしかった。ロスマンさんは石部金吉と思っていたら、あのように親しめる人とは露知らなかった。10ヶ月いるが、あのように全部集まった事は始めてだし、ロスマンさん宅でもあのように多くを招待したのは始めてだそうです。先生は立派だ”と妙な所で持ち上げられました。しかし確かに良い気持ちでした。


メッツ助教授。

  メッツ助教授(現教授)です。ここでロスマン教授の教室について少し言及しましょう。当時ロスマン教授の教室は画像工学としてはガタガタの様です。勿論聞いた話しですが。準教授二人はRI・測定関係。助教授も同じであり、画像工学に興味は示しても実際に手を下そうとはしない。助手・講師にしても給料が不満で後一年くらいしかいないと言います。頼みにするのは土井研究員位のものです。彼にしても3年契約です。

  医者の中の理工学者として、ロスマンは日本における医学部の物理学者と同じ様な境地に立っているものと思われます。長い間医学部にあって下積みにあった自分には痛い程よく分かりました。言葉が自由に話せるなら肩を叩いて慰めたい所でした。

  メッツとも良くdiscussionしました。今でこそROCの大家ですが、当時はRI scanningの像改良を手掛けていました。RIシンチスキャニングの像改良にMTFを適用したものでした。ここにオリジナリティが認められPhDが授けられたものの様です。シカゴ大学では多くの事柄に感心しましたが、特に動物室と地下工場には驚きました。

  動物室はairconditioningは勿論の事、立派な部屋に実に清潔に飼われています。床も天井も壁も人間の居室と変わりません。阪大病院のあの汚い動物室の観念しかない私には実に脅威でした。また地下工場を持っている事です。地下でランズル教授に紹介されました。バンデグラフ(20MeV),リニア−アクセラレイタ−(50MeV)を見ましたが、何れも10年以上前の物で殆ど地下工場で自家製のものでした。ランズルさんの最初の子供だと言っていましたが、回転治療機も自家製です。大学とは斯く在るべきだの感を深くしました。

  エレクトロニクスを担当しておられるスケッグ教授にも紹介されました。故障すれば直ぐメーカーを呼ぶ日本と異なり、教授の下、直ちに工場が駆け付け修理に当たります。合理的に機敏な修理が出来そうですね。


土井研究員。

  現在はロスマン放射線像研究所の教授兼所長ですが、当時は渡米10ヶ月の研究員でした。言葉も殆ど不自由なく私は大助かりでした。慣れない私の生活全般のお世話・諸注意・大学内の案内・各先生の紹介・行楽・バーベキュー・研究発表会・プール遊び・各病院の見学その他何日も泊めて頂きました。言葉では到底申し尽くせない程の御恩を感じています。生涯忘れる事はありません。

  土井家ではよく泊めても頂いたし、日本食も頂きました。”渡米9ヶ月の私にはどうしてもアメリカを好きになれない。やはり日本の国は日本人にとって余りにも素晴らしい国であり過ぎる。しかし3年もおれば今の気持ちは変わるかも知れない。”とも言う。そうかも知れない。環境もよし生活程度も高い米国ですが、他に祖国を持つ人間にとってそれらは単なるアクセサリーではないでしょうか。”郷里を離れて始めて郷里を憶う”の古い言葉は正にこの事でありましょう。

  後で出て来る川名助手(帰国後教授)のお宅にも良く招待され御馳走になりました。日本人宅に招待される度に思う事は、外国に如何に長く居ても何処かに小さな日本を作ってそれを大切に生きている、例えば家庭など小さな日本を作って生活しているに違いないと感じました。独身者は日本人同士で集まって小さな日本をそこに見い出しているのでしょう。日本にいる外国人が如何に上手に日本語を話し、箸を巧みに使っても、家庭の中には何処かに母国の香りが立ちこめているに違いないと思いました。偉大なる母国日本を再認識した思いです。

スツルブラ−助手。

  スツルブラ−助手とは同じ部屋だったので良く喋りました。英会話の練習にはもってこいでした。アメリカ人の風習とか慣習・エチケット等色々と学びました。14日にはワシントンのシェラトン・パ−ク・ホテルで土井研究員の研究発表がありましたので、教室員が何名か出席しました。私もその後の小旅行を含めて出かけました。

