ああ、わがボート人生

内田 勝


  研究では”画像人生”が大學の最終講義の題名であったように、ボートはおじいちゃんの人生のより所であり、嬉しいに付け悲しいに付けまた苦しいときも楽しいときも常に共にあったと言ってもいい存在でした。

  6年間で記憶に残る大きな事柄の一つに旅大間往復遠漕の行事がありました。。旅工大漕艇部の年中行事の一つとして旅順大連間を6人乗り固定席のボートで乗り切ろうと言うのです。ところが、漕艇部始まって以来一度も往復無事に完遂出来た事が無く、またかと新聞記事を賑わす程度でした。行きか帰りかどちらかが失敗するのです。

  私が1年の時は2年3年の先輩によるクルーがこの年中行事に挑戦しました。往路は成功しましたが、復路は大連、星が浦沖で高波を被って沈没、残念ながら往復は成功しませんでした。私が2年生の時も勿論挑戦しました。私もレギュラーの1人として参加しました。

  この時も今度こそはと天候の予測・波の予測・風向き・潮の流れなど綿密な予測を立て準備万端整え、実行に入りました。往路は見事今までの最速記録で完遂出来ました。もう占めたものだ、帰りも同じ調子で行けばいいと楽観したのが油断に繋がったのか、大連・旅順間の中間地点小平島付近で白波に出会いました。  

  監督として同乗していた先輩は迷ったに違いありません。乗り切ろうか引き返そうかと。舷の低い 6人乗りボートにとって白波ほど恐ろしい波はないからです。何度も経験している先輩は勝算ありと見たのでしょう。”ようし、白波を突っ切るぞ”とコックスに"G O"を命じました。

  ”スパート”コックスの叫びとも取れる檄のもと一斉にオールが荒波を叩きました。私は2番を漕いでいましたが、舳先に付けて置いた波除けが白波に吹き飛ばされて背中を打ちました。そう思った瞬間、海水がドドッと流れ込みボートは沈み初めました。

  ”さあみんな、小平島まで泳げ、琵琶湖哀歌だ。”頃は6月18日海水の心地よい時期です。初めはそれこそ歌を歌って直ぐそこに見える小平島の砂浜まで遠泳のつもりでした。ところがいくら泳いでもキャンプの見える砂浜に近づきません。大変な間違いをしていました。潮流が逆だったのです。

    気が付いた時は既に遅し。後で止まっている時計で分かった事ですが、ボートを離れて約1時間、ボートの疲労に加えて荒波を泳ぐ疲れ、間違いに気づいた絶望感で、近くで聞こえていた声も一人減り二人減り近くにいるのは佐藤だけとなりました。ボートはと見れば遠く流され、コロちゃん事武田さん一人が残って立っているのが見えました。(彼は足がツルので舟に残ったとの事でした。)

  ”内田大丈夫か”姿は波で見えないが佐藤の声が何度も天の声の様に聞こえる。泳ぐのに疲れた。朦朧とした頭の中に母の姿がチラチラする。ややもするとブクブクと沈みそうになる。小平島のキャンプの人々が砂浜を走り回っているのが見える。もう駄目かと思った。その時でした。”おーい、サンパンが来たぞ。皆頑張れ”初めは元気付けるための檄であろうと思った。しかし本当でした。サンパンが一人づつ拾い上げて舟には既に2〜3人乗っていました。

  サンパンに拾い上げられた私は2〜3人のクルーメンバーと抱き合って泣きました。同乗者8名の内何名かの犠牲者が出たに違いないと思ったからです。自分たちの生存の喜びよりも失ったかも知れない命に慟哭したのです。後で聞いた話ですが、大連病院の院長が浜で釣りをしていたそうです。丁度通りかかったボートを見て”恒例の遠漕だな”と思い、一瞬目をブイに移した後、ボートの姿は無くなり白い千鳥が波間に転々と浮いているのが見えたそうです。瞬間沈没したなと直感したそうです。皆白い帽子を被っていたからです。

  それから後は小平島の駐在所、漁民へとサンパンの出動となり、有り難い事に全員救助されました。駐在所の計らいで近所の民家で体を休め、頂いた真っ白なおにぎりは忘れる事は出来ません。厚く厚くお礼を述べてバスで大學に帰りました。当然大學から退学か停学処分を受ける事は覚悟していました。 新聞には”この戦時中人的資源の大事な時に何事か”とデカデカ書かれるし、毎年毎年の不始末に首を切られる罪人の気持ちでした。

