もう泣かなくともよい

現代の人が聖書を読むと、その奇蹟物語に疑問を持つ人が多いでしょう。この物語もそのような奇蹟物語の一つです。ルカによる福音書第 7 章にある記事です。

それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れをいだき、神を讃美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。

奇蹟が本当に起こったかどうか興味のあるところですが今となっては確認することができません。僕個人としては起こったと考える方が面白いと思っているのですが、それよりもキリストの言った「もう泣かなくともよい」という言葉が耳について離れません。キリストに思わずそう言わせた程一人息子をなくした母親は泣きじゃくっていたのでしょう。どんな慰めも彼女は受けつけなかっただろうと思います。失意のどん底にあるときに聞こえたキリストの「もう泣かなくてもよい」という言葉はどんな響きでこの母親の耳に届いたのでしょうか。この言葉に関連して思いだすのはキリストの次のような言葉です。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
( マタイによる福音書第 11 章 )

この言葉の響きとその意味は失意の時にしか分からないでしょう。この中で言われているキリストの軛が何を指すのかもよく分かりません。しかし、辛い時にこの言葉を読むとどういうわけか慰められるのです。