本ホームページを終わるに当たって

内田 勝


  本ホームページを初めて立ち上げたのは1999年7月14日でした。もう満4年を過ぎ、アクセス数もいつの間にか4万をすぎています。内容も変 化し続けています。このホームページを立ち上げるまでが大変でした。何をテーマにしたらよいか皆目見当も付かなかったからです。3年位ああでもない、こう でもないと、とつおいつしている間に3年経っていました。htmlの勉強はそれ程でもありませんでした。やっとupload出来た時は小躍りして喜びまし た。何しろ完全に独学でしたから。勿論、多くの方々のサポートを頂きました。今の私があるのはそれらの方々のお陰です。何時も感謝しています。

  初めデカルトとパスカルの相反する哲学に興味を覚え、その比較論から色んな事象に適用して理解を容易にするのが目的でした。ところが、元々哲学者でな い筆者にとって、深い洞察力もなく業績もありません。そこで”おじいちゃんの写真館”・”評論の広場”・”マヤンの呟き”とあるように身近な問題に限定し て”おじいちゃんの寺子屋”を編集しました。ページ数もプロバイダーサービス限度一杯までになりました。そろそろと思っていた矢先の事です。立入先生の訃 報に接したのは。

  先生の訃報に接し暫し呆然としていましたが、まず関係学会に追悼文を認める事が真っ先でした。悲しむ閑もなく、大きな岩に寄っかかっていた自分を意識 し、今その岩が瞬時に消えた状態を認識しました。一人歩きが不安な体ですので、滅多にお目にかかれませんでしたが、お元気でおられるとの便りだけでホッと していたものでした。

  各学会誌に先生の追悼文が掲載されました。私もその一人でした。多くの人々の追悼文はそれぞれ生前先生への思いのたけが縷々と述べられていました。先 生の人生の終末に当たりこれら追悼文の幾つかを記載して、先生を偲ぶと共に先生の恩顧に報い、先生の名に恥じないように努力する事を誓うものです。そして 先生と共にこのホームページも店終いにしたいと考えています。長い間、ご覧頂き有り難う御座いました。厚く厚くお礼申し上げます。

 

立入先生

内田 勝

  

  3月18日の夜、思いもかけぬ時刻に電話のベルがなった。速水君からだった。それは立入先生の訃報だった。何時かは聞くものとは知りながら、一 瞬頭が真っ白になるのを覚えた。続いて頭の中を立入先生との長い歴史が走馬燈のように駆け巡った。直ぐ何かせねばならない衝動を感じた。立入 弘教授退官 記念文集”光と影”を引っ張り出してきた。そこには自分のものも含めて、多くの人々の熱い思いが連ねられている。一頁一頁いとおしく丹念に読みました。早 春の寒空が白々と明けるのも気づかずに。

  文集の中の私の拙稿は“ハイ、たちいり”と言う題名の、怖い先生の電話口の第一声を題材にしたものです。今読み直して見ても、自作でありながら昨日の ことのようにありありと関連して思い出されてくる。これ以外に今更何を書こうか、先生のご冥福をお祈りするだけである。”光と影”の中の拙稿の締めくくり を紹介して先生の柩に捧げる言葉としたい。

  前略。   まる12年間先生に師事したのであるから、回顧録はきりがない。特筆するべき事はまだまだある。放射線イメージ・インフォーメーション研究会の創立に 直接努力され初代会長として現在の礎を築いて頂いた事、私のあまりにもきびしい方針に対する四面楚歌とも思える反感を、陽になり影になり和らげ解く事に努 力されたこと、私を医学部の助教授にされたいきさつ、公金紛失事件の処理等、お礼を申さねばならぬこと、お詫びせねばならぬこと山ほどある。

  教授として、研究、教育、診療の分刻みの忙しい体に校長の責務、大変であられたと思う。したがって、教官はまだしも学生などは入卒業式とその他、年に 何回と数える程しか校長とは会えなかった。しかし、教職員学生一に心に期していたことは”立入先生が校長でおられるだけでいい、それだけでいい”というこ とだった。たとえ退官されても、お元気でおられると言うだけで何かほのぼのとした心の安らぎを覚えることであろう。  ふつつかな自分など到底達し得る境 地でないにしても、そのような人になりたいと常々思っている次第である

