短期在外研究

(スウェーデン・ドイツ)

内田 勝

  おじいちゃんが短期在外研究員としてアメリカ・スウェーデン・ドイツに3ヶ月の予定で海外出張したのは、阪大医技短大部から宮崎大学工学部に赴任して早々の事でした。アメリカでの事は”マヤンの呟き5”に略記しました。スウェーデン・ドイツではスウェーデンは兎も角ドイツでは自分の不注意から多くの人々に御迷惑をかけ申し訳無く思っており、気は進みませんが、これからの人々のため敢えて書く事にしました。

  マルメの空港にはカールソン教授御夫妻とベビーチャン3人が大歓迎のお出迎え、始めて会う人々なのに旧知の様な感激でした。早速彼のホルクスワーゲンで後に写真がある様に、表から見るとお伽の国の家のような留学生宿舎に案内されました。日本人滞在者も何人か居て心強く感じました。

  シカゴ大学では日本人が何人も居て心強く総ての情報が日本語で的確に得られ、非常に助かりました。ドイツでは幾らかましでしたが、スウェーデンではサッパリで英語が通じる人が少なく不自由しました。しかしその国情の違いがよく分かり心静かに瞑想に耽る事が出来ました。

  スウェーデンはアメリカの近代文明に接して来た眼には如何にも泰西の名画を見る様な感覚で写ります。石を細かく敷き詰めた石畳の一つ一つにも、赤れんがの建物、それに調和する太い幹の樹木、荘重な大きな噴水、泰西の名画がそこにある様です。教会の鳴らす鐘の音がいやが上にも北欧情緒を盛り上げます。北欧の女性は肌白く、金髪で白一色の感じでとても美しくアメリカの色とりどりを見て来た眼には新鮮に写りました。

  それに反してドイツでは人も多く喧噪でまるで日本に居る様な感じでした。ミュンヘンの空港には誰も出迎えには来ておられませんでした。ショーバー教授とは日本で国際会議があった時、彼が議長私が副議長で一度お目にかかっています。その時も開始間際に駆け付け我我をやきもきさせた経験があります。またそんな事だろうと待っていましたが、来る気配もありません。大学にもお宅にも苦労して電話しましたがお留守です。止む無くこれも苦労してホテルを探し明日を待つ事にしました。しかし、その夜ホテルで飲んだビールの旨かった事忘れられません。

  翌日秘書に連絡がつき、ショーバー教授が私が短期在外研究員で来る事をスッカリ忘れていた事が分かりました。その後の彼の恐縮ともてなしはこちらが恐れ入る程でした。しかしドイツに来る早々何か不吉な予感がした様です。果たして、ジュース数本で約10万円ボッタくられたり、交通事故にあったりさんざんでした。しかしミュンヘン大学病院に入院して診療を体験した事をせめてもの幸せと思わねばならないでしょう。

  スウェーデン・ドイツでも沢山写真を撮ったのですが、事故があって入院、ホテルから荷物を運ぶ時に紛失したのか、撮影済みのフィルムが何本もなくなっており、編集に苦労しました。残っていたフィルムの中から選んで編集しましたが満足ではありません。文章で御想像下さい。また人名・地名で発音が正確に記憶してないものは原語で記しました。御了解下さい。ではアルバムを開いて見ましょう。

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カールソン教授。

  愛車ホルクスワーゲンのカールソン教授です。私は恵まれています。ここでも先生には親切にして頂きました。留学生宿舎の一室に落ち着いた頃窓をノックする人がいる、カールソン教授です。一便遅れて着いた私の航空手荷物を運んでくれたのです。一階ではありましたが、窓から入れてくれました。何だか中世の騎士が恋人に会うのに窓から忍んで来るのを思い出して可笑しく思いました。

  彼の専門はドジメトリーです。共同研究しようとの事、望む所です。彼と私の論文を2〜3交換し勉強する事になりました。彼はMTFに取り付くのが中々大変だった様です。何日も何時間もdiscussion しました。ここでグスタフソンさんに紹介され、滞在中何度も何度もdiscussの機会を持ちました。しかしこちらの MTF関連の研究はまだまだの様でおじいちゃんの知識が役に立つ程度と言っては失礼ですが、発展途上の過程と考えられました。

