ラッセル・カント−ル・ゲーデル

ラッセルのパラドックス、対角線論法による集合の要素と冪集合との一対一対応がないことの証明、そしてゲーデル文、これらは、形は変わっていても同じことを述べているような気がする。すなわち、集合の定義と不可分にその集合の内包的定義を満たす新しい要素が集合の外に発生するということである。これは「もの」の集まりを集合という「もの」と考えるときの避けがたい副作用なのである。

ラッセルのパラドックス

先ず、ラッセルのパラドックスから考えてみよう。ラッセルの集合は「自分自身を要素として含まない集合の集合」である。ここで、ラッセルの集合の部分集合である A について考えてみよう。A は「自分自身を要素として含まない集合」を全て集めているわけではないが、A の要素は全て自分自身を要素として含まない集合である。この A は要素として自分自身を含んではいない。なぜなら A が自分自身を要素として含んだ場合、要素としての A は「自分自身を要素として含まない」という規定を満たさないからだ。しかし、まさにこのために 集合 A 自身が「自分自身を要素として含まない集合」になっているのだ。すなわち要素を集めて集合 A を定義すると同時にそれと不可分に A の要素ではないが、A の要素と共通な性質を持つ「もの」(この場合は集合 A 自身)が集合 A の外側に発生してしまうのである。

しかし、上で述べた集合 A は何もパラドックスを引き起こさない。確かに自分自身も「自分自身を要素として含まない集合」であるかもしれないが、それで別に不都合は起きない。{ 犬の集合, 猫の集合 } という集合はそれ自身が「自分自身を要素として含まない集合」であるがごく普通の集合である。それは、この集合の外に「自分自身を要素として含まない集合」があっても矛盾は起きないからである。ところが「自分自身を含まない集合全てを集めた集合」であるラッセルの集合 R は 自分の中にある要素以外に「自分自身を要素として含まない集合」を自分の外に持ってはいけないためにパラドックスに陥ってしまうのである。

カント−ルの対角線論法

対角線論法による集合と冪集合の一対一対応がないことの証明は次のようになる。集合 N とその冪集合の間に一対一対応ができたと仮定して、集合 N の要素 n が N の部分集合 An に対応しているとする。このとき n not ∈ An となるような n を集めた集合 B をつくる。B はやはり N の部分集合なので B = Am となるような N の部分集合 Am があり、これには m が対応している。このとき m は B に含まれるのだろうか、それとも含まれないのだろうか。m not ∈ B であれば m not ∈ Am であるので m は B の要素でなければならないが、これば矛盾である。また、m ∈ B としてもやはり矛盾が発生する。従って B に対応する m を見つけることができないので集合と冪集合との一対一対応はない。

これは一般に冪集合の濃度が集合の濃度よりも大きいということの証明として取り上げられている。しかし、この証明は、集合そのものの性質についてもある洞察を与えてくれる。B の集合の要素について考えてみよう。B の要素はどの要素も対応する部分集合の「外」にある要素である。したがって B に対応する要素 m は B に含まれることはない。なぜなら、m が Bに含まれてしまうと m は B の「中」にあることになり、B の要素としては不適切であるからである。しかし、まさにそのゆえに m は B の内包的定義を満たしてしまうのである。これはラッセルの集合の場合と全く事情が同じである。集合の定義がその集合の要素ではないが内包的定義を満たす新しい要素を発生させてしまうのである。

この B の性質はラッセルの集合の性質と良く似ている。B の m 以外の要素 n については何も問題が起きないように見えるのに B に対応する m はパラドックスを引き起こしてしまうのである。なぜなら、B の要素はすべて対応する部分集合の外にありながら、同時に B の内部にあるという性質を持っているからである。B の要素のうち B に対応していない n は、対応する部分集合 An に含まれず B には含まれるという芸当ができる。ところが、B に対応する m については、B に含まれず同時に Bに含まれるということができないのである。m は B に含まれないときは B に含まれず。B に含まれるときは Bに含まれることしかできない。従って 集合 N の中には B に対応するものは見つけることができないのである。しかし、B に対応する m を作ることはできないが、その一点だけを除けば B が集合として存在することは可能である。

