デカルト


 デカルト(Rene Descartes,1596〜1650)はフランスの哲学者・科学者で、近代科学の理論的枠組みを最初に確立した思想家としてしばしば「近代哲学の父」と呼ばれる。

 デカルトはフランス中部トゥーレーヌ州のブルターニュ高等法院評定官の子として生まれた。10歳の頃、ラ・フレ−シュ学院に入り、約8年間人文学やスコラ哲学を学ぶ。次いでポァティエ大学で法律学を学び、20歳で法学士になる。そこでは数学以外の学問に失望し、22歳で旅に出た。まずオランダ軍に志願将校として入り、オランダの科学者べ−クマン(Isaac Beeckman,1588〜1637)を知る。べ−クマンに強い影響を受け、自然学の研究に数学を利用する新しい方法を知る。

 翌年ドイツでカトリック軍に入り、その冬ノイブルグに駐屯中、炉部屋で思索を重ねる。そこで数学の解析の方法を学問の普遍的方法として一般化し、これによって総ての学問を統一すると言う彼の思想を確立するとともに、この仕事に一生を捧げる決心をした。

 その後、ドイツやイタリアを旅し、フランスに留まっては数学の研究を続けた。30歳以後はパリにあって光学の研究も行い、光線の屈折の法則(正弦の法則)を発見した。その後オランダに移り、以後約20年間各地を転々とした。37歳の時、光論と人間論とからなる宇宙論を完成したが、ガリレオ断罪を知り、代わりに屈折光学・気象学・幾何学の三つの試論に序文として「方法序説」をつけ、41歳の時刊行した。この「方法序説」こそは、近代の思想そのものを切り開いた哲学者の思想と形成過程が、生き生きと描かれた記念碑的作品である。

 45歳で形而上学の主著「省察」が、48歳では自然学をも含む体系のほぼ全容を示す「哲学の原理」が出版された。その後、道徳に関する省察を深め、53歳の時「情念論」が生まれた。この最後の出版の年の秋、スウェーデンに招かれてストックホルムに行き、翌年2月肺炎のため同地で急死した。

 旧来の学問をすべて否定して真の学問を創造しようとしたデカルトにとって、方法は中でも重要な意味を持っていた。その方法は数学の明証性を範とし解析の方法を一般化したものである。「方法序説」第2部に四つの規則として纏められている。

 (1)精神に明晰判明なもののみを真と認め、速断や先入観を排除する事(明証性の規則)。
 (2)問題を出来るだけ多くの小さい部分に分けて、最も単純で認識しやすい要素を見い出す事
   (分析の規則)。
 (3)最も単純なものから最も複雑なものへと思考を順序正しく導く事(総合の規則)。
 (4)見落としが無いかどうか十分に再検討する事(列挙の規則)。    

 以上を方法の要諦とする。
 つまり、明らかでないものは一切扱うな、確実なデータを集めて物事を分析しなさい、分析した後でその要素から全体を構成して見なさい、構成した後、自分の考えが本当に間違っていないかどうかさまざまな例について確かめて見なさい、と言う指導原理と解釈出来る。物理学における、物質が分子−原子ー原子核ー素粒子の階層をなす例などは、その良い説明である。

 デカルトに始まるこの近代合理主義の精神の最大の長所は、問題を徹底して突き詰める所にある。対象を極限まで粉々に分析して、問題の真の所在を明らかにしようとする。その事によって、以前は見えなかった対象が明らかにされる。しかし最大の弱点は、粉々にして把握した対象が、対象の全体像をも明らかにすると言う要素還元論に容易に達する点にある。部分を明らかにする事によってだけ全体像が明らかになるとする体系を唯一であるとした点である。対象が弱い結合性を持つ時はこの体系は真理となり得るが、強い結合をしている時は、例えば生命に拘わる問題や社会科学の間では粉々にしたら終わりであるという欠陥がしばしば見られる。

 アリストテレスが二値論理を主張した時、同時にあいまいさも認めていたが、その二値論理をルーツとするデカルトに始まる近代合理主義は、ニュートン、ダーウィン、マルクスなどに引き継がれ現在に至っている。

 その主張するところは分析的、客観的、量的、物質重視、理性重視、普遍性重視、演繹論理的である。要は主観に伴う総ての環境を徹底的に排除したことである。このアンチテーゼとしてパスカルが近代非合理主義を主張する。  

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