オバァの呟き


鎮魂歌

内田があの世に旅立って、時は飛ぶように流れ、一周忌も間近になりました。
平成二十一年二月から十二月まで足掛け十一ヶ月の入院でした。
その間、私は一人暮らしでしたから、今も内田が入院しているような、何処かに出かけているような気がして、今だに内田の死が信じられないこともあります。
内田は二月中旬から腰痛を訴えて、自宅で寝んでおりましたが、二月二十四日に第五腰椎圧迫骨折の診断を受け、二ヶ月の予定で入院致しました。退院をしたらリハビリをテーマに、ホームページを作成するつもりでした。
第五腰椎圧迫骨折は、入院期間も長くはないので、ご迷惑をかけたくないと内緒にしていました。皆様には、退院後に、ホームページ上でご報告をするつもりでおりました。
内田のホームページの最終章を、まさか、私が完成させることになるとは、考えられないことでしたが、私が内田の遺志を継いで、内田が病とどのように向き合い、どのように生きたかをありのままに綴ることにしました。

自宅庭綾

 


 

第五腰椎圧迫骨折入院 (H21、2,24~3,31)

二月二十四日、MRI検査の結果、第五腰椎圧迫骨折の診断を受けてそのまま入院になりました。
翌日からベッド上でのリハビリが開始されました。
三月二日、コルセットが出来上がり、杖歩行の練習になりました。
リハビリのマニュアルによれば、ベッド上でのリハビリに始まり、車椅子、歩行補助器を使用した歩行訓練に移行するようですが、いきなり杖歩行になりましたので、私と妹が「二階級特進だ」と言ってはしゃぐので、内田も嬉しそうに笑っていました。
この日は、ぎごちない歩行でしたが、翌日は足取りも良く、自宅での散歩と変わらない歩行をしていました。
三月六日頃には、リハビリの進行状況が順調で、通常の倍の量をこなして歩行しているようでした。
三月十日から、弱いと指摘されていた腹背筋の筋力トレーニングが、リハビリルームで始まりました。
十九日に、PT(理学療法士)から「退院はお誕生日に間に合わせるようにしましょう」と言われとても喜んでいました。

入院の日から一ヶ月、杖なし見守り歩行となり、食事が済んで、内田が食堂から病室に帰るのを目にした、病棟スタッフや患者さんは驚いていたそうです。
何事にも真直ぐ、真剣に取り組むのが内田の性格ですので、リハビリもとんとん拍子に進んで、その結果、当初予定されていた入院期間が短縮されて、三月下旬には試験外泊も許可されるまでになっていました。
入院と同時に、内田の希望で五十年以上も記録していた内田の日記を、私が引き受けることになりました。
今、ホームページを書くにあたり、日記を読み返してみて、意外なことに気がつきました。
内田は、これまで何度も入院をしたことはありますが、長くても一ヶ月、せいぜい五日どまりで、入院生活を楽しんでいるふしもありました。しかし今回は「家に帰りたい」「薬を服用するだけだから家でもよいのではないか」と言ったことを何度も口にしています。
又、病院の環境に適応し難いところがあり、時々気落ちしている様子も見受けました。
入院した当初は、ナースセンターに近い個室でしたが、リハビリも進んで、退院も見えてきましたので、ナースセンターからもっとも遠い個室になりました。ナースセンターの近くでは、良くも悪くも、病院独特の騒々しさがありますが、ナースセンターから遠く離れた病室は、静か過ぎてよけいに寂しい思いにかられたのでしょう。
三月三十一日も内田は「寂しい、家に帰りたい」といいました。
「それでは明日ね」と言って病室をでました。
これが最後の会話になりました。
内田と交わした、最後の正常な会話は、生涯忘れることはないでしょう。

新聞を読むリハビリ
歩行訓練ベッドにて
お見舞いベッドにて
日南の夫妻リハビリ室での歩行訓練
リハビリ


 

急性期病棟へ(脳外科病棟 4,1~4,21)

四月一日午前九時半、病院から内田急変の電話、「どのような状態ですか」とたずねると「応答がありません」との返事があり心臓がバクバクする。一刻も早く病院へと気はあせるが、身体が不自由な私は、病院到着までにかなりの時間がかかると思い、昵懇にしていただいている、隣町の棟梁の奥さんに電話して、先に行っていただくことにした。
井上佐代さんと妹さんが、私より先に到着して、私に代わって MRI の誓約書に署名、捺印をしていただいた由。
主治医から脳梗塞(左側大脳)との説明を受け、MRI 検査室からそのまま脳外科病棟へ転棟になる。
脳外科病棟では、十年前に、内田が小脳梗塞で入院した際に、担当していただいた先生が主治医になり安心する。主治医から「今回は後遺症が残るでしょう、治療方針は投薬(持続点滴)のほかに1クールの高圧酸素療法になります」と説明を受けた。
内田はこの日から、右側麻痺と失語症の厳しい現実と向き合う入院生活が始まることになりました。

高圧酸素タンク

四月一日
午後一時から、一回目の酸素療法が開始され、内田はストレッチャーに乗ったままで、私と二人、狭いタンクの中に入る。私は事前にオリエンテーションを受けたので、飴玉を持参してタンクに入った。
内田は、自分の置かれている状況も何もわからない状態ですので、一時間二十分の間、気圧が上下する時は、気分が悪かったのではないかと思った。

四月二日
鼻腔注入による流動食が開始される。
午後一時三十分から、他患と内田の三人でタンクに入る。
前半はおとなしくしていたが、後半、ストレッチャーの上で体動が激しく、左手で私を振り払い、掛けてある毛布を引き剥がして起き上がろうとする。
明日からミトン(抑制用手袋)を使用することにする。
人に対する認識はあるようで、棟梁ご夫妻のお見舞いでは笑顔もみられ、握手の手を強く握り返したようである。
午後八時が病院の門限なので「帰ってもいい」と聞くと、首を横に振る。

四月三日
午後の体温が38度あったが、一時三十分からタンクに入る。昨日と同じ状態。
夕方、昨日の CT の結果について、妹と一緒に主治医の説明を受ける。
「出血性梗塞で、前日と変わりはなく、悪化もしていない」とのこと、「熱があるようですが」と先生に伝えると「梗塞につきものの肺炎です」肺炎によく効く抗生剤を一日二回使用されることになる。六時にドクターが病室にみえて、「今朝は笑顔が見られたのに、今は、熱のせいか険しいですね」と。

四月四日
九時に病院到着、すでに OT(作業療法)のリハビリが始まっている。内田は私の顔を見て泣きだしたので、OT は「奥さんを待っていたのですね」と、OTの質問に「ありがとう」「だいじょうぶ」と発語があり、「お名前は」と聞かれて笑顔で「すぐる」と OT と私にもはっきり聞きとれた。
今日は午前十時三十分からタンクに入る。後半、身体の動きが激しくなり、頭部がストレッチャーからはみ出して、十五分残して中止になる。今日は私の両耳がパチパチと鳴ったので、内田も異常を感じたのかもしれない。
午後八時頃、横浜から内田の次女のご主人とご子息、杉山ご夫妻がお見舞いにみえる。杉山さんのお話に、内田は笑ったり涙する場面もみられた。

四月五日
妹と二人で病室に入ると途端に泣き顔になる。ナースによれば、鎮静剤を注射したので、感情移入があるのでしょうとのこと。
タンクには妹と三人で入るが、後半になると身体の動きが激しくなり、一対二の格闘になる。
午後から、梗塞後初めて、車椅子の上で一時間近く過す。よほど嬉しかったのか、お隣の付き添いの方も、内田の表情が一変したと云われる。

四月六日
今日のリハビリは、ベッドサイドに身体を起こして実施されたので、大変嬉しそうだったとナースが教えてくれる。
今日のタンクは、最初から動きが激しく、妹と二人で必死に抑制する。
夕方、ドクターが見えて、声をかけられると眼を開けて応答する。入れ歯を入れてみる,下のほうが緩いようだが、今までは口が開いたような状態だったので、勝手がよいのか、私たちが帰る時間になっても、入れ歯をはずしてくれないので、ナースにお願いして帰宅する。

四月七日
今日も、タンクは最初から妹と二人がかりで格闘になる。内田の力はかなりのものだ。
車椅子の練習が開始される。手と足の同時使用は困難のようだ。
夕刻ドクターがみえて、本日撮影した CT の説明をうける。「放射線科のドクターにも診ていただきましたが、出血性梗塞は特に変化はみられません、圧迫もなし、肺炎の所見もない」とのこと。

四月八日
今日は不機嫌。
朝のリハビリも、いやいやながら車椅子に乗せられ、リハビリルームに行ったそうだ。笑顔は見られず、私に「何をするのか、お前は」と聞きとれた。
午後のリハビリも OT の指導に反応しない。帰室して入眠するので、薬のせいかもしれない。