  先生も人間だから、きっと欠点も持っておられるであろうし、私にも気の付くこともある。先生が論理の筋を通されることは有名な話である。それが冷たく 細かすぎるという不評を買うことがある。しかし、それが当たっているにしてもこれは光と影であろう。光強ければ影強しである。ともあれ、立入 教授の人物像は光と影のおりなす彫りの深い芸術品であろうとふと思うことがある。   後略。

  先生の人物像など失礼な記事に触れて申し訳ない記述ですが、定年ご退官の砌のいまだ生々しい感触は蘇ってきます。先生が育てられた技師学校はいまや博 士課程まで持つ大學となりました。技師教育としては50年記念を過ぎた最古の歴史を持つ大阪大学の今後の方針はどのように進むでありましょうか。きっと気 にかかっておられたことでしょう。

  現在は、範囲も広く深くその程度も高く,医学物理士を目標にしているのではないかと思われるでしょうが、必ず近い将来原点に帰って、理想的な診療放射 線技師を生み出す大學になることを信じています。先生安んじて将来を信じて下さい。心からご冥福をお祈りします。


「三月はいちばん無情な月」

ー名誉顧問・立入 弘先生とお別れしてー

山下一也

    立入 弘先生(大阪大学名誉教授)は、平成15年3月18日午後、93歳のご高齢をもって静かに逝去されました。「九十年に余る起伏の大きく変化に富 んだ人生でしたが、私なりに一生懸命に筋を通して生きて来たつもりで居ります。これも恩師、先輩や友人の方々の御好意と家族の愛情に助けられてのことであ りまして、今この時に当たりまして深い感謝の言葉と最後の挨拶を申し述べたいと存じます

  これは「お別れ会」で、参会者に配られた立入先生の直筆の遺す言葉の前文です。その上で「葬儀のことは極簡単に済ませるようにー」、「遺族に就きまし ては何分の御配慮と御芳情を賜ることができますならばー」と言葉を添えられて、ご自身の記名とお亡くなりになった当日の平成十五年三月十八日が記されてい ました。先生らしい几帳面な、そして周到なご配慮であろうか。この一事で、先生のお人柄のすべてが顕示されているように、わたしには思えてならないので す。

  先生が日放技学会と直接にかかわられたのは、第19回(1963)総会学術大会(学会長・林 周二)で、年度の名誉会長(現在は顧問)をお願いしたと きに始まります。林 周二先生とは、その後も公私にわたってのお付き合いが続きました。林先生が本学会の理事・企画委員長であったときに病を得 (1971)、それが胸部の悪性疾患であると最初に診断されたのが立入先生でした。阪大内科の胸部専門医に辞を低くして再度の診断をお願いされ「この胸部 写真は放射線技術関係ではなくてはならない人物のものですが、彼をいま死なせるわけにはいかない。どうだろうか?」と、わが事のようにおっしゃっていたの を,今でも鮮明に思い出されます。残念ながら1年後の1972年6月に林先生は逝かれました。

  遺された講演原稿をわたしが「<校注>論文」(59(2)、2003)に稿を起こした別刷りを立入先生にさしあげたら、下に示した葉書の ように丁重なお返事をくださったのです。(ご遺族のお許しを得ています。)九十三の齢を重ねられ、逝かれる二週間前にお書きになったとはとうてい思えない 論理的で意志的な、お元気な頃そのままに光るような筆致ではないでしょうか。

葉書

  大分、春を思わせる季節ともなりましたが、三寒四温で風邪を惹きそうで、くれぐれもお大切に。さて、林 周二君の遺稿について書いて下さって有り難 う。彼の病室に出来上がったばかりの上巻を持って見舞いを兼ねて届けに行ったのを思い出します。涙ぐんで喜んでくれた技師主体の本、それも彼の親しい阪大 の技師群や奈良、近畿の人達のものであるのを認めて嬉しかったのだろうと思いました。彼が今、生きて居たら、再びITの社会で活躍したか、今の私のよう に、もうこれは私の世界ではない、Dの世界はAの世界とは非常に異なるし、その間にBもCもある。これは今後の若い人達の活力に期待したい」といったか、 彼は私より5つ位若いのですが、それがどの様に働いたかはわかりません。とりあえず有り難う。御自愛ください。

