デカルトとパスカル


ここではデカルトとパスカルの主義・主張を比較する。彼等の哲学の持つ雰囲気は前述の生い立ち・経歴・業績などから比較出来るが、分かり易くする為下記の様に表にして見た。

            デカルト              パスカル
        演繹的論理的            帰納的実験的
         分析的               総合的
         客観的               主観的
         物質的               精神的
         量的                質的
         理性的               心情的
        普遍性重視             個別性重視
          ・                 ・
          ・                 ・
        ニュートン            キエルケゴール
        ダーウィン            ハイデッカー
        マルクス             サルトル
          ・                 ・
          ・                 ・
        近代合理主義           近代非合理主義
        (方法序説)            (パンセ)   

 主として上述の様な雰囲気であると言う事であって、当然お互いに入れ子になっている部分も存在する事は当然である。詳しい事は方法序説・パンセなどの精読に俟つとして、ここでは二三の逸話を述べる事としよう。

ルネ・デカルト  ”われ思う故にわれあり”は余りにも有名な言葉であるが、剣で女性を賭けての決闘など余り知られていない。デカルトは終生結婚しなかったが、結婚を考えた女性がいた。ある時デカルトは彼女を守ってパリから帰る途中、オルレアン街道で恋敵に打ってかかられた。剣術は得意であって。すぐ相手の剣を叩き落とした。そして”私がいま命を賭けたこの女性に君は命を助けて貰ったのだ。御礼を言うが良い。”と言って許した。しかし、デカルトはその女性への執心をもまた捨てたと言われている。

 デカルトは一度子供を持った事がある。1634年ヘレナというオランダの女中を愛して娘を得た。しかし娘は1640年猩紅熱で死んだ。非常に悲しんで、”涙や悲しみが女だけの事で、男は何時も冷静な顔を無理にせねばならないと考える者に私は属さない”と手紙するような一面もあった。

ブレ−ズ・パスカル  ”一本の考える葦”・”パスカルの原理”など良く知られている。”クレオパトラの鼻。これがもっと低かったら、地球の全表面は変わっていたであろう”も有名である。クレオパトラの鼻という偶然が、シーザーを動かし、アントニ−を虜にして世界史の進行に影響を与えたとするならば、歴史の偶然が大きく働いていて実に面白い見方である。

 1656年3月24日、パリのポール・ロワイヤルにおいて、一つの奇跡と認められる事件が起こった。キリストの荊の冠の一部と称する遺物が、ある人によってポール・ロワイやル修道院に持ち込まれ、尼僧達はそれを安置して拝んだ。その時、院に預けられていたパスカルの姪マルグリット(当時10歳)は重い涙膿炎を病んでいたが、この聖荊を眼に押し付けて快癒を祈った所、直ちに効があって腫れが引いたという。医者が驚いた。この事件は教会の慎重な調査の上、明らかに”奇跡”であると認められた。

デカルトとパスカル  デカルトは”人間は30歳以上にもなると医者はいらない筈だ”と言っていた。自分が自分の身体の医者である事が出来る筈だというのである。彼は病になってからも自分で診断を付け処方を命じていて、女王のよこした医者の言う事を拒んでいる。しかし8日目になって自分の誤診を知り手当てを変えたが、もう手後れだと知って遺言を書き取らせたと記録にある。自らの生を終わりまで自らの自由意志の統御の下におき、死をも自らの誤診の結果として受け入れた。いかにもデカルトらしい最後である。54歳であった。      

 パスカルは自らの臨終を意識してしきりに聖体拝受を願った。秘跡を授けようと部屋にプウリエ師が入って来て言った。”さあ秘跡の拝受です”パスカルはそれを受ける為に半分ほど起き上がり恭しく拝受した。司祭が信仰の秘儀について質問すると、パスカルは”私は心からそれを信じます”と答えた。それから”神が私を決してお捨てにならないように”と言った。それが最後の言葉であった。1662年8月19日午前1時とまで分かっている。39歳2ヶ月であった

 神に関する考え方も全く相反している。デカルトは”神の存在を明証的に証明”しようとし、パスカルは”神は理性的にでなく心情的に信ずるものである”としている。従って、”デカルトの神はデカルトの自主的決断から展開されたものであり、パスカルの神はパスカルに迫って決断をなさしめた”と言われている。パスカルは神に選ばれ、デカルトは神を求めたとでも言えるのであろうか。あの有名な”われ思う故にわれあり”の不動岩ののようなデカルトに対し、”揺れ動く弱々しい一本の葦”というパスカルに人間はまた諸現象は限り無く迷いを繰り返しているように思われる。

 デカルト・パスカルの死後、実証科学の進歩は数学・天文学・物理学の様に、比較的単純な事柄を取り扱う学問の発達に続いて18世紀の化学、19世紀の生物学、更に社会学・心理学等などと領域を広げて行った。比較的単純なものについて得た結果を、次々に一層複雑なものを解く鍵として用いて行く、正にデカルトの説いた方法の勝利であった。パスカルの様に、複雑なものによって下位のものを調和させると言う様な方法は進歩の流れに逆行するものとして、無視されても仕方のない面もあったのである。

 しかるにデカルトの物理学説の大部分は今日通用しないのに対して、パスカルの業績は我々に至るまで学校で学ばされている。この事からも分かる様に、直線的な進歩観が前世紀末から修正され始めている現代において、パスカルが改めて見直されている点もこれから益々重要さを加える事であろう。

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