四月九日
シーツやバスタオルに便汁らしきシミが付着している。リハビリ用のパンツなど、洗濯物が沢山だしてあるので、ナースに下剤の相談をしたところ、下剤は中止になっているとのこと。
内田に、妹から誕生祝が届いていることを伝えると、とても嬉しそう。
ドクターがみえて、問いかけられるといちいち大きく頷く。
ST(言語聴覚療法士)が、私から聞いていた、内田が六十七歳で車の免許を取得したこと、静岡でのドライブの話をされると、頷いたり笑ったりして反応がよい。OT による三日目の車椅子の練習、今日は自分で車椅子の前進、バック、壁に当たったらバックするなど、自分で判断して操作ができるのにはびっくりした。右折もできた。OT に「どうして、突然、操作ができるようになったのでしょうか」と訊ねると、「意識がはっきりしてきたからでしょう」と、また上着のポケットに入れてあるテイシュペーパーを、初めて左手を使って口元に持ってゆく。一歩も二歩も前進したように思われる。私が帰宅した後、棟梁がお見舞いに見えて嬉しかったのか、興奮気味で起き上がろうとするので心配されたとか。

四月十日
病室に入ると車椅子に座って、隣ベッドのナースの作業を見ている。意識は割合にはっきりしているようだ。午後のリハビリは、バーを半分、歩行したそうだ。私は病室にいたので見損なった。

四月十一日
九時、町内の理容所で散髪を済ませて病院へ、帽子をとって、散髪したばかりの頭を内田に見せて「可笑しい」と聞くと頷いた。今朝、庭先で撮影した野良猫のデジカメを見せると、いつものことながら、猫の写真には喜んで反応する。
オーストラリアから届いた、内田の次男の奥さんのメールを読んで聞かせる、印刷したメールを手に取り眺めている。

四月十二日
ご近所の方々の、お見舞いの言葉を伝えると、嬉しそうな、悲しそうな顔をする。しきりに何か話しかけてくるが判らない。
午後二時から三時まで、スタッフの付き添いなしで、内田は自分で車椅子を操作する。病棟の食堂で、しばらく二人の時間を過す。車椅子も疲れるようだ。
鼻腔注入時、左腕を使って何度も起き上がろうとする。
夜、我が家の庭を管理していただいている、造園の主人がお見舞いに見えて、ご主人を認識できたそうだ。

車椅子にて

四月十三日
リハビリ病棟転棟にむけて、看護師長に病室のことで相談する。
尿バルンカテーテルが抜去してある。
私の甥と姪から、誕生プレゼントが届いていると話すと嬉し泣きする。
OT がみえて、トイレ訓練のため、車椅子に乗せてトイレに連れて行かれるが、訓練を拒否する。食堂では髭剃り、歯磨きの訓練をしたが、髭剃りはできないようだ。その日の体調もあると思うが、リハビリもかなり疲れるようだ。

四月十四日
今日は、内田の八十八歳のお誕生日、デジカメで誕生日の撮影をする。
甥や姪から届いた誕生プレゼントを開いて、プレゼントのパジャマを左手に触らせ、お誕生カードを見せると手にとって見る。
私が、ハッピーバースディを歌ったら泣き出した。内田には、生涯で最も辛い誕生日だったに違いない。夜、妹にお礼の電話をして、内田の報告をすると「可哀そうなことをするものじゃない」と叱られた。今日は午前、午後とも不機嫌でリハビリに応じなかったとか。リハビリの先生によれば、大変よいことだそうだ。自意識がでてきたことを意味するのであろう。主治医来室、先生の説明にいちいち頷き先生がお見えになると内田に安堵の表情が伺える。
「内田さん、以前のように、またリハビリを頑張ってください」と先生の激励を受ける。

四月十五日
今日はすっきりした顔で、私が病室に入ろうとするのを見て、ミトンの左手で、おいでおいでの手招きをする。
OT も機嫌よく迎えて、指示されたとおり、電気かみそりで二回も髭を剃ることができた。
日南の妹夫婦がやってきて「先生、リハビリはできましたか」と聞くと、首を横にふったとか。
PT がみえたがリハビリは拒否。昨日そして今日も、私の顔をいとおしむように、左手で撫で回すのがなんとも悲しい。

四月十六日
昨日よりも髭剃りが長くできた。
ST がみえて、なんとか納得してリハビリルームに向かったが、連れていかれた場所は初めてだったので、あたりをきょろきょろ見廻して、新聞、リハビリの小道具には全く関心を示さず、ST が「外に行ってみませんか」と云われても嫌がるので、病室に戻る。
看護師長が、「飲水を試してみては」とナースに指示をされたが、ナースと ST は、喘鳴と痰が多いので無理だと話している。
隣ベッドの付き添いの奥様が、「寝てばっかりだったけど、内田さんの顔がだんだんはっきりしてきた」と仰言る。OT、ST がみえたが、リハビリを拒否する。
意識レベルが上がって、リハビリを嫌がるようになったこともあるようだが、本人の、リハビリに対する意欲や体調が、血圧や血糖値に大きく関与していることが、後々、私には判ることになる。
私が帰宅する際には、ミトンをはめて帰ることになっているが、他の患者さん同様、指が自由に使えないミトンは、内田もかなりのストレスを感じているようで、なかなか装着させてくれない。ミトンをつけるチャンスがなかなかつかめないまま、二人で笑ったり、泣いたり、怒ったり、内田はミトンを放り投げたりする。ナースに依頼して帰宅する。

四月十七日
午前中のリハビリは、痰が多くてすぐ病室に戻ったそうだ。
薬が変更になると、その都度、薬剤師から説明がある。以前、ナースに相談したことでもあるが、水様下痢便が続くので、薬剤師にも相談する。薬剤師がナースと相談して、下剤を減らしたと報告にくる。
内田の孫が、仕事の合間を縫って、日帰りで東京からやって来た。
孫が、やさしい言葉をかけて、激励してくれるので、どうにかリハビリを承知してくれる。車椅子をゆっくり操作してトイレに行くが、トイレの訓練には応じない。孫は再会を約束して六時過ぎに病院をでる。

四月十八日
「今日は妹が来るよ」と伝えると泣き顔になる。福岡在の妹は、いつもどおり、高速バスで病院に直行してくれる。妹が声をかけるとうれしそうによく反応する。私が「手を叩いて」と言ったら強く握りしめてくれた。
夕食前血糖が66なので、ブドウ糖を注射される。「昼はよかったのに」とナース。傾眠状態は低血糖のせいか。

四月十九日
妹と病院へ、エレベーターの前で OT に出会う、車椅子でリハビリ、ルームに行った由。今日はすっきり顔で妹と私を出迎え、妹の呼びかけによく反応する。
内田の処置が済むまで食堂で待っていると、ナースが内田を車椅子に乗せて連れて来た。内田をカメラに収め、妹は一時間ほど車椅子散歩をしてくれる。

四月二十日
今日は、昼食中に、内田が鼻腔カテーテルを引き抜いたので、車椅子に乗せられ、ナースステーションの中で監視されていた。手にはカテーテルを握り締めて離そうとしない。カテーテルも大変なストレスであることには違いない。三人でしばらく食堂で過し、妹が病棟内を二回散歩してくれる。二時間近く車椅子で過し、ベッドに横たわると、途端に喘鳴が著しい。

十年前、内田が小脳梗塞でお世話になった主治医が、今回も脳外科では主治医です。前回は一ヶ月で退院できました。退院を前にして、主治医が PT と顔を見合わせながら述懐された言葉は、私の記憶に強く残っています。
「あんなに悪かったのに、どうしてこんなに早くよくなったのだろう、きっと、内田さんの生きようとする意志の力がそうさせたのでしょう」

面会


 