  所が何のお咎めも無く、ただ”今後旅大間遠漕の行事はまかりならぬ”とのきついお達しで済みました。有り難や有り難やと言う所でした。然し寛大な処置に不審を抱きながらもホッとしたものでした。これには後日談があります。当時の野田清一郎学長の息子克彦は旅工大の同級生で先年亡くなりましたが、彼がその絵説きをしてくれました。学長は学生時代に同じ様なボート事件を起こしており、それが寛大な処置に繋がるものであると笑いながら亡くなる前に言ってくれました。

  この他色々ありますが、画像の中で思い出すまま記して見ましょう。

画像

ボート1年新人

  左は旅工大漕艇部で作ったメダルです。入部した前年に作られたもので、入部の折りに頂きました。中央は一年生で編成したクルーで合宿所の前です。右は何かで大連に行った時、新入生だけで撮ったものです。それから60年以上も経た現在では向かって左2人だけが生存しています。貴重な写真になりました。

  新入学の時、漕艇部に行き、”ボート部に入れて下さい”と申し込みました。喜んでくれると思いきや私の体を上下・前後・左右からしげしげと見て”残念ながら、君の体では無理だね。”説明に由ると、非常に節制と強健な身体を要するスポーツだから、間々体を壊して休学・退学する者が多いからと言う。青白き秀才?と言われても仕方ない体だったのでしょう。門前払いでした。しかし諦めませんでした。何度も何度も頼み込みやっと入れてもらえた次第でした。

  それがボートで鍛えられ、お櫃を空にするほどの食欲、1カ年の内に見違える様な体格になりました。おじいちゃんが元気なのはその遺産だと思っています。   

  

漕艇部・合宿


  左は漕艇部長を初め一年から学部3年まで全員の写真です。後ろに見えるのは大學本館です。この時の漕艇部長は電子工学の原教授でした。”ボートに民主主義はない。”と言われるほど上意下達の見本のようなスポーツで上級生にはチリチリしていました。

  右の写真は旧市街合宿所の前で学部監督以下予科1年から3年まで現役の面々です。合宿所のおばさんには娘さんがいて我々のアイドルでした。殊に末の女の子は喋った言葉を直ちに逆さに返事すると言う正に天才的な頭の持ち主でした。よくからかっては楽しんだものです。

  合宿所の生活は今思い出しても青春そのものの日々でした。合宿所での鍛錬は棒引きが主なものでしたが、二組に分かれて良くやった物真似は忘れられない楽しみでした。

瀬田川へ


  表題の”瀬田川へ”とあるように、一年に一回”全国インターハイ漕艇選手権大会”が琵琶湖の瀬田川で行われます。この大会での優勝を目指して全国の高等学校・専門学校が精神力を鍛え、体を鍛えて競ったものです。

左はおじいちゃんが2年の時の出場クルーです。沈没したのもこのメンバーです。右の写真は遠征中、航海の間もバック台で練習に余念がありません。また其の右は瀬田の唐橋の上の応援風景です。大きな幟がはためいて川面にこだまする声援です。旅工大は遠い所から来ていて応援もいないことから同情声援が多く嬉しかったものです。それでも残念ながら優勝をものにする事は出来ませんでした。

力漕


  左は3年の時の練習風景です。おじいちゃんは5番を漕いでいます。練習が終わって艇の停泊地に帰るところです。港には見物人がいるので皆気を引き締めて漕いだものです。右は瀬田川での力漕風景です。オールの撓りが力の入り具合を示しています。涼しい顔をして号令するコックスが憎らしく思える時もあるくらいです。

  オールを引き終わった後に出来る泡の大きさで力の入った漕ぎか弱い漕ぎか一目で分かるのでサボれません。コーチとかコックスは直ぐ認めて激励や注意をします。全く誤魔化しの効かないスポーツです。

猛練習


  左は3年次の時のバック台練習です。昨年の遠漕の失敗で年中行事は取り止めになりましたが、瀬田川への遠征は我々の暦年の悲願です。右の写真で見るように冬でも練習を続けました。この年も悲願を達する事は出来ませんでした。しかし精一杯の練習と努力・精神力は鋼鉄の如く鍛え上げられ、現在までの困難を克服出来たと独り感謝しています。