葉書終わり

  本学会の名誉会員・梅谷友吉先生がお亡くなりになったおり(1980)、ご遺族から生前にお世話になった方々にいくらかでもご恩にむくいたい、それに はどうしたらよいだろうか、と立入先生にご相談があった。先生は即座に「それは梅谷さんが、愛情をもって育てられた日本放射線技術学会のほかないでしょ う」とおっしゃったのです。そして当時としてはかなり高額の醵金が学会になされ、学会はそれを基金にして1983年に「梅谷賞」を制定しました。立入先生 は長年のお付き合いのなかで、梅谷先生のお人柄と業績を反映させるためにその受賞の対象を、非学会員をも含めて教育や著作、発明などに著しい業績をあげた グループ、または個人にするようご提案されたのです。

  立入先生と林先生と梅谷先生ーいずれ劣らぬ論客のお三方ーいま頃は霊界の陽射しを浴びながら「これからの若い人たちの活力に期待しよう」などと鼎談に 花咲かせ天空を賑わせていることでしょう。3月20日の「お別れ会」で、白黄の菊花で埋め尽くされた祭壇のその中央に生前、慈しまれた、胡蝶蘭の花枠に包 まれた先生のたおやかな笑顔のご遺影に、ふと「三月はいちばん無情な月」と、わたしはつぶやいたのです。さようならー立入 弘先生、なにとぞ安らかに長閑 にお休み下さい。


先生、有り難うございました

速水昭宗

  3月18日の夜、いつものようにメールを見ましたら、先生が正午過ぎにご逝去されたとの訃報が入っておりました。明治42年10月23日のお生まれで すから93歳になられていたのですが、あまりにも突然の知らせに、一瞬、凍りつくような感覚に襲われました。

  先生の指揮下に私が入ったのは、個人的なことで申し訳ありませんが、昭和35年4月、先生が医学部教授として校長を兼務されていた医学部付属診療エッ クス線技師学校に勤務を始めた時です。(当時技師学校には直接の上司として恩師の教務主任の内田勝先生が居られました。石橋分院内の技師学校と中之島医学 部との地理的関係から不在地主をもじって不在校長と称して居られた先生ですから、したがって先生からの用件は電話になります。内田先生の外出先を知らない 時に電話があり、「上司の外出先を知らないで良く留守番役が勤まりますね」と厳しく叱責されたことは今でも忘れられません。先生を会長に頂き、本学会の前 身である放射線イメージインフォメーション(RII)研究会が発足したのはこの後のことです。

  昭和41年2月に技師学校から医学部放射線医学教室へ私が移り、先生が定年退官される昭和48年3月まで教室員として薫陶を受けました。先生編集の 「診療放射線技術」が12名の分担執筆で発行されたのは、上巻が昭和46年11月、下巻が昭和47年1月です。苦心してやっと仕上げた原稿に対するご校閲 の厳しかったことは、赤字が入らないページは皆無と云って過言でない状態で原稿が返って来た事からでも明らかです。しかし赤字には、その理由が判るように 配慮されていたことは大変有り難いことでした。当時まだワープロは無く手書きですから、詳細に読むことは大変な労力を要されたことと感謝しています。先生 の理念に対する出版社の協力もあって内容の強化改訂が繰り返され。分担執筆者も37名と増えましたが、改訂の度毎の先生による赤字の作業は変わりませんで した。幸いにも版を重ね、この種の本としては希有な30年を超える寿命を持つに至りましたが、これも先生の広範な見識に裏打ちされた無類の指導力があって こそ出来たことでありましょう。またこの本を介して、ご退官後も途切れることなく、ご相談などで何度もお目にかかる機会がありましたから、技師学校から 40数年間ご面倒をお掛けしていたことになります。

  先生とお話ししていますと、最初これは先生に黙っておこうと思っていたことまで聞き出されてしまう様な、話術の巧みさをお持ちで、心の内まで見透かす かのような、また優しくも見える眼差しで見詰められることを合わせ、隠し事は難しい事でした」。患者から詳しく病状を聞き出す能力は、臨床の医師として、 必須の要件でありましたでしょう。そして先生と意見が食い違った場合には、必ずと言って良い程、食い違う理由を十分に聞かれた上で、ご自身の意見を論理的 に話されたものです