リハビリのこと

失語症は、ST(言語聴覚療法士)のリハビリを受けますが、ST のリハビリの時間帯が、内田の血糖や血圧が低下する時間であることから、内田はリハビリを拒否することも多く、ST のリハビリは、余り受けることができませんでした。
私は、失語症とは、視覚、聴覚、知的な障害はなく、書字、読字ができないと、この程度の知識しかありませんでした。それで内田には、活字が少なくて、写真や絵が多い雑誌を見せましたが、直ぐに付き返します。唯、ディジタル放射線画像が増版になる通知をいただき、本も数冊入っておりましたので、内田に報告をして、その本を一冊渡しました。内田は不思議そうな顔をしてページをめくり、にぎりしめた本をいつまでも手放しませんでした。
ビューティ・アーティザンとして活躍している内田の長女が、クロワッサンに特集号で取り上げてあることを知り、早速、本屋で購入して、転院の日まで病室に置いて時々内田に見せました。スタッフの方々も時折手にして、長女の話題になると、内田は首をふりふり頷いて嬉しそうに微笑んでいまいた。
ある時、私の友人に、床頭台に置いてあるクロワッサンを指差して、見なさい見なさいと云わんばかりに、そしてページをめくるようにとゼスチュアをしたそうです。80歳になる友人は「ああ、やっぱり娘を想う親の気持ちだね」と、しみじみと私に語ってくれました。
ST の話では、失語症の患者の目に映る文字は、象形文字や絵模様に見えるらしいのです。
PT のリハビリは、早い時間帯にリハビリルームで実施されるので、私は見学する機会は殆んどありませんでした。
OT のリハビリは、毎日見ておりましたが、ある時、OT が私に「内田さんは水周りを拭く習慣がありますか」と訊ねます。「はい」と答えると「男の人には珍しいのですが、内田さんは手洗い訓練の後、渡したペーパータオルで自分の手をふき取った後に、洗面所の水周りを拭かれるのですよ」と云われた。確かに、自宅では、洗面、髭剃り、整髪の後、洗面所の周りを、タオルハンカチできれいに拭いていました。
病院では、私も、何回も内田が清拭をする行為を目にしました。
トイレに車椅子で連れて行った時も、用を足した後で、トイレ内で手洗いをして、ナースがペーパータオルを渡すと、自分の手を拭いた後で、水周りをきれいにしていました。又、OT に聞かれたことは、靴を履く習慣でした。ベッドの横に足をおろして、リハビリ用の靴を履くとき、内田は靴を左手で取り上げて、足に履かせるのだそうです。
歩行訓練では、妹夫婦や私が見ていると、一層頑張って50mも歩いたことがありました。
着衣訓練もうまくできました。
高齢で、しかも不自由な身体でありながら、内田は何事にも真剣に取り組みました。
私が、内田の立場だとしたら、私には到底できることではないと毎朝、洗面所を拭く度に思います。

 


 

リハビリの概要

四月二日 リハビリ開始
二十二日 麻痺側(右)のリハビリ開始
二十三日 起立訓練
二十七日 起立訓練 二回、バーを一往復(PT に手助けされて)
二十九日 ベッドサイドの起立訓練 4 ~ 5 回
三十日 午前:リハビリルームで PT による歩行訓練
午後:病棟廊下の手摺りにつかまり 5m 弱の歩行訓練
五月五日 座位訓練 起立訓練八回、10 秒起立一回
二十一日 排尿訓練(トイレで起立)
二十九日 五分間の起立訓練
六月四日 10m 歩行
二十六日 杖歩行 10m
七月一日 手放し歩行
八月六日 40m 歩行
十二日 タタミ歩行、階段歩行訓練
十四日 50m 歩行
九月四日 歩行訓練再開
八日 30m 歩行

 


 

排泄のこと

長期にわたる内田の下痢便は、内田にとって療養上の大きな問題であり、私にとりましても解決をみない大きな悩みで、私のストレスにもなっておりました。
健康な人でも、一日、二日の下痢で、心身共に相当のダメージを受けるものですが、内田の下痢は三ヶ月半以上も続きました。脳梗塞時から始まった下痢でした。一日に三、四枚もパジャマが交換してありました。
ナースや薬剤師に相談したことは、前にもふれたとおりです。たいていは洗濯物で気が付きました。病棟でも下剤を調整しているとのことでしたが、下痢は止まりませんでした。
おむつの交換時、付き添いは病室外に出されますが、五月二十八日、偶然にもおむつをはずした状態を目にしたときは非常に驚きました。かなり広範にお尻が赤くかぶれていました。おむつ交換の後、内田に「ごめんなさい、痛かったでしょう」とあやまりました。内田は納得したようにこっくり頷いていました。
紙おむつでこすれて痛い筈なのに、排尿、排便時は排泄物が沁みて痛いはずなのに、リハビリに精を出す内田が哀れになりました。
その後、一層、私はナースに、はたらきかけることにしました。
これまで使用していた下剤は、内田が、自宅で自己管理していたものであるとの理由で、全面的に下剤を変更するように依頼したり、整腸剤も処方していただきました。それでも下痢はとまりませんでした。「下痢がとまらなければ、いくら軟膏を塗っても、かぶれは治らないでしょう」とナースに言ったこともありました。めったに発語のない内田ですが、おむつの交換時に「痛い」と大きな声が廊下までもれてきました。流動食の注入速度が速いのも気になり、私がいる時は、ゆっくりと滴下してみました。思いあぐねた末、日南の妹と協議して、流動食のメーカーを変えてみてはどうかとゆう結論になりました。
七月二日、主任ナースに、下剤と、かぶれと、食事の件を相談しました。
二週間後に、看護師長が新しい流動食のサンプルと器材を持参して説明をされ、サンプル使用の承諾を求められました。サンプルは二週間分あるので、一週間使用して効果があれば、残りも使用するとのことでした。
サンプル開始後は便秘になりました。便秘三日目に座薬の下剤を使用、その後、二日後に座薬を挿入したら立派な固形便がでました。これまでは水様に近い下痢便だったので、内田には便がいつ出たのか分からない状態だったと思います。固形便を排泄するようになり、内田は初めて便意をもよおすことが分かるようになりました。個室のトイレを指差したり、(室内のトイレは段差があるので、内田は使用できない)車椅子を指差しするので、トイレに連れて行くと、金太郎飴のような固形便がでました。お尻のかぶれも徐々に回復してきました。
ここに至るまでに、私にできる範囲の努力はしてきたつもりですし、新しい流動食を病院食として導入していただくまでには、紆余曲折もありましたが、内田の下痢は、看護上の問題点として、もう少し早く解決できなかったものか、その間の、内田の体力の消耗は如何ばかりかと考えずにはいられません。

 


 

リハビリ病棟へ (4,21~9,14)

四月二十一日
妹と病院に到着した時、内田はリハビリ病棟に移されていた。
内田の長男が、鎌倉からお見舞いにみえる。
今日は、内田にとっては三週間ぶりの入浴(ハーバートタンク)、疲れたのか眠りがち。食堂で、長男と内田の経過についてしばらくの間お話をする。その間、病室では、OT、PT、ST、ナースによる筋力テストが実施される。

四月二十二日
OT により、麻痺側のリハビリが開始される。
OT の説明に、内田が「わかっているのだ」と拒否的な言葉を口にしたとか。
リハビリは疲れるのかよく眠る。

四月二十三日
妹が、私より先に病室に入って「来たよー」と声をかけると、目を開けて、私でないのに気が付き、「だれだ」と叫んだ由。義弟が博多からハーレーでやって来た。「急性期病棟の時とは格段によくなっている、前回はいたたまれないくらいだったが、今日は自分にも笑顔を見せてくれたのでうれしかった」と。

四月二十四日
今日はナースセンターで、OT やナースと一緒に、内田のホームページを開いてみた由。義弟が、ハーレーの話をすると嬉しそうに反応する。
昨夜も今日の昼も、鼻腔カテーテルを引き抜いたらしい。

四月二十七日
リハビリが済んで、OT と車椅子で帰室する廊下のはるか前方から、病室に向かう私を見つけて、内田が手を上げて嬉しそうな顔になる。
OT も「転棟時の険悪な顔がなくなってきたし、イエス、ノーがはっきりしてきたような気がする」

四月二十九日
病室でのリハビリが済み、PT が病室を出る間際、内田が「ありがとう」と発語したのが、ドアの外の私にも聞こえた。

お見舞い

五月一日
午後三時半から、病院スタッフ(主治医、ケースワーカー、ナース、OT、PT、ST)と家族(私だけ)のカンファレンスに出席する。
PT、OT、ST から、内田に関する希望的なコメントは全く聞かれずショックを受けた。これまでに内田は、何回も経管カテーテルを引き抜いて、カテーテルが内田のストレスになっていること、喀痰も多いので、主治医の方針に従って、五月十三日に胃婁を造設することに決定した。

五月五日
今日も不機嫌。
OT が握手の手を出されると、その手を振り払った。
OT の血圧測定では、血圧が低いとのこと。夕食前血糖、62。 
午後から夕方にかけて、血圧、血糖値が低下して不機嫌になることが多く、最後でみえる ST のリハビリは拒否して、リハビリができないことが多かった。
食事の注入前には、必ず吸引をすることになっているが、夕食前の吸引を拒否して暴れるので、ナースが二人、妹の三人で押さえつけて吸引をする。痰の吸引は、呼吸困難をきたすほどに苦しいものだと主任ナースが教えてくれた。

五月六日
午後二時に病院着。ミトンをはめたままでベッドに起き上がっている。昨夜も起き上がったり、頭と足が反対になって寝ていたとか。
粘稠な痰を口に出して、五、六回も左手のテイッシュペーパでふき取ることができた。最近は、排便、排尿があったり、車椅子に移りたい等、内田の仕草をみて、内田の意志が少し判るようになった。