  バック台のおじいちゃんの髪の毛が薄いのに気が着かれたと思います。佐藤の輸血のお陰でやっとチブスから生還できた後だからです。高熱で毛が殆ど抜けて仕舞いました。バック台が出来る幸せを噛み締めています。   

スカールと納艇


  旅工大漕艇部には6人乗り固定席2杯とスライディング・スカール1杯がありました。左の写真はそのスカールで、なにしろ1杯ですので殆ど学部先輩が乗り回していました。それでも軽快なスカールは羨望の的でちょいちょい乗っては楽しみました。右はシーズンオフで艇を格納するところです。専ら1年生がよく働きました。

  ああ忘れる所でした。ヨットが1杯ありました。ヨットと言える代物かどうか分かりませんが、それでも帆は2枚あり、錘板も舟の真ん中にチャント付いています。舵を操作すれば満足に帆走します。3年の時クラスメイトの井上 智と計らって誰にも内緒で大連まで帆走しようと言うことになりました。

  朝から準備して折からの順風に乗って船出しました。湾内は良かったのですが、湾外は逆風で大連に向かうどころかどんどん南に流され、二人とも荒波に酔ってゲーゲー吐く始末。これは到底の事ではないと二人とも必死の思いで逆風の中、帆を操って長い時間掛かってやっとの思いで湾内に辿り着きました。その晩は灯台の下で仮眠しました。罰があたったのでしょうね。翌朝は何食わぬ顔をして学校に出たのは言うまでもありません。若いとは言え無茶な事をするものですね。

瀬田川でコーチ

  私が学部1年の時、コーチとして選手を引率して瀬田川に遠征する事になりました。その出発直前に”戦時中のため大会中止”の知らせを受けました。切符・合宿の手配も全て出来ている現在どうするか皆と相談した結果、何日かでも練習として瀬田川の地を踏み現地を知りたいと纏まりました。合宿所には旅工大漕艇部の先輩で京阪電鉄に勤めている平野さんという方が来られて大変お世話になりました。写真はそこのおばさんや息子と一緒に撮ったものです。

  大会中止となっても我々と同じように瀬田川で練習しているクルーが何杯もありました。中学のボートを見て,かねがね琵琶湖の中学生のボートは強いと聞いていましたので、軽い気持ちで練習試合を申し込みました。旧制中学と言っても旧制高校の我がクルーよりは年も若いし体も出来ていない。甘く見ていたわけではありませんが、スタートからゴールまで差を付けられっぱなしです。顔色なしです。

  分析してみますと、先ず第一に漕法が全然違う。我々はオールを水面に入れるときはオールのブレードを卵をなでる様に静かに入れる。それはスプラッシュによる波の抵抗を少なくするためと教えられていました。また其の通りであると思っていました。ところが中学クルーの漕法はこの考えの逆を突いていました。卵をなでる様にするためにはオールの力が弱まり、スプラッシュの長所が逆に欠点になっていたのです。

  そこで、中学生の体の弱点を知る指導者は、スプラッシュの欠点を考えないでオールを全身の力を込めて水面に叩きつける漕法を取ったのです。この作戦は功を奏しました。旅工大漕艇部始まって以来の伝統漕法はここに反省の機会を与えられました。しかし残念ながら、戦時中で大会中止になった現在活かす術もありませんでした。写真は先輩平野さんを囲んで合宿の打ち上げ会です。     

技師学校大阪大学学内優勝

  大阪大学学内漕艇大会で優勝したときのものです。4人乗り舵付きフォアーです。技師学校と言っても学内では知名度なく肩身の狭い思いをしていた教職員・学生一同です。万丈の気を吐いてくれました。5〜6年間位続いたかと思います。毎年上位成績で嬉しい思いをしたものです。

  勿論艇も借り物、バック台も借り物それでも放課後の時間を見て猛練習をさせたものです。漕艇部と言ったような正規の運動部ではなく同好会的なものでしたけれども、若い頃のおじいちゃんは気性が激しくデカルト的な至上主義でしたのでボートマンシップを叩き込んだ覚えがあります。

  それにしてもビール瓶がこれほど並んでいたとは気付きませんでした。今でも同窓会などで集まった時、ボートを漕いで鍛えられた連中が懐かしそうにそれでも漕艇魂を覗かせながら感謝しているのは嬉しいものです。