  先生が絵をよく描かれる事、古典音楽に明るいこと、ドイツ語をはじめとする語学にご達者な事は良く良く知られていることですから触れませんでしたが、 ユーモアに富むお話しぶりといい、教養人であられたことに疑いを入れる余地はありません。幸せなことに私は、これまでに多くの得難い人々との出会いを持つ ことが出来ました。然し、先生のようなお方と再び出合う機会はもう私には与えられないのではと言う諦めに似た気持ちと共に、厚かましくも許されるならば、 かけがえのない父親を失った不肖の子のような心境であると言わせてください。

  有り難う御座いました。 安らかにお休み下さい。


画像の神様

小寺吉衛

  3月18日、本学会名誉顧問立入弘先生がご逝去された。享年93歳、まさに巨星墜つの感がある。立入先生は、いうまでもなく本学会の前身である放射線 イメージインフォーメイション(R I I)研究会の初代会長であられた。その事が、本学会の方向を決定したと金森仁志前会長の「RII研究会設立当時の回想」にある。本学会の基礎は医学と工学 が共通の土俵の上で対等に議論することにある。その礎が、立入先生の時代にすでに築かれていた。以後、40年、研究会は学会となり今日に至っている。

  私が立入先生と近くでお話をさせていただいたのは日本放射線技術学会の表彰委員会で先生にある賞の選考委員をお願いしたときからである。その時、いき なり書類の不備を指摘され、雷を落とされた。その後、同じ技術学会の編集委員会を担当したときには原稿をお願いした後の対応の不味さから、厳しいお怒りを ちょうだいした。本学会の事務局を預かってからも、理事会の案内の不手際でお叱りの言葉をいただいた。都合3回、叱られた。先生には大変申し訳ないことで あったが、今から思えば、なにものにも替え難いありがたいお言葉であった。この叱られながらいただいた原稿は、技術学会雑誌の巻頭言であった。「観音様を 女性とはいえません」と題したこの文は、ご自身の経験を振り返って、人の「思い込み」を諫めたものである。立入先生の医師として研究者としての厳しい一面 を見た思いであった。

  放射線画像の世界で感じることの一つに、「画像は西」という感覚がある。どういうわけか、画像をやっている人は関西以西の人が多く、また熱心でもあっ た。今日でこそ、それ程感じないかも知れないが、ほんの何年か前までは多くの人が感じていたであろう。その理由はいろいろあろうが、それらの源を辿ると、 その原点に立入先生はおられた。立入先生のもう一つのお顔は、阪大の診療放射線技師学校の校長を勤められていたことである。この学校は今や博士課程のある 大学院を擁するまでに成長した。放射線技術学という学問が産声を上げた、その原点に立入先生はおられた。

  多くの遺産を引き継ぎ、本学会はここにある。若い人たちは、過去にとらわれる必要はないが、その精神だけは受け止めていただきたい。それが、われわれ にできる唯一の立入先生への感謝の気持ちでもある。

  先生、長い間ありがとうございました。どうか、安らかにお眠り下さい。


一つの小さな永遠

内田 勝

  ”立入先生が亡くなった。”の知らせは全国津々浦々からあらゆるメディアを通じて飛び込んで来ました。来るべきものが来た。私の感情は信じ難くも理性 は疑うことを許しません。私は研究と教育の大きな二つの使命を先生から方向付けられたと思っております。研究は”放射線画像”教育は”診療放射線技師教 育”でした。教育に関しては別に述べる積もりです。ここでは研究に関してMIIにとって如何に大きな存在であったか、先生のお陰でどれだけ発展したかにつ いて、先生の執筆の跡を偲び、ご冥福を祈りたいと思います。

放射線像の研究(第1巻 1964ー1066)より

ーレスポンス関数ー

立入 弘

  3年前の春に、それまでこの方面に興味を持ち熱心に研究を進めて来た内田君などを中心として、主として診断用のX線像を情報理論的にいろいろの角度か ら解析し、数的な根拠と理論を求める人達の集いとしてのRIIが始められました。初めは局外者には非常に難解であり、中中取っ付き難いのを承知の上で熱心 な会員の間で、ひたむきに研究が続けられ、次々と報告が出されてきました。しかもこうした研究運動は、初めの会員以外の人々に興味をかきたて、さらに技術 上の躍進的改善をもたらすために、この方面での研究が必要であるという認識が広く高まってきた結果、会員も数を増し、研究成果もあがったので、この機会に 今までの会の業績なり研究資料なりを、纏めて一冊の本とし、頒布することになりました。会の発足当時、多少のお世話をした私として、晴れの結婚式とまでは 行かないが、娘の大學に入ったほどの喜びを感じる次第です。今後の発展を期待してやまないとともに、この小冊子が同学の皆様の研究上のお役に立てば、会員 諸君ともども私達の幸いとするところであります。

