日々の思い煩い

キリストは、毎日の思い煩いについて次のように言っています。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと思い悩むな。命は食べ物より大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥を良く見なさい。種子も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花のひとつほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げこまれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたはなおさらのことではないか、信仰の薄いものたちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、あなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

( マタイによる福音書第 6 章 )

美味しい食事をして、美味しいワインを飲んで、美しい洋服を着て、楽しく遊び暮らす事ができたらどんなに素晴しいだろうと誰でも空想するのではないでしょうか。そんな生活が一度でもできたらどんなに嬉しいでしょう。しかし、座頭市で有名な勝新太郎がラジオで言っていたのですが、「若くて無名なとき年の瀬に一万円あったらどんなに素晴しいだろうと思っていたのが、有名になってから毎日がお祭りみたいなのに若いときのような感動がない。」そうです。贅沢な生活も、神の国と神の義を求めたときほどの喜びが感じられなければ無駄な時間を使ったことになります。それでは、神の国と神の義とはなんでしょうか。それが、聖書を何度読んでも今一つ分からないのです。