  彼の部屋で大失敗をしました。初めてのdiscussの日、何時もの調子でタバコをスパスパ吸ったものです。翌日部屋に入るなり”私はタバコには非常にセンシブルで、昨夜は喉を痛め、胃がむかついて困った。すまんが部屋でタバコを吸うのは止めてくれないか。廊下に喫煙する場所があるから、そこを利用して欲しい”と言われました。全く申し訳ない、平謝りに謝りました。勿論以後部屋での禁煙を守った事は言うまでもありません。

  8月30日カールソン教授宅で私の送別会がありました。秘書と彼女の夫が同席して待っていました。彼はルント工科大学の学生との事でした。食事は日本人の私を意識してか米を主材料とした食事でした。とても美味しかった。日本を離れて2ヶ月にもなると米が恋しくなります。食後スウェーデンにおけるfree sexの話しになり、クリスチナ夫人と夫が一生懸命説明してくれました。私が反論すると”私達は女性の処女の価値を全然認めていない。愛すなわち性交に達するのが真の愛である。現に私も今の夫と結婚する2年前に他の人と性交を持っている”と言う。夫の前でそれを平然と言い、夫もそれを平気で認めている。徹底したものです。

  その内陽気なスウェーデンの音楽に合わせて、2組がダンスを始めました。カールソン教授の足捌きはなかなか見事なものです。秘書と踊り出しました。奥さんは明らかに不快そう、焼きもちを焼いてる様です。こちらではいつ他の女性に夫を取られるか知れないと言う不安がある様です。10:30に多謝して失礼しました。

留学生宿舎。

  留学生その他外国人研究者の宿舎です。前述の様に表から見るとお伽の国の家の様ですが、なかは家財道具が皆伝統あるものらしく古い名画やソファー・ピアノ・机・椅子など皆歴史を物語っているようです。アメリカの近代文明に接して来た眼には泰西の名画を見る様で、銅製の置き物など博物館に行った様です。

  私には6畳ばかりの小さな部屋が割り当てられていました。木の硬いベット・机と椅子2脚・洗面所・ロッカーなど小さいだけで不自由はなさそう。風呂・便所・台所は共通です。広間にテレビが置いてありました。何日だったか、日本の軍艦マーチが聞こえて来る。覗いてみたら誰もいません。テレビは第2次大戦の記録を実写していました。スウェーデンで日本の軍歌を聞こうとは思いませんでした。山下将軍・松下洋輔・山本元帥など懐かしい日本の軍人が出て来ます。第2次大戦中に流行した日本の歌が随時出て来ます。感激して涙が出て来そうになりました。

  スウェーデン人は非常に日本人に友好的で、日本趣味を好みます。一種の憧れを持っている様に見えます。テレビにもこのような日本の古い姿を特集しているのもその為でしょう。こちらで知り合った人に徳島大放科から来ていると言う藤原君がいます。入局6年と言うからまだお若い。1年の予定で7月の初めに来たらしい。僅か先輩格です。

  彼とは一日コペンハーゲンに日本料理を食べに行こうと言う事になりました。マルメからコペンハーゲンまで水中翼船35分、タクシーで真直ぐチボリへ。チボリは花壇・池・野外音楽堂・劇場・映画など楽しい遊園地です。歩いて市庁舎へ。流石に市の中心らしく立派な彫刻を持った古い美しい建物です。ここにも時計台があります。北欧では何か中心となる様な建物には必ずと言って良い程時計台がります。次は歩いてローゼンボルグ城、17世紀以来の国王の遺品があります。この城を取り巻く王公園には天然の太い木が並びそのあいだは芝生でうめられ美しい公園です。多くの老若男女が日光浴を楽しんでいます。少し疲れましたが、クリスチャンボルグ城まで足を伸ばしました。この城はバロック風宮殿で外観だけです。

  いよいよ楽しみの東京館の夕食です。前に一度来た時に眼を付けていたスキヤキと御飯お腹一杯思う存分食べました。今日は1日能率のよい観光をして東京館の締めくくり、満足しました。   

ルント大学本館。

  ルント大学の本館事務局です。外見もさる事ながら、内部など博物館の様に広々として天井も高く階段・廊下・その他のスペースがゆったりしていて如何にも北欧の荘重さを表していました。手続きに何度か来た程度ですが、印象に残る建物です。