五月七日
私が知る限り、数日間も血圧が低いので、血圧の維持レベルについてナースに聞いてみたところ、今日から弱い薬に変更されたそうだ。

五月八日
胃婁造設のため、ヘパリン入り持続点滴が開始される。
PT によると、手の筋肉が弱くなっていて、突っ張りがなくなってきたと。
最近の私は、内田に怒られっぱなし。意志疎通が充分できないので、内田は怒鳴ったり、起き上がったり、私を突き飛ばしたり、くやしがったりする。内田も私もお互いにつらい。男性看護師が「病識がないからだろう」と云われる。隣室の72歳の女性患者さんもまったく同じで、ご主人は「意志が伝わらないと頭に血がのぼるよ」といわれる。
これも脳梗塞の後遺症みたいだ。
内田の意志をどのように伝えるかを ST に伺い、指差しを教えていただいたので、後には指サインをおくるようになった。

 


 

外科病棟へ(胃婁造設 5,12~5,21)

五月十二日
病院到着時、すでに外科病棟に移されている、内田はリハビリ、ルームにでかけて留守。病室はナースセンター前の四人部屋、他の患者さんは高熱や痰でうなされている。内田は戸惑っているが、怒ってはいない。
リハビリから帰って間もなく、OT が来室してベッド上でのリハビリを開始される。「今日も PT と歩行訓練をされていましたが、足がよく動くようになっていました」と OT。

五月十三日
午前十時着、
内田は病室もスタッフも違う環境になり、心細かったのか、私が病室に入ると「オオッ」と声をあげ、びっくりしたように喜んで泣き声になる。
十時三十分、内視鏡室へ搬送される。十一時半帰室。日南の妹夫婦がお昼弁当を用意して来てくれる。
胃カメラで胃潰瘍が見つかり、薬を処方したと外科医の説明を受ける。
自由にならない身体、口もきけない内田は、相当なストレスを感じていたに違いない。今もまだ、病識は完全でないと思われるが、三月三十一日まで懸命にリハビリに専念していた記憶は失われていないようである。ベッドから降りて歩行しようとするのか、健足をベッドの柵にかけて、しきりに降りようとするので内田の足は傷だらけ、血も滲んでいる。自宅では、糖尿病があるからと、爪を切るときでさえも傷をつけないように、細心の注意を払っていたのだが。

五月十四日
午前七時半、「昨夜、ミトンがはずれて胃婁を引き抜き出血した」と病院からの電話。病室に入るとさわやかな顔で私を迎える。看護師長が訪室されて「昨夜のことは覚えていますか」と内田に問われる。内田は首を横にふる。看護師長が「覚えていないでやったことだから仕方がないわね」と言ってくださる。内田は笑顔で答える。今朝、カテーテルを再挿入したとのことであるが、CT の結果では、きちんと入っていないので、再度やり直しをされるそうである。十一時に内視鏡室へ、十二時帰室。内田は、まだ麻酔下にあるので、血液の付着した洗濯物を自宅に持ち帰り洗濯をする。
私自身も咽頭炎をおこして発熱しているので、ホームドクターのクリニックで点滴を受け、再度病院に向かう。
血まみれになったであろう、内田の手や爪の間に残っている血液を拭いてみるが拭き取れない。昨晩の、血にまみれた凄惨な現場を想像して悲しくなった。
口のきけない内田は、多分、麻酔から覚めた時に、疼痛や異和感を覚え、必死でミトンをはずし、手に触れたカテーテルを引き抜いたのであろう。
この一件で、内田の抑制は一段と厳しくなり、ミトンをはめた手をベッド柵にしっかりと縛りつけられ、身動きがとれない状態になったので、私も具合は悪いが、私がいれば抑制を解除できるので、出来る限り病院に滞在することにする。

五月十五日
廊下で OT にばったり。
「今日は、一度も内田さんに怒られずにリハビリが済みました、右指も少し動きました」と。ヒゲがのびているので、かみそりをあてて後始末をする。
喀痰が多い時は、テイッシュを渡すと自分で拭き取る。

五月二十日
エアコンの入っていない病室で体調をこわした私、内田には、厳しい拘束の中で過ごした九日間の外科病棟も今日まで。「明日は元の病室に帰れますよ」と、内田に声をかけながら転棟の準備をする。

六月一日
放射線科で経口テストが実施される。
脳外科医、放射線科医、技師、OT、ST 等、総勢10名ほどのスタッフである。
ガラスの向こうで内田はにこにこしている。脳外科のドクターや私が見えたので安心したのだろう。結果は不合格。脳外科医は「また、時期を見て致しましょう」。帰室後、車椅子散歩、私の速度が遅いので、自分で車椅子を操作する。
ST が「経口テストはだめだったけど、私が言ったことを、口移しで言えたところをみたのでよかった」と内田に云われた。

六月二日
ST が車椅子に乗せてリハビリ室につれて行くが、直ぐに帰ってきた。車椅子散歩を勧めてみたがノー。不機嫌なので「お尻が痛い」のと聞くと「アァー」「呼んでこい」「大丈夫」と言ったのを友人と二人で聞いた。ナースを呼んでおむつ交換をしていただく。便尿失禁で、かぶれが痛かったのだろう。病室のテレビを見ないので、「ラジオを買ってきましょうか」と訊ねると「いらん」と言葉が返ってきた。

六月三日
胃婁抜糸。傾眠状態で足をバタつかせている。倦怠感でもあるのだろう血糖値49ナースに「インシュリンを減らしていただけませんか」と相談をする。

六月五日
排便が午前一回、午後一回、お尻のかぶれが痛いようだ。血圧100以下。
最近、食事の時間以外はミトンをはずして、私が帰宅するときにはめることになっているが、私にはなかなかはめさせてくれない。今日も寝入っていると思って、そっとミトンを付けようとすると、怒って足蹴りが始まる。そこで「夜勤のナースに、寝るときにはめていただくようにしたからそれでいい」と聞くと「それでいい」と聞き取れた。

六月六日
病室が空っぽ。リハビリにでも行っているのかなと思っているところに、友人と車椅子で帰ってきた。内田が友人に「何処から」と聞いたそうだ。友人が「ダイエーの近くの恒久から」と答えると「僕も」と言ったそうだ。内田が、以前、住んでいた国家公務員合同宿舎が、友人宅のすぐ近くにあることを友人に説明した。また、友人が「車椅子に乗る」と聞くと、「うん」と同意したので、車椅子に乗せてほしいとナースに頼んだが、なかなか来てくれないので、「今日は土曜日なので、看護師さんが少ないので、なかなかみえないよね」と言ったら、内田が「夜は多いよ」と言ったそうだ。私の友人と内田は、これまでに面識はなく、めったに発語もしない内田と、このような会話のやりとりができたのは、内田が友人に心を開いているのだと思った。

六月七日
佐井先生がお見舞いにみえた。病室の前で歩行訓練が始まったので、佐井先生と一緒にリハビリを見学する。

佐井先生佐井先生と歩行訓練

六月十一日
歩行訓練のため病室を出て行ったところで、お見舞いに見えた藤田先生とすれ違ったようだ。内田が入れ歯をはずしていたので、藤田先生には内田が判らなかったようだ。
内田が先に藤田先生を見つけたそうだ。

藤田先生

六月十三日
ミトンを非常に嫌がるので、ナースに相談する。ミトンは原則として、24時間装着で、リハビリと私がいる時だけはずせることになっていたが、今日から五日間テスト期間として、何事もなければ、午後七時のおむつ交換時に装着することになった。

六月十八日
私が、隣室の付き添いの方と廊下で長話をしていると、「さちは」と妹に聞くので、「声が聞こえるでしょう」と云うと「うん」と言ったそうだ。
今日は入浴中に応答がなくなったと夜勤のナースが教えてくれた。ナースは「多分湯当たりだったのでしょう」とも。

六月二十一日
午前、小島先生、午後、稲津先生がお見舞いにみえる。
小島先生は、内田がリハビリ室から帰ってくるところだったので、食堂で面会をしていただく。稲津先生とは病室で面会をする。面会で疲れたのか、リハビリの服をパジャマに着替えさせてくれない。

小島先生

六月二十二日
今日はリハビリの順番が逆になり、ST がリハビリ室につれて行く。ST が、「今日は最高でした」うさぎ追いしかの山のカラオケで、大きな声が出て、内田もびっくりしたらしく泣き出したそうだ。

六月二十四日
病室に入ると直ぐ、内田は室内に置かれたお見舞いの品を指差す。母と弟夫婦がお見舞いに来たようだ。
今日の担当男性看護師は、食事中もミトンをはずして注入したそうだ。男性ナースは「内田さんは、何事もきちんと説明をすれば素直に対応できますよ」と、内田も「大丈夫」と言ったそうだ。置時計を病室に持参して、「この時計は、ベストで買ってきたのよ」と言うと「高かっただろう」と言ったのが聞き取れた。
駐車場で白石先生と淵脇さんにばったり、内田が眠っていたので又、出直してくださるそうだ。

