迷い出た羊

キリストは言います

これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しにいかないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。
( マタイによる福音書第 18 章 )
ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
( マルコによる福音書第 2 章 )

キリストの視野にはいつも、罪を犯してしまった人、弱い人、失われた人が入っています。言葉では簡単ですが、実際には大変なことです。先ず、このような人から利益を受けている人達からの反撥があるでしょう。また、他方ではこのような人本人が抱えている破壊性に巻き込まれる可能性があります。このような人達を大切にしたことがキリストの十字架刑につながっていった可能性は充分にあります。つぎのような恐ろしいたとえ話はその辺の事情を説明したもののような気がします。

ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。更に三人の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。」そして息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。
( ルカによる福音書第 20 章 )

その人が権力を持つ立場にあろうと、虐げられた立場にあろうと、貪欲と言うものは周囲の人に禍をもたらすものです。キリストを十字架につけて殺してしまったのもこの人間の貪欲さではないでしょうか。このような貪欲による危険を引き受けてまでキリストが宣教活動を続けたことは何とも不思議なことです。しかし、そういう危険をおかしてまで迷い出た子羊を捜す決意をしている人がいるのは子羊の方からすると頼もしい限りです。