  本館では特に記事はありませんので、水の都オスローに足を伸ばした時の事を書きましょう。ホテルの近くの公園では丁度野外音楽堂で青少年少女が組織する吹奏楽団が演奏していました。音楽堂を中心にショウインドウを見て歩いていましたら、若い二人の娘の子に捕まりました。年の頃18〜9でしょうかヒッピーでもないし普通の娘の格好をしています。英語で”1クローネ下さい”と言う。”何故だ”と聞くと”困っている”と言う。おじいちゃんの娘くらいの年頃だしやろうかと思いましたが、後難を恐れて”No"と言いました。黙って去って行きました。可哀相な気分でした。

  グランドツァーに参加しました。グランドツァーはボートによる観光と記念公園が目玉です。ノルウエーの民族衣装を身につけたガイドの娘さんは中々愛嬌があって楽しい。英語・ドイツ語・フランス語・スウェーデン語・ノルウェー語の5か国語で説明する。吃驚大したものです。バスには日本人が一人乗っていて心強く感じました。目指す記念公園は多くの彫刻を中心にした花に飾られた美しい公園です。皆男も女も裸の彫刻でありそれが色んな姿で刻まれています。

  男女相抱く姿・親子の情・親が子を折檻している像・兄弟の像・老人が孫を抱く姿一つ一つ見ていたら到底時間がない。噴水も彫刻から成り立っている。奥にトーテンポールの様に白い石に多くの姿が彫られた素晴らしい彫像がありました。写真の紛失が残念です。時間なので元の所に帰った所そこにバスがいません。慌ててトーテンポールの所まで行って見ましたが、そこにも居ません。泣きそうになりながら、止むなく元の所で待つ事にしました。善後策を考えながら元の所に近付くと憶えのあるバスが待っています。彼によるとガイドが”ここには戻って来ないように。トーテンポールの横にバスを廻して置くから”と言ったらしい。"excuse me"を連発しながら席に着いた事は勿論です。

  絵解きをしてくれたのは彼でした。私が予々知りたいと思っていたfree sexについても次の様に解説してくれました。”free sexとは淫らと言う事ではない。お互いに愛情があれば結婚は別として、sexまで行くのが当然だと言う考え方だ。フィンランドでは通訳の女の子と会って5日目に肉体関係に入った。しかしこちらで子供を作ったら一生出国出来ないだろう。それはその子供の一生の養育費を支払わねば出国出来ないからだ。これはスウェーデンと言わずスカンジナビアは全体がそうだ。”中々良い話が聞けました。感謝して別れました。  

ルント大学病院。

  ルント大学付属病院です。付属病院はドクターオリーンに案内して頂きました。ドクターオリーンはMDで拡大撮影に興味を持っておられました。焦点0.3mmのX線管しかないので2倍拡大を中心に仕事をしているとの事。50μが欲しいと日本のX線管が羨ましそうでした。私の知っている限りの拡大撮影の仕事について話しました。次に地下工場に案内されました。

  やはりシカゴ大学と同じ様に地下に同様な規模の工場を持っており、エレクトロニクスの分野もあり、大体のものはこなすようです。矢張り、大学とはかくあるべきなのでありましょう。カールソン教授の部屋でグスタフソンさんと同じく紹介された方にドクターホルムがいます。

  ドクターホルムはいかにもエネルギッシュな壮年で別冊を5冊も頂きました。M.Dであるに拘わらず、MTFの論文を1964年にシカゴ大学において発表しています。テレビジョンの専門家で放射線診断部門を見学させて頂きました。オートメーション化された数々の装置・テレビ系を駆使してサブトラクションを自由にこなしている。至る所テレビ系を使って仕事を能率化しているのが実に素晴らしい。

  気が付いた事は断層装置が実に多い事です。デンタルにおいてもフレキシブルカセッテを使ってパノラマ撮影が出来ます。装置はエレマ・フィリップスなどが多く、東芝の回転横断装置が一台ありました。その他テレビ系は自作のものが殆ど、シネに関してもよく整備されており、フィルムのカッティング・自現・コピー総て完備されています。ロゲトロ・サブトラクションのコピーはポラロイドカメラです。フィルムの読影もテレビ系を使って、ポジ・ネガ・拡大・縮小自由自在です。

  シャーカステンも勿論上下自由、カセッテの暗室送りも自動化されています。腰椎の撮影にしてもロカールは患者の側でテレビで観察しながら行われ医師のスイッチで撮影されます。放射線科診断部門のスペースは約8000平方メートルとの事。これが今から約30年前の現状です。なんと素晴らしい病院ではありませんか。