  この頃良く思うのですが、大學でも短大でもない各種学校の良さをつくづく感じます。技師学校では専任教師が1〜2名であってみれば教師と学生の関係が実に細やかで濃いと言うことです。大學短大では教師の数が多いだけ薄くなるのでしょう。各種学校では学生への影響力が大きいだけに教師の責任もそれだけ重いと考えられます。自分に過ちが無かったか反省する日々です。        

宮大漕艇部


  宮崎大学工学部に赴任直後,漕艇部の開設に取りかかりました。それというのも宮崎に着いて直ぐ目に入った大淀川が市の中心を流れ川幅も広くボートコースに適していることに気付いたからです。大學にはボート部はありませんでした。新任早々授業その他環境に慣れるのに大変でしたけれども、ボート部創設に執念を燃やしました。ラグビー部の引田君の協力を得て彼をキャプテンとする漕艇部の旗揚げをしました。忽ち30人足らずの部員が集まり、陸上訓練を始めました。

  私は水産高校からナックルフォアーの借用とか宮大教育学部体育の南教授に”エイト”購入の予算を申請してくれるように頼むなど走り回りました。丁度宮崎国体の準備時期で県漕艇協会の設立と重なり、私を会長にの話がありましたが、ご辞退して理事長をやむなくお引き受けしました。

  左は漕艇部員を前に何か訓辞めいたことを話しているのでしょう。後方は大淀川です。一番手前は石田コーチです。石田コーチは本職麻生セメント宮崎支店勤務で国際審判員の資格を持っておられるベテランです。学生を良く指導して頂きました。右は漕艇部全員で私の左は南教授、右は石田コーチです。

浜大漕艇部


  宮大から出向した岐阜大には既に漕艇部はあり活躍していました。おじいちゃんも宮大ではボート以外に医学部の創立・工学部大学院の併設など組織の改編に心血を注いだ為、肝心の研究が進まずそれが出向の大きな動機でした。従って岐阜大ではボートには関係せず研究に全力投球しました。この様にして63歳の定年を迎え、常葉学園大学で浜松大学創立の準備をすることになりました。

  ようやく出来た浜松大学では行きがかり上、経営情報学部長として初代学部長を務めることになりました。学部長は管理職で研究一本と言うわけにはいかず、雑用特に人を取り巻く問題には悩まされました。これを救ってくれたのはやはりボートでした。

  漕艇部を立ち上げ、バック台だけ購入して駆け足の陸上訓練”畳の上の水練”を続けました。例年浜名湖でボート大会が開催されます。4〜5日練習期間だけボートが貸し出されます。左の写真に見える学生は多分面白半分の者もいたでしょうが、私の基礎指導だけでレースに臨み優勝してしまいました。右は大喜びで学部長室で私に優勝トロフィーを持たせて記念写真を撮ったものです。もうやめて10年以上になりますが、いまでも続けているそうです。       

宮大漕艇部O B


  左の写真にあるように平成7年9月16日に宮崎大学漕艇部 O B が宮崎シーガイアに集まり、大いに気炎を上げました。おじいちゃんの右に石田コーチ、左に引田キャプテンと20年振りくらいの会合に我を忘れて話に夢中になりました。今考えて見るとこの頃が最盛期だったようです。最近聞いたのですが、だんだん入部者が減り、引田君など O B の説得にも拘わらず運動部として維持できなくなり、遂に最近廃部になったとの事でした。

  最近の学生の風潮と言うのでしょうか、苦しい・きつい・鍛えられるなどの運動部には入部しない。専ら楽なサークルを選ぶようです。これは教官など指導者の責任でもあります。これ一つを見ても”生むより育てる”ことの重要性をしみじみと感じました。右の写真は何かの時にフォアーに乗るおじいちゃんです。


  最近聞く所によると、宮崎大学と宮崎医科大学が合併して一つになると言う。元々宮大の医学部として認可されたものです。宮大池田学部長を長として医学部設置委員会を組織し駆け回った事を懐かしく思い出します。九大元学長入江先生を訪ねて教えを受けたこともあります。宮医大には立派な漕艇部があります。今は勿論エイトです。宮大のエイト(南教授の努力で予算が付いた)は廃部になってどうなったのでしょうか。

  2大學が合併になればより強力な漕艇部になるはずです。漕艇部を生んだおじいちゃんとしては是非合併して生まれ変わった強力クルーの誕生を望むや切なるものがあります。以上でおじいちゃんのボート人生の概略を終わります。