「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ

神が何を正義と考えられるのかは、次のルカによる福音書第 18 章の記事が参考になります。

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

「自分が正しいと思って他人を見下している人」とはあまり友達になりたい気はしないでしょう。だからといって神までも「こいつは嫌味なやつだから嫌いだ」といってしりぞけてしまわれる訳でもないと思います。ただ、このファリサイ派の人の祈りは神への祈りと言うよりは独り言のような気がします。この人は本当は神を必要としていないのではないでしょうか。この人にとっての神は彼の正しさを認めるだけの飾りでしかないような気がします。全人格をかけて神と対話するという祈りではないようです。

それに比べて、徴税人の祈りは、心の中の全てを神の前にあらわにして、胸を打ちながら祈っています。彼にとっては神への祈りは儀式ではありません。かれが必要としているのは神ご自身なのです。神を見たこともないし、神の声を聞いたわけでもありません。しかし、彼は神との対話がなければ生きることの支えすらも失ってしまうのです。

人間は不完全なのであっちでぶつかり、こっちで躓き、なかなか思うような生き方ができません。しかし、神と対話する中で慰められたり、もうちょっと頑張ってみようと思ったりするのです。