ラッセルの集合の場合は自分自身が内包的定義を満たしてしまう自己言及性がみられたが、ここで述べた集合 B とそれに対応する要素 m には明白な自己言及は見られないように思われる。しかしながら、 n と An の写像関係から、 n はある意味で An を表していると考えられるから n not ∈ An という条件は An not ∈ An という自己言及性と関連しており、したがって、集合 B にも形を変えた自己言及性が見られるのである。集合 N から N の冪集合への全単射がある場合は、N の要素 n と Nの部分集合 An を同一視すると、集合 B の要素 n (= An) は自分自身を要素として含まない集合とみなすこともできる。そうすると集合 B は「自分自身を要素として含まない集合の集合」である。従って m (= B) が B に含まれるか含まれないかは B が自分自身を要素として含むか含まないかという問題となる。これはちょっと荒っぽい考え方のように見えるが、次のような演算子 An < B の意味を集合 B が 集合 An の逆像を要素として含むことと定義すると、An < B なる An については An not < An であり、B < B としても、B not < B としても矛盾が発生することがわかる。つまり、集合 B にもラッセルの集合と同じ構造があるのである。実際、次のゲーデル文のように、n を An の述語とみなすとラッセルのパラドックスが形式的体系で実現されることになる。

ゲーデル文

前節の n not ∈ An という条件についてもうすこし考えてみよう。集合 N とその冪集合との写像で、n の像が An である場合、n は集合 An を言及していると考えられる。すなわち n は集合 An を言及する述語と考えることができる。すると、n と N の任意の要素 x の順序対 (n, x) を作ると (n, x) は N^2 の要素であり、N^2の部分集合の {(n,x); x ∈ An}を考えることができる。この集合は 文 (n, x) が真となるものの集合である。ここで、集合 N の全ての n と x について (n, x) が真となる文を集めて真理集合 T をつくる。すると、 n not ∈ An という条件下では 文 (n, n) は偽となるから、(n, n) ∈ 〜T である。前節の集合 B はこのような n を集めたものであるから B に対応する N の要素を h とすると、(h, n) ∈ T ⇔ (n, n) ∈ 〜T である。この n に h を代入すると (h, h) ∈ T ⇔ (h, h) ∈ 〜T となって矛盾が発生してしまう。したがって、矛盾を発生させないためには B を言及する述語 h を作ることができない。

このゲーデル文の性質もラッセルのパラドックスと同じ観点で見ることができる。すなわち、文 (h, n) が真であると言うことは前節で述べた演算子を用いると An < B かつ An not < An であるということである。このような n (An の逆像) を集めて行くと集合 B が作られるのだが、集合 N の要素のうちただひとつだけ集合 B に対応するはずの h が B にも not B にも入れることができないのである。つまり集合 B を作ることで B の「外」に B の「内包的定義を満たす」 h(B の逆像) がなければならない。しかし、(h, h) という文は h が B の「中」にあるということを意味しているので、ラッセルのパラドックスと同じ矛盾が発生するのである。従って h を Bの述語とすることはできない。ここで論じた n not ∈ An という条件では対角式 (n, n) が真でない集合の要素となるので矛盾が生じてしまったが、(n, n) が証明できない文の集合の要素である場合は、述語 h の対角式 (h, h) は真であるが証明できない文になる。

つまりゲーデル文は形式的体系という集合の中に閉じ込められたラッセルの集合なのである。

何らかの形で集合の自己言及ができてしまうシステムでは、常に集合の外に内包的定義を満たす要素ができてしまうという自己言及的な集合の性質が、その集合自身の帰属を問題にしなくてはならなくなったときに、パラドックスや証明不可能性を引き起こしてしまうのである。ゲーデルの不完全性が発生するシステムでは、(h,n) ∈ T ⇔ (n,n) ∈ 〜P というような述語 h を使った集合の定義が行えるため、(h,h) という自己言及が発生して問題が生じてしまったのである。

まとめ

以上の議論から考えると、ラッセルのパラドックスも、対角線論法も、ゲーデル文も本質的には同じことを言っているのではないかという気がする。元を集めて集合を作ると同時に集合の外にその集合自身と言う新しい要素が発生してしまうという集合の性質である。世界の果てにたどりついてもいつでもその先があるのである。

また、上の3つの例を記号化するとその類似点が良く分かる。ラッセルの集合 R は次のように定義することができる。

x ∈ R ⇔ x not ∈ x

ここで変数 x に R を代入すると

R ∈ R ⇔ R not ∈ R

となって矛盾が発生する。また、自然数 n と自然数のべき集合 An との写像では集合 B の定義は

n ∈ B ⇔ n not ∈ An

である。ここで、n に B に対応する m を代入すると

m ∈ B ⇔ m not ∈ Am (=B)

となって矛盾する。また、ゲーデル文の場合は

(h, n) ∈ T ⇔ (n, n) not ∈ T

で述語 h が定義され、n に hを代入すると

(h, h) ∈ T ⇔ (h, h) not ∈ T

となって矛盾する。これらのパラドックスで共通しているのは、ある集合を定義するのに要素と述語(集合)の「組」が用いられるところである。つまり集合を定義するのに述語が変数的に使われている。そのためある要素が集合 A に含まれると同時に A に含まれないという状況を作ることができるのである。ゲーデルの不完全性は、二階述語論理の性質としてもとらえる事ができるのではないだろうか。