  所がです。私が宿舎を予約して無かったので大困り、土井さんを始め皆心配してくれました。いざとなれば土井さんの車で寝ようと覚悟していました。スツルブラ−さんの素晴らしい提案で助かりました。それは自分のホテル(シェラトン・パーク・ホテル)はツインだからそこへ泊まれと言う。不安もありましたが、外人でも風呂上がりは靴は履かず裸足でウロチョロするのを見て安心しました。

  ワシントンからニューヨークまでは、土井さんの車で彼独り運転、約4時間さぞ疲れた事でしょう。私はタフトホテル泊まりです。翌日はセントラルパーク・エンパイアステートビル(102階)から眺望しました。今は世界一ですが近じか110階のビルが二つ出来るそうです。市内の病院放射線科の設備など見学して、いよいよ観光船に乗ってマンハッタン島の素晴らしさ、自由の女神あたりは最高調でした。

  翌日は待望のコダック行きです。空港にはクリアーさんが出迎えに来ておられ彼の車でコダックへ。コダックではヒギンス博士と共に13:00から18:00時までぶっ続けでdiscussionしました。フィルム・増感紙の斜入から始まり7項目に渉って議論伯仲しました。議論をenjoyした感じでした。   

秘書等と。

  写真が少し手振れですが初めに紹介された秘書です。名前も忘れてしまいましたが、可愛こちゃんだった様です。コダックからナイヤガラ瀑布の観光に行きました。バッファロウからバスと観光バスを乗り継いで素晴らしい景観のナイヤガラ瀑布です。よく映画などで見ますが、実物は正に壮観です。カメラの中に入り切らない。このスケールの雄大さは世界一でしょう。再び見る事もないこのナイヤガラ瀑布を目の奥底に焼き付けるように観て置きました。

  このような大きな滝を観て育った人々と日本の日光とか那智の滝とか数ある滝を観て育った人とは心の持ち方に大きな違いがあると思われます。視野の狭さを痛感している私には痛い程その差異が分かる様な気がしました。帰りはバス・飛行機の時間に追われながらもシカゴビーチホテルに帰り着いた時はホッとしました。

  7月11日天気も良い。珍しく少し涼しいくらい。John Hancock Centerに出かけようと思いました。office residential buildingとしては世界一(1107feet) buildingとしては世界で2番目との事、41階までエレベーターがあるので乗りました。41階で降りて一回りしましたが、まだ工事中で人影もありません。帰りは上りの一人のエレベーターの気味悪さを思い出して、階段をボチボチ歩いて降りて見ようと思いました。今この記事を書いていてもその時の恐ろしさで背筋がおぞけだつ思いがします。

  非常階段の飾りッ気のないエアコンもない蛍光灯だけ明るいムッとする階段でした。何階か降りて行く途中外の気色を見ようと非常扉のノブに手を掛けた所ビクともしません。途端にゾオーッとしました。それはシカゴ大学病院の扉のシステムを思い出したからです。屋内からは自由に出られても、外からは鍵なしでは入れないシステムが採られていました。もしそうだとすれば、土曜日曜と2日間閉じ込められる事になる、心臓は早鐘の様、頭はクラクラ、足はフラフラ、一つぐらい開いてる扉があるかも知れないと必死でした。階段を上がったり下がったり何れくらいしたでしょう。やっと何階か下で扉が開いた時には半死半生の様でした。外見構わず、廊下に仰向けに暫く転がって神に感謝の祈りを捧げました。

プールで。

  8月1日、今日は次のスウェーデン ルント大学に出発する日です。昨夜の心暖まる送別会の楽しい雰囲気の残る土井さん宅の朝でした。朝からロスマンさんの電話です。”今日プールに泳ぎに行くからドクター内田の都合を聞いてくれ”今日出発だからと辞退したのですが、”少し疲れた方が良く眠れる”と結局、牛に曵かれて善光寺参りとなりました。