   

インゲルスタム教授。

  王立工科大学のインゲルスタム教授です。インゲルスタム教授は丁度在室で快く迎えて頂きました。良いおじいちゃんです。早速、レンズのMTF測定装置とレーザーによる音響の測定装置および結果を見せて頂きました。レンズのMTFは0.5ミクロンのピンホールからの光をレンズを通してジーメンスチャートを通し測定(低周波)し、これらは計算機を通してMTFが記録されます。高周波領域はピンホール像のフーリエ解析を行います。2台ありました。

  1台は大きな長さのコリメーターを持っていたのには驚きました。ニッコールとキャノンではニッコールに軍配が上がり、ライツは世界一だろうと言っておられました。レーザー光源は60mWヘリウムネオンの物で、バイオリンの板の振動を記録していました。大した事が出来ると感嘆しきりでした。未発表でこれから発表すると言っておられました。

  放射線系に情報理論を適用する足掛かりを話し意見を求めました。”その考えは合理的である。同意する。しかし情報源として質量より吸収係数をとる方がよいと思う。”の意見でした。後、エレマ・シェーナンデルの場所、バスを教えてくれたり、帰りはバスまで送って下さった。しばしであったが、学者同士の旧知の様な親しさと別れの惜しさを感じました。かたいかたい握手をして別れました。沢山の文献を頂き、素晴らしく業績の多い学者である事を知りました。   



エレマ・シェーナンデル。

  フィルムチェンジャーを中心に寝台・イメージインテンシファイアーで世界的に有名な彼のエレマ・シェーナンデルです。ここではミスターハレンベルグに紹介されこの人が案内人になります。フィルムチェンジャーの2/sec・4/sec・6/secの夫々の利害得失の説明を受ける。製作所をザーッと一巡しましたが、決して東芝玉川工場の様に大規模ではありません。

  車でもう一つの工場に案内される。ここは主に脳波計・心電計を作っており、初めに16チャンネルの脳波計の説明を受ける。ペンの機構が素晴らしい。摩擦を避ける為70/1000mmの外経の細い管からインクを圧力で噴射させて紙の上に記録する。8チャンネルの小形もある。製作行程も見学しました。バクテリアの混入が一番危険との事で密閉室になっています。細い管はマグネットの振動で動きます。記録紙上の線は10/1000mmという。実に細く美しく線が書かれています。

  見学が終わって昼食に案内されました。車で約10分、静かな入江の見える古いレストランでした。一番上等の料理を注文してくれたらしい。お腹が空いているからだけではない、何を頂いても美味です。スウェーデンにもこんなに日本人の口に合うのがあるとは有り難い。食後は草原に出て入江を見ながらコニャックとコーヒーです。天気はいいし、お腹いっぱい、コニャックはフランスの酒と言うが、私にはきっとスウェーデンの香りとして生涯残ると思う。

  後、本工場に戻ります。作っているものは3相12パルスのジェネレーターなど高級な技術を要するものが多い。最後にあまり見せたがらなかった、トランスの組み立て・含浸油・真空タンクなどを見る事が出来ました。見学は終わりました。日本人では私が4番目の来訪者だったそうです。非常に有益な見学でした。心から感謝してお暇しました。      

人魚像。

  写真はアンデルセン物語で有名な人魚の彫像です。それはある日曜日の事です。同宿の野間さんの車でドライブする事になりました。野間さん御夫妻と子供さん二人それに佐藤教授(女性)とおじいちゃんの6人です。コースは先ずHalsingborgに行ってそこのお城を見ます。対岸のデンマークの侵攻に備えた城の一つのようです。そこからフェリーに乗って15分対岸のデンマークHelsingorにつきます。Helsingorではあのハムレットが悩んだと言われるクロンボル城を見ます。1600年代の遺品が主に陳列されています。

  岸にはスウェーデンに向けて大砲が並べてあります。スウェーデンとデンマークの戦いの歴史は興味がありますが、ここでは聞く術もありません。それから南下してコペンハーゲンに入ります。市のはずれにこの人魚の彫像があります。絵はがきと異なりその小さいのに驚きました。ここは海岸の散歩道らしく多くの人々が残り少ない太陽の光を惜しむかの様にベンチに岸壁にあるいは芝生に転がっています。菊のような美しい花が黄・白・赤・紫と植えてあります。イギリス教会の前の噴水は見事でした。こちらの噴水には彫像を中央に据えたものが多い。いよいよコペンハーゲン市内に入ります。

