論理は分類である

このページでは命題論理と真理表の説明を通じて論理的な推論が本質的に「場合分け」であることを示す。また、この観点から一般の文章を論理的に解析する方法を考える。

命題変数

命題論理では個々の命題の内容を考えることはせず、命題変数として抽象化してしまう。命題変数 A の内容が真のときは、命題変数 A は真理値「真」を持つ。また命題変数 A の内容が偽のときは、「偽」の真理値を持つ。たとえば、「今日の気温は30°C以上だ」という命題は真の真理値を持つ場合と、偽の真理値を持つ場合がある。「1たす1は2だ」という命題が偽の真理値を持つとは考えにくいが、命題論理学では命題の内容にかかわらず命題は真か偽の真理値を持つものだと考える。

論理式

命題のなかには「何が何だ」というような単純命題だけでなく、「A かつ B である」とか、「A ならば B」というような複数の単純命題が合成された複合命題もある。

単純命題の間の論理的な関係は4つあり、否定(〜でない)、論理積(〜かつ〜)、論理和(〜または〜)、含意(〜ならば〜)である。これらは論理記号でおきかえることができ、¬ は否定、∧ は論理積、∨ は論理和、⇒ は含意を表す。「西の空が赤ければあしたは晴れだ。」という命題を記号化すると A ⇒ B である。単純命題や複合命題などを論理記号を使って表したものを論理式という。

真理表

論理式で表される命題も真理値をもつ。しかし、単純命題の場合と違って、その真理値は論理式に含まれる単純命題の真理値の組合せで変わってくる。命題 A が真の真理値を持つことを T、偽の真理値を持つことを F で表すと、論理式の真理値のとり方を表で表すことができる。この表を真理表という。基本的な論理式の真理表はつぎのようになる。

否定

命題 A の否定の意味は「A でない」である。命題 A の否定の真理値は A の逆になる。A が真のときは ¬A は偽となり、A が偽の時は真となる。

A¬A
TF
FT
論理積

命題 A と 命題 B の論理積の意味は「A かつ B」なので、A B ともに真のときのみ真となる。

ABA ∧ B
TTT
TFF
FTF
FFF
論理和

命題 A と B の論理和の意味は「A または B」であるから、A または B の一つでも真であれば真となる。A B ともに真の場合も真である。

ABA ∨ B
TTT
TFT
FTT
FFF
含意

含意の意味は「A ならば B」である。この場合は A が真で B が偽の場合のみ偽である。また、A が偽ならば、Bの真偽にかかわらず含意の真理値は真になる。

これは A ならば B という推論における一般の感覚とことなるが、A ⇒ B は実は ¬(A ∧ ¬B) すなわち、「A であって Bではないということはない」という論理式と同じ振舞をする。また、これは ¬A ∨ B つまり、「Aでないか、または Bである。」という論理式とも同値である。含意のこのような解釈は、常識的な感覚とかけはなれたものであるが、応用範囲の広い考え方である。このあたりが記号論理学でなくてはでてこない解釈ではないかと思う。

ABA ⇒ B
TTT
TFF
FTT
FFT
AB¬A¬BA ∧ ¬B¬(A ∧ ¬B)¬A ∨ B
TTFFFTT
TFFTTFF
FTTFFTT
FFTTFTT

これらの真理表から分かることは、論理式が真である場合に原子命題の取り得る真理値の組合せが限定されてくるということである。論理式が真であるということが、原子命題の値のあらゆる組合せの中から特定の組合せのみを選び出してしまうのである。

例えば A ∧ B という複合命題が真であることが分かっているとしよう。この場合は原子命題 A と B は共に真でありこれ以外の可能性はない。また、A ∨ B が真の場合は (A, B) = (真, 真)、(真, 偽), (偽, 真) の三つの場合が起こり得るが、(A, B) = (偽, 偽) は決して起こらない。

すなわち、複合命題の値によって、原子命題の真偽の起こり得る可能性が限定されるのである。つまり、複合命題の真偽は、原子命題の真偽値の組を分類しているという事が分かる。

上の例は複合命題が真であるときに、原子命題の取り得る値が制限される例であったが、逆に原子命題の真偽を利用して、複合命題の真偽を調べることもできる。例えば、原子命題 A が偽であることが分かっていれば、複合命題 A ∧ B は偽であることが立証できる。

命題論理学に関する限り、論理学的推論とは上の例のような場合分けに外ならない。

例えば有名な3段論法 「A ⇒ B が真で A が真 ならば B は真である」を考えてみよう。この場合 A ⇒ B が真であるということから A と B の取り得る真理値の組合せは、(A, B) = (真, 真)、(偽, 真)、(偽, 偽) の 3 つでありそのうち A が真となるのは (A, B) = (真, 真) すなわち B が 真となる場合しかない。