本学会誌 VOL.2.No.1.(通巻79号)1985(昭和60)・1より

立入 弘

  昭和39年3月21日に、大阪大学医学部付属病院のこじんまりした会議室で31人の人々が集まって、ささやかな研究集会が催されました。工学、理学、 医学、放射線技術などの、年齢や階層を問わない異なった領域からの人達でした。こうした会合の初めにはいつもみられるように研究の意気に燃えるもの、”イ メージ・インフォーメーション”というその当時としては耳に新しかった言葉に戸惑う人、あるいは新進の研究者の中に入って学識の若返りを願う年輩者らが、 意欲と好奇心を持って基礎的な真理の探究を志しました。その日の報告は、”X線撮影系の光学的考察”・”レンズを含んだ像伝達系の一評価法”・”最大情報 量撮影”・”ガンマ線スペクトルの超分解”などでありました。画像情報ではあっても、その中心が臨床医学のX線写真におかれていたのがわかります。

  新しい医用画像情報学会雑誌の第1巻、第1号では”放射線における濃度ー露光量変換曲線とミクロ黒度特性”・”画像の系列依存性による評価”・”定量 性を保有したSPECT用の新しいデータ採取法”となっています。こうして見ると、今回”医用”画像情報学会と”改称”されたのは頷かれます。初めの精神 が今もなお受け継がれているからであり、名前は研究会でも学会でも、本来の主旨から云うと一見ネクタイを締めた位の違いです。しかしネクタイのあるなしは 品格を整えるだけではなくて、心構えも一新されるようになりましょう。問題は会員の精進と研究の成果にあるので、第1号巻頭の内田会長の言葉にもその覚悟 のほどが窺われて、嬉しい限りであります。

  ”遠くして光りあるものは飾りなり。近づきていよいよ明らかなるは学なり”という言葉があります。会員の皆さんのご健康と内田会長とそのスタッフの強 く正しい指導力とを期待し、徐徐ではあっても確実な一歩一歩で、地味な本学会存在価値を十二分に発展されるように念願します。

  このように先生の肝いりで誕生したRIIは今やMIIと衣替えして健在、役員も若い世代にバトンタッチして益々張り切っています。研究もアナログから ディジタルへと面目を一新しています。先生の所へお伺いしたとき報告することが山ほどあるようにまだまだ頑張ります。楽しみにして待っていて下さい。

  先生のご冥福を心からお祈りしています。


  以上五つほど各雑誌から転写させていただいた。日本放射線技術学会雑誌から二編、医用画像情報学会雑誌から三編である。何れも先生に関係の深い 方ばかりである。一字一字転写しながらその方の心中が偲ばれ、涙を禁じ得なかった。今医学会では大きな大きな柱を失った感が深い。医学会関係の雑誌にも多 くの追悼文が掲載されているに違いない。人間立入先生について触れられた記事もあったであろう。われわれは上司としての先生に触れたばかりかも知れない。 人間としての立入先生にもっともっと触れて、自己啓発するのをを疎かにしていたような気がする。語学然り、絵画然り、音楽然り 等々である。人間の宿命と は知りながら、自分の生存中に幾度この様な悲しみを味わえばいいのだろうか。ここに宗教があるのかも知れない。

  ホームページ”おじいちゃんの寺子屋”は立入先生が私の頭の何処かにあって編集されたものである。居られなくなった現在、見て戴いて辛辣な批評を戴く ことは望むべくもない。ここらで店仕舞いしようと思うのは自分の勝手かも知れないが、一つの区切りであろうと思っている。これからは”デカルトとパスカ ル”を遡り”アリストテレスとプラトン”の考え方を学んでみたいと考えている。再会を楽しみにお約束してこのホームページを閉じさせて戴きます。

  このホームページを閉じるに当たり、多くのサポーターの方々および常に励まし慰めてくれた我が最愛の妻、幸子に心からなる感謝を捧げるものでありま す。

 

(2003・10・3)