対話的読書法

数多くの読書法には、アウトラインを掴むこと、問題意識を持って読むこと、批判的に(考えながらと言う意味の)読むことの大切さをといている。確かにそれらは大切なことだと思うが、実際に本を読んでみるとなかなか実行できないのを発見する。筆者が何を主張しているのかを追っかけるのに精一杯でとても考えながら読んでいるような情况ではないのである。

また、これらの読書法には共通に疑問を持つことの大切さを説いてある。筆者の主張に対し適切な疑問を持つことが能動的な読書には必須であるからである。しかし、この疑問がなかなか涌いて来ないのである。とくに今まで知らなかったことを学習するための本の場合、どういう疑問を持ったらいいのかすら分からず途方に暮れてしまう。何か自動的に疑問を発生させる方法はないのだろうか。それが有るのである。それがこれから述べる対話的な読書法である。

太宰治のファンは彼の本を読むと、まるで自分だけに彼が語りかけてくるような気がするという。しかし、太宰治の文章に限らず、読者を想定して書かれた文章は著者から読者への語り掛けなのである。したがって、読者も著者に対して相槌を打てば読書は立派な読者と著者との対話に変身するのである。これが対話的読書法である。

具体的にどうすればいいかと言うと、文章の一文毎に相槌をいれるのである。例えは、次のような文章があるとする。

「女子高生のかおりさんは元気に学校にいく」という文章を読むとき、ふつう誰もがいちいちひとつひとつの単語の意味を考えはしないだろう。

女子高生とは、名前のかおりさんとは、といった個々の単語ではなく、単純に女子高生のかおりさんが学校に通学する生き生きとした姿を思い浮かべるだろう。これは文章の意図するところが、ひとつひとつの言葉ではなく、彼女が学校に通う姿を述べているからである。

これが文章の本質である。つまり、文章はたんにひとつの意味やアイディア、イメージを、言葉という道具を使って表現したものにすぎない。

(斉藤英治著「最強の速読術」より)

この文章の一文毎に相槌をいれるのである。

『「女子高生の ... 考えはしないだろう。』 ------ 「確かにそうですね。」
「女子高生とは ... 思い浮かべるだろう。」 ------ (女子高生の通学姿を思い浮かべながら)「そうしていますね。」
「これは文章の意図するところが ... 述べているからである。」 ----- 「個々の単語はあまり問題にしていませんね。」
「これが文章の本質である。」 ----- 「個々の単語にこだわらず中心的なイメージが大切なのですね。」
「つまり、... 表現したものにすぎない。」 ----- 「読書の目的を個々の単語を理解することではなく中心的なイメージを捕えることに置くのですね。しかし、それと、速読法とどのような関係があるのでしょうか?」

上の例でも分かる通り、文に対して簡単な相槌を打つだけで、単なる受け身の読書が著者との対話に変り、自然に疑問や質問が発生してくるのを感じることができる。本を読みながらひとりぶつぶつと相槌を打っているのを想像するとちょっと異様な感じがするが、けっこう有効な読書法だと思う。