  人口100万と言われるだけあって駐車困難なほど賑やかです。北欧風のレンガの古い建物が美しい。今回の目的の一つである東京館に着きました。久々の天ぷら定食・すき焼き・日本茶・アイスクリーム満喫しました。9:20のフェリーに乗りました。御帰還は夜11時です。でも快い疲れでした。


  スウェーデンを去る時、プロペラ機の上で”さようなら、さようなら、スウェーデン、北欧よ、スカンジナビアよ”と何度も何度も繰り返しました。沢山書き残した事がありますが、おじいちゃんの囲碁3段の腕前で有志の人々に囲碁の手解きをした事です。30年経った今幾らか腕前があがっておればいいのにと願っています。嫌な事も嬉しい事もシカゴほど強烈ではありませんでしたが、静かに心に残るスウェーデンでした。さようなら。

  次はいよいよ最終コースミュンヘンです。

  

ショーバー教授。

  写真の通り見るからに好々爺のおじいちゃんです。冒頭に述べた様にミュンヘンに着いた当初大分見知らぬ土地で苦労しましたが、おじいちゃんに平身低頭されて謝られると逆にとても親しみを感じました。秘書のミセスグ−トマンは60位の婦人ですが、これまたとても好く気の付く慈母の様な方でした。

  紹介された研究者はドクタースチ−ブ、測定器に殊に興味があるらしく、測定器は精度の高いものである事が繰り返されます。測定結果の話、当然私のMTFによる補正が話題になります。次はドクタープルフェルマッヘル、彼は中々早くからMTFに取り付いていた様です。フィルム・増感紙などのMTF(1965)を発表しています。何度もdiscussしました。最後にドクターレ−レル、教室では一番よく研究している様でした。私の情報理論の放射線撮影系に対する適用の意見に対して色々と意見が出ました。第3国同士の英語はお互いに良く理解でき快適な数時間でした。以上の3名とはチャンスある度に見学とかディスカッションをお願いしました。こちらではMTFの研究者多く心強い時期でした。

  ドクタースチ−ブからは放射線科を案内して頂きました。断層は3台、シカゴ大学にあったフィリップスと同じものが1台含まれています。透視1台、撮影2台、特に珍しい装置はありません。学生へのデモンストレーションの部屋が一つ。やはり、テレビを使って拡大・縮小・ポジ・ネガ・コントラスト・ピント・映画など、スウェーデンと小規模ながら揃っています。16mmの編集器・シャーカステンはルント大学のものが1台だけありました。放射線科の設備はシカゴ大にあったものとか、ルント大学にあったものを一つづつ持って来た様なもので、ただ小規模なだけの感じでした。

  ショーバー教授からは何度も何度も御馳走になりましたが、一度はお宅に招待され奥様の手料理でもてなしを受けました。ショーバー教授はどうも骨董趣味の様で飾り棚の中のものを一つ一つ説明されました。お米の料理は久し振りで夫人の心尽くしを有り難く頂戴しました。2匹のワンチャンとも仲良くなり、別れ難い思いでした。11時半彼の車で送って頂きました。

ショーバー教授夫妻。

  愛犬2匹を連れて歩くショーバー教授夫妻です。私がスイス人と名乗る偽看護婦2名から約10万円騙し取られた心の傷を癒す為ドライブに行ってくださった一日です。その経緯は次の様です。外国生活では食事が一番気にかかる所です。その日も外食で夕食を終えアイスクリームをくわえながらのブラブラ歩きでした。前方から来た二人の令嬢に声をかけられました。

  ”今、旅行中でスイスからミュンヘンに来た。泊まっているホテルから推薦されたカフェがある。そこへ行ってダンスしたりワインを飲んだり音楽を聞きたい。それで道を調べているが、もし良ければ貴方もどうですか。”丁寧に断わってタクシー乗り場を教え案内しました。そこまでは良かったのですが、どうしてもその店まで付いて来てくれと言う。私はフェミニストではありませんが、気の毒になってとうとう同乗しました。3〜4分で着いた所は、表に照明のないCAFEと看板の上がった所です。まだ9時頃で客はいない。一人は看護婦でもう一人は歯科技工士と言います。