六月二十六日
白石先生と淵脇さんがお見舞いにみえたので、食堂でお話をする。内田は嬉しそうにパソコンの話を聞いている。二月以来、リハビリに最も長く関わっていただいている PT からお話があった。「最近、内田さんは認識がでてきて、車椅子もブレーキをかけたり、身体の位置をずらしたりできる、杖歩行で10m位歩行しています」と言われる。

六月二十八日
田中先生、山田先生がお見舞いにみえる。病室で面会をしていただき写真におさめる。日中、下痢便が三回ある。受け持ちナースに、下剤が減量になっているか確認をとる。

田中先生と山田先生

六月二十九日
内田の次女がお見舞いに来た。次女と私と鹿児島大学の実習生の三人が見守る中、内田は張り切って24m歩行した。今日はトイレの訓練、髭剃りなどハードにおこなわれた由。

六月三十日
血糖検査が今日から週一回になった。今日は、OT のリハビリを珍しく拒否、原因は、ベッド上でのリハビリにみえた実習生を紹介しなかったのが悪かったらしい。

ベッドにて

七月一日
病室に入ると、久し振りといった感じで「オーオーオー」と声を上げて喜ぶ。
OT が「今日は、初めて手摺りを握らないで歩行しました、奥さんに見せたかった」といわれた。

七月二日
内田はリハビリ中ときいたので、デジカメを持って撮影に行く、OT の支えで手摺りに摑まらないで三回、手摺りに摑まって一回歩行する。
下痢もお尻のかぶれも、なかなか治らないので主任ナースに相談する。
下痢便の対応で、妹と私がだした結論は、食事のメーカーを変更してはどうかとゆうことになった。主任ナースに話してみた。

歩行訓練

七月三日
便の培養検査が実施されたが結果は異常なし。今日も日中三回の排便あり。

七月四日
小寺先生の面会をナースが告げにくる。病室で面会をしていただく。
小寺先生のお話に内田は耳をかたむける。面会の後は疲れたのかぐっすり眠る。

小寺先生

七月六日
次女が帰った後も「りつ子」と言ったので、「律子と言えるのだから、私にも幸子と言って」と繰り返し内田に言ってみた。今日になって「さち」と言ってくれたので「ありがとう」といいながら涙がでてきた。私の顔を見た内田も悲しい顔になった。
おむつ交換時に「いたい」と声が聞こえた。

七月七日
友人が左腕、OT が右腕を支えて歩行二回、手摺りに摑まって二回歩行する。
OT が、字を書く練習を初めて実施した由。文字にはならないが、これまでは怒ってできなかったので一歩前進か。私が帰宅する時間になると内田が怒り出すので、私がべそをかくと内田も泣き顔になる。

七月九日
手摺り歩行二回、手摺りなし歩行一回、車椅子を自分で操作して病室に帰る。
内田の担当ナースと話し合って、昼間だけミトンをはずすようになった。

七月十日
午前中は、日南の妹夫婦と老健施設を見学に行き、その後病院へ。不機嫌。自室トイレに行こうとする。OT、ナースに支えられ、歩いて病棟のトイレに連れて行く。排便が済んで機嫌がなおる。ケースワーカーが見えて、スタッフ・カンファレンスの内容を説明された。内田は痰が多いので、老健施設は対応が無理ではないかとのこと、
療養型病床群の病院見学を勧められる。

七月十四日
OT の訓練によって、最近は自分で痰を出せるようになった。今日は、四回痰を出してくれた。私が欠伸をする度に内田が笑っている。

七月十六日
病室に入ると泣き出す。PT がみえて、危険がなくなったからと麻痺側を壁の方にベッドの向きを変えられた。ナースの起立訓練十回、自然に起立が上手にできる。
看護師長が、流動食のサンプルと器材を病室に持参して説明される。リハビリ病棟では、サンプルの流動食は初めて使用されるので、上階のフロアナースが来て夕食を実際に指導される。十分間で終了。取り敢えず、一週間使用して、効果があれば続ける由。四ヶ月にして、やっと、下痢便解決の糸口になるのか、何度もナースに訴え続けてきたことが実を結ぶのだろうか。

七月十七日
置時計の置き場が悪いと不機嫌だ。あちこち移動させるが、とうとう判らずじまい。四時過ぎ夕食が始まったが、ナースが新しい食事の取り扱いに不慣れなため、接続部がはずれて流動食が飛散、内田は流動食を浴びる。食事変更は効果的面で便秘になる。今回は下剤でなく座薬を使用することになった。

七月十八日
病室に入ると泣き出しそうな顔、「おしっこ」と聞くと「うん」と云う。二時半、便秘三日目で座薬を挿入される。内田が便のサインを出すのでおむつをはぐると水様下痢便が極少量、その後、排便が無いため摘便をされるが、硬いのは触れるが出ないので、チャドールの下剤を食事に注入される。四時半過ぎに便が出ている様子なので、ナースとおむつ交換をする。数ヶ月ぶりに見る形のある良い便だ。

七月十九日
午後から棟梁ご夫妻がお見舞いにみえて、内田もニコニコ顔で写真におさまる。
数日来、内田が問題にしている時計の置き場所を妹が移動させたところ、「ああ、それがいいよ」と言った。四時過ぎに義弟が来る。棟梁ご夫妻、義弟が病室を出るときには自分から握手を求めた。

棟梁ご夫妻

七月二十日
三時前、車椅子に乗り、私達をトイレの方に誘導する。トイレでナースを呼んで、便座にナースと妹がかけさせる。少量の排便あり、午前中、PT の訓練中にも排便があった由。四時頃、苦しい様子なので、ナースが摘便をする。食事中も汗が出て苦しそう、食事が済んだ後、ベッドに起き上がってトイレに行きたい様子なので、ナースを呼んでトイレへ、中等量の排便があった由。

七月二十一日
午前中、介護保険申請のため、役所に書類を提出して病院へ、トイレに行きたいそぶりなのでトイレに連れて行く。親指大の便だけ。

七月二十二日
便秘二日目、病棟では、三日目に座薬を挿入することになっているそうだが、三日目で挿入した時に、内田が苦しんでいるのを見ていたので、今日の担当ナースに二日目にしてほしいと座薬の使用を依頼する。座薬挿入して間もなく排便を訴える。
固形便一個、泥状便極少量、内田が摘便をしてもよいと云うので摘便を依頼する。
中等量の排便あり、泥状便と固形が4~5個。

七月二十三日
午前中に病院に行き、午後は、妹と病院見学に行って四時に病院に戻る。五時半、不機嫌になり、トイレらしいのでナースにお願いしてトイレへ、直ぐに10cm以上の有形便がでた。万歳。内田の長女が特集号として取り上げてある雑誌を書店で求めて帰宅する。

七月二十四日
妹とおむつの交換をして肛門清拭をする。固形便一個。午前中に金太郎飴のような長い便があった由。昨日、購入してきた長女の特集号のクロワッサンを見せると嬉しそうに喜んでいる。最近は、TV や本も短時間ではあるが見るようになった。

七月二十五日
食事後に排便があった由。大学の同級生のご子息にいただいた葉書を読み聞かせると泣き顔になる。

七月二十六日
おむつをみると泥状便がでているので、ナースを呼んでトイレへ、金太郎飴様の固形便が15cm排泄。内田は今まで、全く関心がなかった病棟スタッフによるリハビリにも時々参加するようになった。お手玉を何回も投げる。

七月二十七日
OT がリハビリにみえる。車椅子に乗せて靴を履くとき、内田は手を伸ばして靴をとり、両足に靴を履かせた。OT も私も、初めて見る光景に感激した「促されてやるのではなく、自発的に本人がしている」と OT は PT から聞いたそうである。
午後二時、介護保険の認定調査員がみえる。調査員の質問に対する内田の答えはすべて不正解である。一ヵ月後に届いた介護保険証は介護5になっていた。多分、認知症ありと判断されたのであろう。ずい分後になって、内田の解答にはそれなりの根拠があることに気がついた。失語症で意志の疎通は充分でないが、私は最後まで内田は頭脳明晰であったと思っている。

七月二十八日
昨日は排便少量だったが、今日は多量に排泄した由。ST のリハビリでは、ST の口真似の「オーイ」が大きな声ででたのを、私は初めて聞いたと OT が教えてくれた。ST が「奥さん、見に来てください」と呼びにくる。食堂から OT に支えられて病室まで歩いてきた。今夜の夜勤ナースは、内田がナース・コールを押して「トイレ、トイレ」とはっきりしないけれども判りますよと話てくれた。感激で涙がでてきた。固形便を排泄するようになって、やっと当たり前に便意をもよおすようになったのだと思う。

