フリーセル

最近は Windows のアプリケーションをあまり使わないが、フリーセルは別である。GNOME のゲームもフリーセルだけでは良く遊ぶ。このゲームは、適度に難しいが、手順が正しければ必ずクリアできるという所が魅力なのではないかと思う。最初のうちはなかなかクリアできなかったが、最近は大抵一回の試行でクリアできるようになった。退屈紛れにパソコンの電源をいれても、何もやる気力がないときは、ふと気がつくとこのゲームで遊んでいる。

最近も何とはなしにフリーセルをやっていて、いつの間に上達したのだろうとぼんやり考えていたら、はっと気づいた。コンピュータのプログラムや、速読法や、記憶術などの本を沢山漁り続けてきたのに、それを一度も実用的な目的に使っていないのである。これらの技術はとにかく自分の思考能力を高めるために追及してきたのであるが、高められたはずの思考力をさっぱり使っていないのである。

フリーセルについては別に必勝法を勉強したわけではない。ただ、退屈紛れに遊んでいただけなのだが、遊ぶ回数がとてつもなく多かったのでいつのまにか上達してしまっていた。速読術の本もたくさん読んだおかげで速読術について書いた本ならかなり速く読めるようになっている。しかし本業の本は相変わらず昔ながらの方法で読んでいるのである。というか本業の本は速読法の本程、数を読んでいないのかも知れない。情けない話である。

本業の本をあまり読んでいないと言ったが、本業のほうはわざと本を遠ざけるようにしていたところがある。最近テレビや新聞で医学情報が氾濫している。しかし、注意しなければならないのは文字になった情報は必ずしも有効であるとは言えないということだ。きちんとした情報源からの発信であっても文字情報だけでは不足なのである。どうしても経験と言うフィルターを通さなければならないのだ。たとえば、或る種の新薬がある病気に非常に有効であるという解説があったとしても、半年後には重篤な副作用が出たという記事が現れるかもしれない。また、薬の作用や副作用は添付文書通りには行かないことが多い。どうしても、似たような薬を使ったときの過去の経験を活用しながら見極めて行かなければならない。とくに、高血圧の薬のように長期に使用する薬の場合、慎重にならざるを得ないのである。

しかしながら、本を過信することの危険性を知っているだけに、かえって本の情報に対して疎遠になりすぎた嫌いはあるかもしれない。速読の技術を速読法の本だけにしか使わないのは勿体ない。もうすこし本業の本の方もフリーセル程度には親しむべきだろう。

それとは別に、フリーセルに上達した過程を反省して思うのは、気軽に、そしてひたすら親しむことの大切さである。気軽にと言ったのは練習の成果を問わない気持ちである。何かを学習しようとすると、どうしてもその成果を問う気持ちが出てくる。成果を上げようと言う意気ごみはかなり緊張が強いられるので脳が疲れてしまうのである。疲労が溜ると長く続けることができない。また、ひたすら親しむと言ったのは、無意識のうちにも練習をしている状態である。さあ練習するぞという意識も起こらないうちに練習しているという状態である。英語のヒヤリングなどを学習する場合もこのフリーセル型の練習が大切なのではないかと思う。(2005.3.16)