このような命題と論理式の関係は、文章を精密に理解するために利用できる。たとえば、ある文章を分析したいときには、まずその文章を単純命題に分解してしまう。つぎに接続詞に注意しながら、その単純命題間に論理的な依存関係がないかどうか、論理式に書き表せるような前提条件を形作っていないかどうかを調べる。そのような条件があればそれによって各単純命題の真理値のとり得る可能性にどういう制限がかかってくるかを考えるのである。

簡単な例でこの考え方を試してみよう。「細菌感染症の患者の白血球は増加する。この患者の白血球は増加している。したがって、この患者は細菌感染症である。」という文章を分析する。まず、この文章を単純命題に分解すると、A:「この患者は細菌感染症である」、B:「この患者の白血球は増加している」の2つからできていることが分かる。またこの二つの論理的依存関係を見てみると、A ⇒ B が分かっているとされていること、および B が確かめられていることが分かる。そこで、A ⇒ B と B が真であるような真理表を作ると次のようになる。

ABA ⇒ B
TTT
FTT

この真理表をみると、命題 A は真の真理値も偽の真理値ももつ可能性があり、本文の「この患者は細菌感染症である」という推論は正しくないことがわかる。実際、白血病でも白血球は増加するのである。これは単純な逆また真ならずの例であったがもっと複雑な論理構造の文章の場合もこの方法で機械的に分析できる可能性がある。

文章の論理分析

実際の文章を使って論理分析してみよう。テキストは、島内景二著「読む技法・書く技法」講談社現代新書から取った。

読みながら考え、読みながら書く

(1)筆者は、本を受身で読んだことは一度もない。幼い頃に読書感想文の課題図書を読まされた時でも、大学生の頃に先生から指定された研究書の内容要約や論評をレポートとして求められた時でも、「前からこの本を読みたかったのだ」という自発的な動機づけを、自分に与えてから読書を開始した。

(2)主体的に読書するとは、陳腐な表現かも知れないけれども、「本を読みながら考える」、あるいは「考えながら本を読む」という姿勢のことである。この時に「考えた」ことを、読書が終了した時点でうまく集計して整理すれば、そのあとで自分なりの文章を執筆するのに十分な栄養源となるに違いない。読みながら考える姿勢は、読書している間中、読み手と書き手とが激しく格闘していることをしめしている。

(3)「読み手」から「書き手」への変貌は、じつは、そもそもの読書の段階から始まっているのだ。本を読みながら考えている読者は、その考えた内容を、今自分が読みつつある書物の欄外に書き込む。少なくとも、自分の思索を誘発した契機としての重要なキーワード・キーセンテンスに、傍線を引いたりはするであろう。

(4)読書する時点で、読みつつある本や手元にあるメモ用紙に、その時その時での発見や感想などを「書き込む」。読書が終了するや、メモに書かれた内容を、自分なりに工夫した読書ノートに「書き写す」。そして、その読書ノートにもとづきながら、自分の体系と自分の磁場を確立して、個性的な文章を「書き始める」。

(5)読むことは、絶えず「書く」ことと同時進行しなければならない。二つの行為は、二人三脚のような関係なのである。

(6)このように、「読む技法」と「書く技法」は、別物ではなく、同じものである。そのことを、第一部の「初級編」で明らかにしたい。「初級編」といっても、けっして幼稚な内容や初歩的なマニュアルを紹介しているのではない。

段落(1)に現れた命題はひとつで、

(1A)「著者は本を読むときに自発的な動機づけをもって読んだ」

ということである。事実を述べている命題の場合一般的にはその命題は真であると考えても良いだろう。

段落(2)の命題は、

(2A)「主体的な読書とは考えながら本を読むことである」
(2B)「考えたことを整理すると文章を執筆するときの栄養源になるはずである」
(2C)「考える読書とは書き手と読み手の格闘である」

の3つである。これらは、事実ではなくいずれも筆者の意見である。段落(1A)の事実の内容を抽象化して「主体的な読書とは考えながら読むことである」と主張している。

命題間の論理的関係は(2B)⇒(2A)、(2C)⇒(2A)である。文章中に「A ならば B である」と明記していないが命題間に含意の関係があるときに、含意の矢印のどちら側にどの命題を持ってくるか悩むことが多い。このような場合は、「A ならば B である」という図式で考えるよりは、A ⇒ B と同値な「A であって B でないことはない」または、対偶の「B でなければ A でない」を当てはめて考えると良い。

