2011年9月07日(水) no.117



原水禁世界大会in長崎
に参加して


                                    番匠拓也

宮崎県革新懇は、原水禁世界大会in長崎に
番匠拓也さん(37)に参加してもらいました

 子どもの頃から、8月6日と8月9日は、特別な日で、夏休みという大きな開放感の中でも、この日、広島、長崎に原爆が投下されたという事実は、重く受け止めていました。中学の修学旅行では、広島の原爆資料館を見て回り、原爆ドームを実際に見た時の、ピカドンが、脳裏に焼きついた光景は、日本人として、忘れられるものではありません。あれから23年後の夏に、今度は長崎の原水禁大会に参加する機会を得ました。原子爆弾は、二度と落とされてはならない爆弾なのだ。日本人は、世界に大声を上げて、原爆を、核兵器を、反対する国民なんだ。そんな子供の頃の思いも、37歳となった今では、日々のニュースに振り回され、核兵器廃絶への願いは、気持ちとして、片隅にあるのが現実でした。
 初日の開会式。会場を埋め尽くす人、人、人。こんなにも多くの人たちが、日本中から、平和への願いを強く握り締めて、駆けつけたのだ。それだけで、埃かぶった私の思いも、水を得た魚のように、元気よく泳ぎまわれるような気持ちになりました。国連事務総長の連帯のメッセージに耳を傾け、「あなたたち市民運動は、核廃絶プログラムの重要なパートナーだ」との言葉は、大きな、大きな励みになりました。世界は前に進もうとしている。真実を、現実を、もっとよく学ばなければと、姿勢を正しました。
 大会二日目。この日は、分科会ということで、宮崎から一緒に参加した、約30名の参加者も、それぞれの分科会に分かれての行動になりました。私は、核兵器とエネルギー問題という分科会に参加しました。原発です。今年、多くの国民が、原発について考えました。YESNOかで、今後の原発政策について、考えさせられる事故がありました。東京電力福島第一原発事故以前は、核兵器廃絶と、原発からの撤退は、違う部屋で論じられるテーマだと思っていました。でも、今年、放射能という言葉が多くの国民の意識に入り込み、被ばくが、この国の現実のものとなりました。「原発は安全だ。クリーンエネルギーだ。」との安全神話のなか、実にこの国に建設された原発の数、なんと54基。それは、意識することなく、生活に電力として入り込んで、疑問を抱くことすら私は忘れていたのです。

 原発建設反対の力強い住民の発言がありました。その女性の母は、生前、断固として電力会社に、土地を明け渡さず、建設を反対し続けたそうです。建設計画は変更を迫られ、建設も稼動も、大きくずれ込みました。母の反対がなければ、現在、その原発は稼動していたと言うのです。母の娘は、その母の意志を守り続け、会場に訴えました。それは、この胸に、もっとも大きな感動をもって、届きました。原発推進派の巧妙な手口に、やらせメールの実態、次々と明るみになる原発利権の構造、全体像。
 原水禁運動には、二つの大きな柱があると、聞きました。ひとつは、核兵器廃絶。ふたつめは、被ばく者救済です。今年、原発事故による被ばく者が出ました。被ばく者の本当の正確な数は、把握できないほど、広範囲な放射性物質による大気汚染、海洋汚染、土壌汚染。次から次に、汚染被害の実態が明らかになり、被害にあった当事者たちの怒りと悲しみを見て、思いました。これは、国民全体の問題で、原発立地周辺自治体の問題ではない。何より、原発からの撤退と、自然エネルギーへの転換は、今すぐにでも始めなければならない、未来への約束だと。
 大きくは、平和運動として、私は、世界の人々が二度と戦争で苦しむ人がないようにと、思います。そして、この世から、核兵器が完全になくなることを、強く願います。
 平和と思って暮らしてきたこの国でも、知らないうちに、平和な暮らしは日々脅かされている。
 しっかりと真実を見極め、道を間違えることなく、まっすぐに、進みたいと思いました。何より、全国に、こんなに温かくて、大きく力強い平和運動が築きあげられているこの想いを、私も背負って立つ決意です。
 今回、私を長崎へ送っていただいた平和運動の先輩たちに、感謝と決意を申し上げて、報告といたします。ありがとうございました。

   



宮崎県革新懇が2011年世話人会を開催

    