  二人と曲に合わせて3〜4回踊りました。可笑しいと思い始めたのはドンドンジュースのお代わりを注文する事です。どうも変だと気付き、トイレのついでに計算書を要求しました。持って来たBillを見て”しまった。やられた。”と途端に思いました。750DMと出ているのです。日本円で75000円です。”そんな大金は持っていない”と言うと敵もさるもの”ホテルにトラベラーチェックを持っている筈だ”と強引に大男二人にホテルまで車で連れて行かれ、チェックを切らされました。

  深夜でしたが、ショーバー教授に電話して一部始終を報告しました。車で御夫婦して来られ、私を乗せて市内中その店を探しましたが、分かる筈もありません。警察にも話された様ですが、”彼等は外国人であり非常に取り締まりが困難である。このような事件は非常に多く起こっている。トラベラーチェックのストップも無理だろう”と取りつく島もない。”明日、山にドライブに行こう”と御夫婦で慰めて下さる。せい一杯のお心尽くしに涙する心地でした。

  翌日は約束通り御夫婦の運転でドライブです。古い寺院・シュロスリンダ−ホッフ・王様の宮殿、アルプスの遠景が美しい。丸一日観光に費やして慰めて頂いた。感謝の気持ち一杯でお別れしました。

ベット清掃。

  ミュンヘン大学病院に入院中定期的に清掃している個室です。ここに至るまでが大変でした。事故の事など露しらず、ミュンヘンからベルリン、ベルリンからハンブルグ、ハンブルグから一旦ミュンヘンに帰り、更にミュンヘンから空路フランクフルトへ、フランクフルトから陸路ハイデルベルグ往復、フランクフルトからパリーへの国内旅行案を持っていました。9月14日の事です。

  月曜の朝です。登研して直ぐグ−トマン秘書に捕まり、水曜は研究室で遠足に行くから、私の水曜出発の旅行を変更してはどうかの話がありました。私を慰める意味もあったと思います。勿論、木曜に伸ばして遠足のOKをしました。私が詐欺に会った翌日、彼女に会った時の事は忘れられません。ショーバー教授から総べて聞いて知っていたのでしょう。慈母の眼というのでしょうか私と眼が会った時から涙ぐみ終いには両手で顔を被ってしまう始末です。母に叱られた子供みたいに私は小さくなりました。私はここに人間を見、母を再び見た思いがしました。私の眼からも危なく涙が。

  昼から駅の横の郵便局に行き手回り小荷物を送り出します。そして駅で今回の旅行案について調査し検討しました。帰りはぶらぶらと前に通ったコースのショウウインドーを見ながら歩きました。とあるショウウインドーの前で気を失いました。その後はわかりません。気が付いたのは夜中ですが、ベッドにいます。翌日眼が覚めたら矢張り病室です。

  後で分かった事は地下から上がって来たトラックのサイドミラーが激突したらしい。脳底骨折の疑いと左鼓膜断裂と言う事がやっと分かりました。断層撮影が何度も撮られ大分X線のお世話になりました。ショウバー教授始め教室員の人々、在外研究している日本の人々、その他沢山の見知らぬ人々のお見舞いを頂き、外地での心からなる御厚情に嬉しくて涙する心地でした。  

病室の窓から。



  よく助かったの思いがひしひしと身を包んでいました。日本領事館の小島さんが来られ諸調査が行われた様でした。絶対安静が続きましたが、体力が回復するにつれ、帰心矢のごとしと言う言葉通りに途中で死んでも良い帰りたいと言う気持ちで一杯でした。担当医は”まだまだ入院加療の必要があるが、ファーストクラスの飛行機と日本での当分入院加療の条件を満たすなら帰国を許可する”と言われました。

  がんがんする耳でしたが、天にも登る心地でした。詐欺・入院費などで心細く、日本航空の御好意で日本着払いで乗せて頂きました。素晴らしいファーストクラスも最初でしたが、振り袖姿のスチュワーデスも最早日本に帰国した思いでした。羽田のゲイトで長谷川教授と木村事務員の出迎えを受けて、一遍に元気になった思いでした。

  それから阪大病院・宮崎県立病院の入院を経てやっと現役復帰出来ました。多くの方々の御好意と御援助によって達成出来た在外研究でした。これらの経験を宝として今後に生かし皆様に御恩返ししなければと覚悟しております。