「考えたことを栄養源にしているのに考えずに本を読んいるということはない」し、「考えないで本を読んでいて、文章を執筆するときの栄養源ができることはない」ので、(2B)⇒(2A)となることがわかる。この場合の含意は(2A)が(2B)の上位概念であることを示している。これはおそらく筆者の考えの流れとは逆であると思う。考えて読書するからこそ、文章を書くときの栄養になると考えられるからだ。しかし、考えて読書したからといって、文章を書くときの栄養に必ずなるとは限らない。論理的にはやはり、(2B)⇒(2A)が正しいのである。

この段落では、「考えながら読書すること」の論証というよりは、「主体的な考えながらの読書」の具体的な内容の例示をしているのである。つまり、「書くための栄養源となる読書」「著者と格闘しながら読む読書」はみな「主体的な読書」なのである。

段落(3)の命題は、

(3A)「読書の段階から読み手が書き手に変貌している」
(3B)「読者は本を読んで考えたことを書物の欄外に書き込む」
(3C)「読者は自分の思索を誘発したキーワードに傍線を引く」

という3つの命題からなる。この段落の構造も段落(2)と同じ分析で、命題の論理的な依存関係は、(3B)⇒(3A)、(3C)⇒(3A)である。しかし段落(3)の場合(3B)、(3C)は事実と考えても良い。また(3A)は意見である。ここで(3B)⇒(3A)の真理表は次のようになる。
(3B)(3A)(3B)⇒(3A)
TTT
TFF
FTT
FFT

(3B)は事実をあらわしているから真理値は真と考える。したがって上の真理表で(3B)と(3B)⇒(3A)の真理値がともに T になる行をみると(3A)の真理値は T しかとらない。すなわち(3A)が真であるという論証になっている。

したがってこの論理構造は「読者が書き込みをしたり傍線を引いたりする」ならば「その読者は書き手に変貌している」となる。すなわち「文章を書かない読者の場合も(不完全な形で)書き手への変貌がおこっている」という論証になる。

また段落(2)の主題(2A)「主体的な読書とは考えながら本を読むことだ」とこの段落の主題(3A)「読書の段階から読み手が書き手に変貌している」とを比較すると、「読み手が書き手に変貌する」というのは「考えながら読書する」ことの特殊な場合だから(3A)⇒(2A)となる。すなわち、「主体的な読書」の具体例として「書き手に変貌する読書」の重要性をとりあげていることになる。

段落(4)の命題は「メモをとる」「読書ノートをつくる」「文書を書く」である。書き手に変貌した読者が文書を書くための具体的手順について説明してある。

段落(5)の命題は段落(4)を要約して「読むことは書くことと同時進行しなければならない」と主張している。これは単に読むことと書くことが時間的に並行しておこなわれるというだけではなく、読むことと書くことが不可分に影響し合うと主張しているように思われる。

一般的にこのような主張をする場合は「A ならば B である、ところが A である。ゆえに B である。」という論証がされなければならない。この場合、たしかに段落(4)の記事で、読むことと書くことが時間的に同時進行していることを論証している。しかし、読むことと書くことの相互作用の重要性を主張するのであれば、書くことが読むことをどう深めて行くのか、読むことと書くことの相互作用はどのようなものであるかを論証し、だから、「読むことは書くことと同時進行でなければならない」と主張すべきところではないだろうか。

しかしながら、この文章では、段落(3)で「一般の読者でも部分的に書き手としての読書の仕方をしている」という論証はみられるものの、「主体的な読書と書くことは切り離すことができない」という著者の意見を論証する表現は見られないように思う。

しかし、これは、段落(6)を読むと分かるように、この文章が本文への単なる導入部分であるからだろう。それに本書の目的が「よき読み手から、よき書き手をめざすための実践的ノウハウを伝授」することであるから、筆者にとって、読むことと書くことの同時進行はとくに論証するまでもないことだからかもしれない。

そこでここまでの分析をもとに、上の例題の文章の要約を作ると次のようになるのではないだろうか。

筆者は常に主体的に文章を読んで来た。主体的に文章を読むとは考えながら読むことである。考えながら読むこととは「読み手が文章を書くために読むことである」と言っても過言ではない。また、このときに、文章を読むことと書くこととは同時進行で行われるべきである。

このように、「文章を命題に分解する」「各命題の論理的依存性を分析する」という単純な方法で、一般の文章を論理的に読むことができる。一般の文章の分析では、論理パズルのように厳密な論理的推理を行うことはできないが、論証の構成や議論の進め方など、さらっと読んだだけでは見えて来ない文章の特徴に光をあてることができる。引用文にもあったとおり、精密に読む目的は批判的(けなすと言う意味ではない)に読むことによって自分の思考を形成することである。論理学を利用した読解法はそのためのいろいろな手管のひとつにすぎない。ただ、論理学を利用することで、たとえば「逆また真ならず」のような推論の誤りを回避できたり、文章の構成をより堅固に構築できたりするのである。(2001.7.12)