12時前ロスマン一家は水着姿で待ち兼ねておられた様子です。ヒンズデールのスポーツクラブの会員だそうです。ロスマンさんのパンツを渡され覚悟を決めました。”人の褌ならぬパンツで水泳をする事になりました”ロスマンさんの奥さんも44〜5才の筈ですが、若いものです、夫婦して水の中に潜ったり、だっこしたり20歳代の若さです。土井さんと二人でポカンと口を開けて見ている始末です。

  パンツを返してお別れする時本当に寂しいと思いました。まだ何度も何度も会う事を約してお別れしました。これを後ろ髪を引かれる思いと言うのでしょうか。

バーベキュー。

  South Villageの自然林保護地区でのバーベキューです。7月4日シカゴに着いて間も無い独立記念日です。名前だけ存じていました大頭教授夫妻も一緒でした。写真に見られる通り御主人達が料理万端大サービスです。その柔らかい肉には本当に舌鼓を打ちました。ビールも旨かった。蚊の多いのには驚きましたが、蚊遣の焚き火で凌ぎます。良く茂った森林の中でのバーベキューはそのスケールの大きさとよく手入れされた草原のため実に印象深いものがありました。

  家族同士の付き合いは実に良いものです。その中に私も同化されて満足でした。その上心象的な光景にあたった事です。小用を催したので、日本でのように立ちションとは行かず、形ばかりのトイレを見つけ飛び込みました。驚いた事に手洗いの側に紙タオルが設備されているではありませんか。30年も前の事です、日本ではホテルぐらいしかそなえていない紙タオル、さすがと文明の違いを痛感しました。

子供達と。

  土井さんのお子さん二人との記念撮影です。30年前にしてはおじいちゃんはなかなかしゃれた格好をしているとは思いませんか。勿論、シャツは土井さんの借り物です。奥様が選んで下さいました。お二人のお子さんは今では立派に成人され、共に権威ある大学を卒業されて有能な社会人として活躍しておられるとのことです。一度会いたいものです。

  今回のシカゴ大学における一ヶ月の研修が無事に終わる事ができました事は全く以て土井さんのお陰と感謝しています。始めVisiting - Professorの縫ぐるみの白衣を渡された時は日本人として責任の重大さを認識したものです。何度お宅にお邪魔し泊めて頂いたか知れない程です。奥様にも心からお礼を申し上げます。

  5、6年前MII有志20名ほどでお伺いした時も心から歓待おもなし頂き、お礼の言葉もありませんでした。有り難うございました。

川名教授御家族と。

  この写真はシカゴ現地のものではありません。私は宮大から岐阜大、停年で静岡の常葉学園大学に浜松大学創設のため学部長予定者として在職しておりました。帝京大学川名正直教授御一家が学会のついでに訪ねて来られた時のものです。その後、核医学会が宮崎であった時お目にかかる約束でしたが、お出でにならず後程訃報が伝えられました。アメリカでの御恩をお返しする間もありませんでした。残念です。心から御冥福を祈ります。

  当時、川名助手は土井さんと同じく9ヶ月目で一年間の在外研究員でした。”装置としては千葉大の方が大きいかも知れないが、ただサイクロトロン5MeVがあって自分の好きなIsotopeを作り、実験出来る所が魅力だ”との事でした。お家族揃って親切な方々で何度も夕食に招待され、そろそろ日本食が恋しくなっていた私を喜ばして頂きました。

  奥様は彼の有名な千葉大の中山恒明教授の令嬢とか、夫君の父君は外科院長、ヨットクラブ・水泳・漕艇各連盟の会長と有名人です。いつぞや大変夕食のお御馳走になり、記念撮影の後、ノートに一筆所望され次のように書いたのを覚えています。

  この広大なアメリカ大陸の中に、小さなこんな小さな日本が美しく存在する事は本当に素晴らしい事です。感謝します。

Suguru Uchida(署名)

                                                   

  当時の日誌を参考にして記述していますが、まだまだ書きたい事は一杯あります。写真も沢山あります。その一部ですが、文章を参考にして御想像下さい。シカゴ会の皆様はロスマン教授を初めての方もおられる事でしょう。貴重な写真と思います。大事に心に留め置き下さい。