七月二十九日
PT のリハビリを拒否、OT やナースは初めてのことではないかと云っている。
OT のリハビリでは、OT の指示で右手を動かす、わずかに動いた。

七月三十一日
一旦病院に行き、午後は日南の妹夫婦と療養型病床群のある病院の見学に行く。病室に帰ると OT のメモが置いてある。OT がリハビリを済ませて、車椅子で病院玄関まで連れて行ったところ、「ああ//」「あつい」と「リハビリ」と云う言葉が聞き取れましたとあり、明日から八月ですと話したら、「ほおぉ」と驚いていましたと書いてある。

八月一日
ナースが「食事が済んだらブザーを押してください」と言って病室を出ると、ブザーを押して知らせてくれて「オーイ、オーイ」と声をだして呼んだりするそうだ。
内田宛の暑中見舞いを読んで聞かせる。教え子からお見舞いの電話があったことを伝えると泣きそうになる。

八月二日
午前九時半に病院から電話が入る。「ミトンが古くなって役に立たず、夜、胃婁を引き抜きました」と、売店でミトンを購入して急いで病棟にかけつける。
午後、静岡の内田先生がお見舞いにみえる。食事が、パック式からイリゲターに変わったその時点から不機嫌で怒り出すそうである。絶食になる。

八月三日
四時半、OT が歩行訓練のリハビリにみえるが、つらそうなので病室内歩行で終了する。絶食の影響か。

八月五日
「トイレ、トイレ」と云うのでナースを呼んでトイレに行くが排泄はなし。OT の手摺り歩行8m、手放し歩行3m、今日は慌てないで歩行できた、足取りも良好、その後、病室でナースによる起立訓練10回、背筋がピンと伸びて調子がよい。

八月六日
機嫌良好で40m歩行した由。三日前は下剤で下痢になったので、ナースに依頼して座薬を挿入していただく、その後摘便して有形軟便少量、

八月七日
今日は担当PTがお休みなので代理のPTがみえる。私も久し振りにリハビリセンターで理学療法を見学する。五時過ぎ、トイレに行きたいのか起き上がって、ベッドの柵を縛ってある包帯をはずして柵を投げすてる。大きな音がしてナースがかけつけてトイレに連れて行く。最近は、トイレで立ち上がることができるので、トイレの使用がスムーズになった由。用を足した後、ナースが手洗いを促しペーパータオルを渡すと、手を拭いた後で手摺りや水周りを必ず拭いてくれるそうだ。

八月八日
入浴後は元気なく眠りがち。ミトンを「私が帰る時間に付けさせてくれれば、はずしてあげるよ」と言ったが拒否する、不機嫌。私が廊下に出ていると泣いている。何度も何度も泣いているので「私に原因があるの」と聞いたら「いや」と言った。
内田の辛い気持ちもわかるのだが、私も辛いので一緒に泣いてしまう。

八月九日
今日は日曜日、リハビリの先生三人もみえないし、病棟スタッフも少ないので寂しいのか、私の顔を見た途端に泣き顔になる。リハビリがお休みなので、病棟のリハビリに参加してお手玉投げや体操をする。ナースの起立訓練10回。眠っているうちにと思ってミトンを付けると、目覚めて怒り出すので「承諾してからつけるね」と言ったら、帰り際に自分から手をだした。

八月十日
入浴日で疲れている様子、元気がないので OT のリハビリはベッド上になった。隣の付き添いの方と廊下で立ち話をして、病室に戻ると起き上がっている。尿が出ているので「ごめん、ごめん、気が付かなくて」と云ったら私を抱きかかえるようにして労わってくれた。今日も素直にミトンをはめさせてくれた。

八月十一日
傾眠状態、起こしても目覚めないのでベッド上でのリハビリになった。リハビリ中も眠っている。PT の先生から、内田のミトン着用についてナースに相談があり、「最近、内田さんがボーッとしているのは、ミトンを24時間つけているのが影響しているのではないか、昼間は着用しないで、就寝時から夜間のみにしたいからと承諾をもとめられた」とナースが報告してきた。

八月十二日
今日も眠っているが、OT がおこしてリハビリルームに連れて行く。畳の歩行、階段歩行、数字当て等のリハビリを見学する。リハビリ後に CT 検査を受ける。
最近は昼夜が逆転、夜間、喘鳴が著しくて眠っていないようだとナース。
吸引時に義歯でカテーテルを噛むので、義歯はしばらく入れないことになった。

八月十三日
食堂で白石先生と面会中である。OT によれば、今日はすっきり、はっきりしていて、白石先生のお話に適切に反応していた由。OT のメモから、(白石様が、学生時代のお話をたくさんしてくださいました。それを内田さんは相づちをうちながら、ずっと聞いておられました。すごく適切な反応でした。本日は痰が多くて沢山排痰できましたが、全部はだしきれないようでした。痰よりも、白石様と早く話しをしたいようで、私に向かって、怒りかけた場面もありました。)眠たそうなので妹と五時半に病室をでる、珍しく手を振って私たちを送り出してくれた。

八月十四日
妹夫婦と私の三人で歩行訓練を見学する、内田は頑張って50mも歩行した。八月六日の40mの記録を更新した。午前中のリハビリも絶好調だった由。義弟と食堂で話をして、そのあと、妹が車椅子で駐車場に連れて行き、ハーレーダビッドソンを見せる。義弟がエンジンの音を聞かせると「ウァー」と言って喜ぶ。今日もご機嫌で帰宅する際、手を振ってくれた。

夫婦で


 

写真の説明

木谷氏ご夫妻

木谷さんご夫妻木谷さんと

木谷さんは技師学校の内田の教え子で、木谷家とは家族ぐるみのお付き合いです。宇部から毎回ご夫妻でお見舞いに来ていただきました。
内田の告別式では、演歌が大好きな内田のために、河内おとこ節を歌っていただきました。

白石先生と淵脇氏

白石先生と淵脇氏

お二人とは、パソコンを通じてお知り合いいただいたお仲間です。
白石先生は、宮崎産業経営大学の教授です。
淵脇さんは優秀な IT 技術者で、数年前に IT 関連の事業を、東京で立ち上げられました。
内田の年齢からしますと、白石先生は息子で、淵脇さんは孫のような存在ですが、三人はお互いに尊敬しあい、信頼で結ばれたホットな関係でした。
内田が意識障害になったとき、白石先生から「私共は、内田先生を家族の一員と思っていました」と聞いた時は、嬉しくて有り難くて胸が熱くなりました。
淵脇さんには、内田のホームページを DVD にしていただき、告別式では、四十分ほど放映いたしました。DVD のバックには、内田がかねてから希望していました旅順工科大学の校歌を流していただきました。

ハーレーダビッドソン

ハーレダビッドソン

義弟が、福岡からハーレーに乗って病院にやってきました。
内田も若い時分、オートバイに大変憧れた時期があったと聞いたことがありますが、眼が悪いので、自分は車の運転とは一切縁のないこととあきらめていたそうです。妹が、内田を車椅子に乗せて駐車場に連れて行き、義弟がハーレー独特のエンジン音を聞かせると、「オー」と声を上げて喜びました。

赤いインサイト

赤いインサイトと共に

赤い色のインサイト。これは、内田が私に選んでくれた車です。
二月二十四日、内田が入院になりましたので、必要物品を自宅に取りに帰るため、駐車場を出る際に、助手席のドアを植え込みの低いコンクリにぶっつけてしまいました。内田が入院になり、気が動転していたのでしょう。
内田に相談しましたら「お年寄りが、赤い車を運転しているのは、かっこいいもんだよ」と言って赤いインサイトの購入が決まりました。
車のナンバーは、内田と私の生年月日の一部を入れることにしました。
車が届いたのは、六月初旬でした。その頃、内田は脳梗塞で二ヶ月が経過していました。内田が選んでくれた赤いインサイトを見せるために、車椅子で駐車場に連れていきました。内田の入院中はインサイトで毎日病院通いをしました。
内田の健在時は、買い物、ドライブ、内田の通院も、いつも二人で一緒でした。
内田が八十歳過ぎた頃から、私が運転手、内田は助手席専門となりました。
内田が他界して、誰もいない助手席、車には私が一人、不思議で、寂しくて、悲しくて、あふれ出る涙を服の袖で拭って運転しました。今、内田が使用していたクッションを助手席に置いて、クッションに向かって声をかけたり、さわったりしながら運転をします。
内田の選んでくれたインサイト、内田は一度も乗車することはありませんでした。

 


 

肺炎と下血(8,15~8,30)