 宮崎県革新懇は、8月6日に全国革新懇第31回総会の報告を主な内容とする2011年県革新懇世話人会をおこないました。7月16日に東京の日本教育会館でおこなわれた全国総会に出席した佐藤誠県革新懇代表世話人が、総会で確認された「報告と提案」の主要点と特徴、志位共産党委員長の記念講演の内容などを報告しました。
 そして津波災害に負けずに立ち上がった釜石革新懇事務局長や山梨県などの活発な青年革新懇、貴重な全日空職場革新懇のとりくみなど10の発言を紹介しました。

 世話人会では、原水禁平和行進の首長訪問の経験や原発事故の重大さ、大震災救援活動の経験、国保税引き下げの運動などが討論され、当面の課題として、「核兵器廃絶条約署名」「原発撤退・自然エネルギーへの転換の県民運動」などのとりくみ、「革新懇九州ブロック交流会」に10名以上参加、三股町などでの革新懇結成と会員・「ニュース」拡大などを確認して散会しました。

    


     侵略戦争を正当化する
        歴史観を批判する
 
                                
第1回

        宮崎県革新懇顧問 鍬田萬喜雄

編集部より 宮崎県革新懇顧問で元弁護士の鍬田萬喜雄さんから長文の
「主張」をいただきました。今月号から連載します。その後パンフにも
する予定です。

(1)最近の新聞、テレビは、東北地方を襲った大地震と津波による悲惨な災害、これに加えて原発の崩壊に基づく放射性物質の広範な拡散がもたらした深刻な実態、更には九州電力経営者が行った組織ぐるみの卑劣な「ヤラセ問題」、災害復旧へ向けての政権の一貫性のない拙い対応と有力野党との醜い権力争い等々を毎日のように報道しています。一方では、被災県ばかりではなく、全国各地からの心暖まる支援活動の生々しい実情が報ぜられています。
 このような情勢の中で、6月30日付、7月13日付の『しんぶん赤旗』が、「新しい歴史教科書をつくる会」系の自由社と育鵬社が発行する中学校「公民」、「歴史」の教科書の採択を目論んで各地の教育委員会や地方議員に働きかけていること、人口370万人の横浜市では、従来の18区ごとの採択から変更されて、全市一採択区にすることになったとの事実を大きく報じていることを知りました。そして、その教科書はいずれも侵略戦争を美化し、憲法を敵視している旨を指摘していました。
 1929年生れの私は、小学校(1941年4月1日から「国民学校」となる)在学中は勿論のこと、旧制中学在学中を通して皇国史観に基づく教育にどっぷりと漬かり、アジア・太平洋戦争が正義の戦争だと信じ込んで、1945年の夏頃には陸軍将校たらんと軍の学校を志願して合格し、父は喜んで日本刀を準備する程の気の入れ様だったことを覚えています。
 「鉄は熱いうちに打て」という諺がありますが、この諺のとおり、皇国史観は精神の柔軟な少年のころに頭に叩き込まれたものであり

 「つくる会」の教科書の狙いも、戦争を全く知らない若い中学生の脳の中に戦争美化論、憲法無視論を忍び込ませ、憲法改悪、軍事大国化への方向へと思想統一を押し進めることにあると思います。本当に恐ろしいことです。
(2)上述の『赤旗』の記事は、「自由社」版歴史教科書が、太平洋戦争を「大東亜戦争」「自存自衛のための戦争」と表現し、日本軍の勝利を「東南アジアやインドの人々に独立への夢と勇気を育てた」と賛美していると指摘しています。

 「大東亜戦争」という語は、太平洋戦争を開始して二日後の12月10日、大本営政府連絡会議が「今次ノ対米英戦争及ビ今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルベキ戦争ハ支那事変ヲ含メ大東亜戦争ト呼稱ス」と決定したことに始まりました。その趣旨・目的にについて、12日に内閣情報局が極めて重要な問題を含んだ追加説明を発表しました。下記にその全文を示しましょう。
 「大東亜戦争と稱するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、
戦争地域を大東亜のみに限定する意味にあらず」。侵略意思の表明そのものではありませんか。上記連絡会議の決定の中に「支那事変ヲ含メ」とあるのは、「今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起アルコトアルベキ戦争」という文面から見て、1937(昭和12)年7月7日に始まった盧溝橋での日中両軍の衝突から1941(昭和16)年12月7日までの間の戦争は、日中戦争ではなく「支那事変」であり、12月8日以降の、中国地域での戦争が大東亜戦争に含まれるとの、全く常識外の戦争論を東条内閣と軍部が展開していたのです。
  《次号へつづきます》