八月十五日
ケースワーカーに紹介していただいた病院を、妹と見学に行き、病室に帰ってくると、内田は酸素吸入と持続点滴をして、意識も朦朧としている状態なので、びっくりしてナースにたずねる。医師の説明があるとのこと。医師の説明では「昨夜、胃婁を引き抜いて、胆汁の逆流があり、三十九度熱発して、両肺下野に肺炎が認められる、脳には異常がない」とのことである。
しばらくして目覚めて、私の上体を抱きかかえるようにして、左手で私の背中をよしよしといった感じでやさしく叩いてくれた。
口のきけない内田が、私に対して、唯一可能な感謝と労わりの気持ちではないかと受け止めた。我が家に滞在中の義弟が訪室すると泣き顔になり、帰宅の際も泣き顔になった。リハビリも順調に進んでいる時期だけに、突然の肺炎は、気弱になっているのではないかと思った。ベッド上安静五日後の八月二十一日に起立訓練があり、内田は気持ちよさそうに訓練をする。起立訓練は以前と余りかわりがないようだ。

八月二十二日
肺炎から一週間、病室に向かう廊下で「先程の血糖が500で、顔色が悪いです」とナースが教えてくれた。病室に入ると、内田は顔面蒼白、下肢は冷たく、身のおきどころがないのか、しきりに足を動かしている。
内科のドクターが三回来診、三回目の来診時に消化管出血であると説明される。ヘモグロビンが 10% に低下、ワーファリンと降圧剤は中止で脳出血のリスクは大になる、ヘモグロビンが低下すれば輸血、内視鏡検査をする、点滴を増やすとのこと。

八月二十三日深夜
内科のドクターとナースから、輸血の承諾書の件で来院してほしいとの電話がはいる。ヘモグロビンは8%になっている。
出血の原因は、ワーファリンの異常な効きすぎで出血したとのことである。
内田には胃潰瘍があること、ワーファリンを服用していること等、私自身にも大事な意識が欠如していたと反省した。

八月二十四日
内視鏡が実施されたが出血部位は特定されず、二十六日に再検査をすることになった。昨日、挿入されたマーゲンチューブからは、何も排泄されないので抜去された。胃婁からは黒色の全血様排泄物が相当量ある。

八月二十五日
私より早く到着した友人に、内田が声にならない声で「ありがとう」と言ったそうだ。気分が悪いのか不機嫌で私を手で払いのける。
内田の、童のような美しい笑顔は、病棟スタッフや私の友人間でも大評判であるが、時々、内田は怒り出すことがある。おむつが濡れたとか、何かしてほしいとか、理由があるようだが、意思の疎通ができないので、内田は「なんだ、そんなことも判らないのか」と言うように、不満たらしく口をモグモグさせて、プイと顔を横にそむけたりする。内田には申し訳ないと思うが、時に私ははぐらかすこともある。
内田の状態が悪くなって、怒らなくなるとスタッフは心配になるそうだ。

八月二十六日
午前中に内視鏡と CT の検査が実施され、主治医から検査結果について説明を受けた。
1、潰瘍からの出血は止血している。
2、肺炎は治癒。
3、電解質の異常あり。
4、炎症があるので抗生物質をしばらく続ける。
5、明日、明後日のヘモグロビン検査の結果で輸血を考える。
6、放射線科医の診断では、腎盂炎の疑いがあるので尿検査をする。
7、胃婁は問題ないとの外科医の診断があったので、明朝から食事を開始する。
8、酸素吸入はしばらく続行、点滴は2~3日続ける。

八月二十八日
38度以上の発熱があり、病室で X 線撮影をされる。内田が起き上がるので、起立訓練を二回実施された。

八月二十九日
解熱しているもよう。酸素吸入が 3L から 1L に減量されている。
私は、内田に「勝さん頑張っていますね、そんなに頑張らなくてもいいのよ」と云うと「ヘヘッ」と笑う。今日は千客万来のお見舞いがあったので、疲労したようだ。私にはよく怒るが、お見舞いの方には笑顔で対応するので疲れるのだろう。

八月三十日
酸素吸入とモニターが中止になる。

八月三十一日
OT がみえる。麻痺側の右手をマッサージ中に「痛い」といって怒りだしたのでリハビリ中止。午後四時、PT が来室、肺のリハビリを実施される。最初は PT の指示どおりに深呼吸をしていたが、うとうとしながら時々目を開けて怒りだす。低血糖かもしれない。「佐井先生からお電話がありましたよ」と伝えると「だれから」とはっきり聞きとれた。

九月一日
持続点滴終了。

九月二日
尿留置カテーテル抜去。

九月四日
約、三週間ぶりで本格的リハビリが開始される。OT が、リハビリを私に見せたいからと私を呼びにみえる。廊下の手摺りにつかまり、麻痺側の身体を OT に支えられて歩行する。右足はもつれて足の運びは悪いが、左足はスムーズに動く。以前にも同様の状態があったので、極端に悪いわけではない。午前中にも PT のリハビリ歩行訓練があった由。二十日ぶり、大病の後にしてはなんともすごいことだ。OT は「ふつう、この年齢では寝たきりになりますが、今日の訓練の様子では、内田さんは元に戻るでしょう」と云われた。午前、午後の訓練で疲労したのか、三時ごろから入眠する。

九月六日
洗面所でナースによる起立訓練十回、病室で OT の訓練を二回したところで疲れたのか横になる。消灯時になると、ベッドから廊下のナースを手招きして「怖い、怖い」と言うらしい。

九月七日
午後、PT により肺呼吸訓練と廊下での歩行訓練がある。5m 弱で疲れた様子。

九月八日
今日は機嫌良好、やる気満々で右足のもつれもみられず、30m 歩行できた。OT は「ここまでやれるとは」と感嘆しきり。ナースセンターでは、数名のナースが「内田さんが歩いている」と声を上げてびっくりしている。

九月九日
今日の訓練は 15m 歩行したところで顔が険しくなる。血糖値82のせいだろう。主治医面談「ヘモグロビン9.8%、炎症もないので来週の転院は如何ですか」「病院を変わると家族は病状が悪くなったと言われるが、何がおきてもおかしくないですから」とも。以前、OT から「老人は環境の変化に大きなストレスを感じる」と聞いた言葉が頭をかすめる。

九月十日
ケースワーカーがみえて、転院病院の食事について、介護型で入院できると説明される。内田に「後、三日で病院を移ることになるのよ。これは国の政策だから仕方のないことなのよ。転院先の病院には、個室がないので相部屋になるけど、病状の悪い患者さんでなければいいけどね」と、内田に話したところ「大丈夫」と返答があった。友人と私の二人で聞いた。確かに聞いた。

九月十一日
OT との別れが分かっているらしく、作業療法中、内田の顔がくもる。一旦ベッドに横たわるが、不機嫌で起き上がるので、妹が車椅子に乗せて散歩する。

九月十二日
今日も不機嫌。ベッド柵をガタガタゆするので車椅子に乗せる。散歩の途中でナースによる起立訓練を五回して、部屋に戻りベッドに移すが、又ベッド柵をゆするので、再度、車椅子散歩をする。夕食前血糖値50で糖水を注入される。昼食前にインシュリンを6単位注射されたそうだ。午後六時の血糖値が236。糖水注入の次は、又インシュリンではと帰宅後も気になる。血糖コントロールがどうもうまくいかない。私の観察では、内田の不機嫌の原因は、低血糖と低血圧に起因していると思っている。

九月十三日
今日もベッド柵をガタガタさせて不機嫌。車椅子に乗せて、病棟スタッフが行うリハビリ体操に、私も一緒に参加する。妹は転院の準備で病室の整理をする。内田に「明日は転院だから、病院には早く来ます」と言った途端に怒りを爆発させる。二月以来約七ヶ月、長きにわたって、お世話になったスタッフや病院とお別れする内田の心情を思うとき、国の施策の六ヶ月の期限が残念でならない。

 


 

療養型病床群へ

病院におけるリハビリ治療は、国の定めるところにより六ヶ月とされている。それまでに家族は、患者の行き先をさがさなければならない。
私も、内田がお世話になる最適の場所を求めて、老人保健施設、病院、療養型病床群等五ヶ所を見学に行き、それぞれの施設や病院のケースワーカーにお話を伺って参考にした。
入院中の病院では、現在の内田の状態から、療養型病床群を勧められた。
療養型病床群には、介護型と医療型がありますが、国の定める暫定期間にあり、いずれ全廃されることになっている。
今、社会問題にもなっている、行き先のない難民患者、そして私たちの将来はどうなるのだろうと暗澹たる気持ちになった。
内田の入院を通して、実に多くのことを学んだ。
内田の頑張りで、リハビリが順調に進んでいることもあり、私は内田の意欲と可能性を信じて、リハビリの時間数が多い介護型でお願いすることにした。

 

 

療養型病床群(9,14~12,13)

九月十四日午前八時過ぎ、ケースワーカーに準備していただいた、福祉タクシーの運転手さんが病室に迎えにきました。
内田は、淡いオレンジ色のかりゆしのシャツに、半ズボンのこざっぱりした服装で、リクライニングシートの車椅子に乗せていただき、私と一緒にナースセンターにご挨拶に伺いました。八ヶ月近くもお世話になったスタッフの方に声をかけられた内田は、悲しそうな顔になり涙ぐんでいました。
タクシーには妹が同乗して、私は自車で後を追いかけることにしました。二月以来、八ヶ月ぶりで車に乗った内田は、かって宮崎大学のボート部を指導、訓練した大淀川、車窓から見る風景をとても嬉しそうに眺めていたそうです。
転院先の病院では、私の友人が出迎えてくれましたので、ニコニコ顔だったようです。私は遅れて病室に入りましたが愕然としました。
私が最も危惧していたことが現実になりました。病室で見た内田の表情は険しくなっていました。内田の病室は、ナースセンターの隣の四人部屋で、ガラス越しに患者を観察できる病室でした。内田の真向かいの患者さんはかなりの重症で、大きな声で絶え間なく呻吟しています。二人の患者さんもゼロゼロと喘鳴が著しい方、時々大声を発する方でした。内田の表情は険悪でしたが、「今は、転院したばかりなので、しばらくは観察期間になるのだから」と我慢するよう説得しました。
お見舞いに見えた方々も「お部屋はどうにかなりませんか」と仰いますし、私も長時間病室にいますと、頭痛がしてノイローゼになりそうでした。病室のことで、一度はケア、マネジャーに相談はしましたが、内田が次々に肺炎をおこして、容態が安定しないので、私もこの病室のほうが安心だと思うようになりましたので、この病室に最後までとどまることになりました。
転院の翌日、午前中に片付けたい用事があり、病院に電話を入れたところ「内田さんは、昨夜一睡もできなくて熱発しました」胸部撮影の結果、肺炎と診断されました。幸いにも、前の病院で肺炎を患ったときに使用された抗生剤、ペンマリンが、今回もよく反応して治癒しました。
前の病院でも、脳外科病棟、外科病棟となんどもリハビリ病棟間を転棟しましたが、今回の転院も、作業療法士に聞いた話を重く受け止めることになりました。
「老人は、同じ病院の中で、病棟が変わっただけでも、若い人が見知らぬ土地に転勤したのと同様のストレスを感じるものなのです」スッタフが全員入れ替わり、これまでと違った環境、病室、家族と離れて二十四時間を暮らす老人の気持ちが理解できるような気がします。

ベッドにてベッドにて

九月二十七日
午後になってしきりに廊下を指差します。主任看護師が「車椅子に乗りたいのでしょう」と言って、車椅子に乗せていただきました。エレベーターで一階に下りて、肺炎のため中止しているリハビリルームを見せて、ウロウロして病室に帰りましたが、まだ、ものたりないようなので又、一階に降りて帰室するエレベーターの中で悪寒戦慄がありました。ベッドに寝かせていただいたところで、呼吸が荒く、頻脈、口唇チアノーゼが認められ、スタッフ総がかりで酸素吸入などの処置をしていただきました。宿直医がみえて点滴も開始されました。週が明けてレントゲン撮影の結果、二度目の肺炎でした。
二度目の肺炎が治る頃の十月十八日、三度目の発熱、主治医の面談で「すみません、今回は季節の変わり目で、昼夜の寒暖の差によるものでしょう、今回は早くよくなるでしょう」と説明がありました。
主治医は総合内科のドクターで、糖尿病を併せ持つ内田の治療方針も、全面的に信頼のできる先生でした。スタッフの方々にも手厚い看護と行き届いた介護をしていただき感謝しています。
転院後は、次々と肺炎にかかりましたので、殆んど点滴による栄養補給になり、目にみえてやせていくのがわかりました。自宅で63キロあった体重も九月十四日の転院の時点で15キロ減の48キロになっていました。
肺炎で、又やせ衰え、体力、気力も限界の状況のなかにあっても、内田は内田らしい気配りは忘れていませんでした。お見舞いに見えた杉山ご夫妻の話にもよく反応して笑顔も見られ、お帰りになる際に、私が椅子に掛けたままでいると、廊下のほうを指差し、お見送りをするようにサインを出します。又置時計をよく指差しますので「今何時ですよ」と教えると、判ったとばかりに、こっくり首を振ります。多分、私の帰宅時間を気にして、少しでも長く病院にいてほしかったのかもしれません。
転院翌日の肺炎から、三回目の発熱が治癒するまで、一ヶ月半のブランクをものともせず、再び内田はゼロからのリハビリをスタートしました。
高齢で、しかも、一ヶ月半のブランクで、筋力は落ち、体力の消耗は相当あるにもかかわらず、逃げないで、真面目にリハビリに取り組みました。
内田は、自分を信じ、きっと元気になると思っていたに違いありません。
意識を失くしたその日も、理学療法、作業療法、言語聴覚療法をこなして、私が病院を出るまで、なにも変わったことはありませんでした。

お見舞いお見舞いお見舞い

十一月二十日、午後十一時頃、「内田さんが急変しましたので来て下さい、どの位の時間でこられますか」と病院から連絡がありました。「タクシーで行きますが、一時間です」ショックと寒さで足がガタガタ震え、胃が痛くなりました。
コートを羽織ってタクシーを呼び、病院にかけつけました。
「一時間持たせるために、人工呼吸、強心剤使用、挿管による酸素吸入をしました」と当直医による説明がありました。
その夜は椅子にかけて一夜を明かしました。翌、午前八時に「喀痰の量が多くて、深部の痰が充分にとれていない、呼吸不全をおこして、呼吸停止が十一時にありました」と医師の説明をうけました。
内田の急変で、横浜から内田の次女がきてくれました。次女には二十一日、二十二日の二日間を病院に泊まっていただき、四日目は私が内田のベッドの下に泊まりました。内田に意識障害がおきた時点で、一応、覚悟はしましたが、主治医の先生も「よく頑張っていますね」と声をかけられ、特に急激な変化は見られませんでした。
意識障害になっても、聴覚は最後まで残ると聞いています。内田の場合も、十二月の初旬まで反応がありました。
白石先生がお見舞いにみえて、お帰りになる時、いつものように握手をしながら「先生また来ます」と話しかけると、握手をしている内田の左手が動いたそうです。ご近所の井上正典さんがお見舞いにみえた時も「先生、先生」と耳元で呼んだら、井上さんの方に眼が向けられたと聞きました。
私の友人の赤木さんは、毎日、内田の様子を見に来てくださいますので、聞き慣れた赤木さんの声に反応して、眼が開いたこともあったようです。
私も大きな声で、一日に何度も内田の耳元に話しかけます。最後の頃には「あなた、もう頑張らなくてもいいのよ」と。その日、お見舞いに見えた方のお名前、諸々の報告、帰宅の際は「明日また来ます」と耳元で声をかけると、睫毛や眼瞼がピクピク、パチパチと動いたり、くろ眼が私の方に向けられました。
この頃、内田の肉体は一段とやせて、衰弱は日々、目に見えておりましたが、酸素吸入を続けながら、最後の力をふりしぼるように、精一杯の呼吸をしていました。

 

意識が消失してから、内田は二十三日間も頑張りました。
私は、頑張ってくれたと思っています。
私の気持ちの整理がつくまで、町内の写真屋さんに、依頼していた遺影ができるまで、告別式で放映するホームページの DVD ができるまで、内田は最後の気配りをして、それを見届けるかのように旅立ちました。
意識がなくなるまでの長かったリハビリでの内田の頑張り、そして意識を亡くしてからの内田の頑張りを、私の親友は、やさしく諭すように私に話しかけてくれました。
「ご主人は、あなたが一人で暮らしていけるように、時間を下さったのよ」。
内田は、障害を持つ私のことを、一番案じていたのではないかと思います。
内田も、私にしましても、大変な入院生活でしたが、患者の家族として、さまざまな勉強をさせていただきました。
内田のお見舞いに、遠路わざわざお運びいただきました皆様、そして私の友人、内田の知人の皆様や地域の皆様には、私共を、あらゆる場面で支えていただき、お世話になりまして有り難うございました。心から感謝申し上げます。

 


 

終わりに

内田の年齢では、寝たきりになるケースが多いと聞くなかで、内田は入院当初から終わりの日まで、内田らしい頑張りを私に見せてくれました。
リハビリを一生懸命にやりました。肺炎を何度も克服し、薬の副作用による下血にもめげず、意識を失くしても二十三日間を精一杯に生き抜きました。
内田が意識を失くした時点で、わたしも覚悟をしましたが、意識を失くしても、私には内田の反応を感じることができました。

内田は最後のその日まで、内田らしく生きました。

内田勝

最後に、元岐阜大学教授、仁田昌二先生に、いただきましたお手紙の一部をご紹介して最後のページを閉じます。

「入院中にリハビリや生きることにも真剣に向かい合ったと書いておられることから内田先生が岐阜大学で過された十年のお姿と全く同じで感動いたしました」