論理とは何か

論理とは何かと言う問

論理とは何かという問題に素人が答えることは不可能だし、専門家でも一言で答えることはできないのではないだろうか。しかし、敢えてこれを問うのは何故かと言うと、論理の力を数学以外の一般的な問題に適用しようと思うとき、論理に対するはっきりしたイメージを持っている必要があるのではないかと思ったからである。ことに、ラッセルのパラドックスやゲーデルの不完全性定理に脅かされないで論理を応用するためにはどうしたら良いかというのは結構切実な問題である。

論理的な推論の本質は場合分けである

結論から言うと、論理とは、中学の幾何の証明でよくみられる場合分けに他ならない。すなわち、おこり得るあらゆる可能性をすべて数えあげることである。論理的推理の確実性はみなこの原理に依っているのである。例えば排中律ではおこり得る可能性はふたつしかない。従って一方が成立していれば確実に他方は成立していないと言う事ができる。もっと複雑な含意や述語論理の場合でも基本的にはこれと同じ原理によっているのである。

有限集合の世界を厳密に記述する論理の働き

したがって、論理が有限集合に対して適用された場合、これは、信頼に足る方法であると断言できる。その場合論理とは有限集合の世界の様々な分類法なのである。例えば、有限集合の世界は、Aという条件を満足する集合とそうでないものの集合に分割することができる。Aという条件を満足するものについてだけ考えたいと思うときは、条件Aを満足しない集合については全く考える必要がなくなるので、思考のエネルギーの節約になる。また、AならばBであるという含意の場合もBであってかつAでないという事象の集合の補集合として捉えることができる。この観点から論理が利用された場合、論理は起こり得るあらゆる場合を想定しなくても論理的推論によって目的のものを効率的に選び出すという働きをする。有限集合の世界では論理は集合や要素の振舞を厳密に記述することのできる言語となり得る。

自己言及的な内包的定義が論理の振舞をおかしくする

それでは論理の適用に注意しなければならないのはどういう場合か。それは、無限集合を扱う場合である。特に内包的定義から体系を演繹して行く場合には論理の適用は非常に注意しなくてはならなくなる。なぜなら、内包的定義が自己言及的であるときは内包的定義によっては、集合を定義できない場合があるからである。たとえば「犬の集合」は集合として定義できるが、「犬でないものの集合」はそのままでは集合として定義できない。なぜならば、犬でないものを集めて作ったどんな集合もそれ自身が犬ではないので、「犬でないもの」全てを集めた集合を作ることはできないからである。したがって、内包的定義によっては、起こり得る全ての可能性を「犬であるもの」と「犬でないもの」のふたつの「集合」に分けることはできない。内包的定義はその自己言及性のために、無条件で使用すると必ず変な集合を発生させてしまうのである。有限集合の場合は「犬の集合」と「犬でないものの集合」を明確に定義できるのでこういう問題は生じない。公理的集合論の内包的定義ではその文法を巧妙に制限することによって、自己言及の発生しない内包的定義のやり方を実現している。しかしながらその場合でも、ゲーデル文の発生を防止できなかった。

契約書に発生する自己言及的な内包的定義

また、内包的定義は数学に限らず契約書を交わす場合も発生するので、このような矛盾が生じるのは無限を扱う数学に限られた場合だけだと楽観することはできない。契約書に現れた例で有名なものにソフィストとその弟子の訴訟の問題がある。あるソフィストと弟子の間で、その弟子が最初の訴訟に勝った場合にのみ報酬を支払うという契約が交わされた。しかし、その弟子がなかなか報酬を支払ってくれなかったのでそのソフィストが弟子に起こした訴訟がその弟子の最初の訴訟になってしまったのである。この場合弟子はソフィストに報酬を払うべきであろうか払わなくても良いのだろうかという問題である。ソフィストの主張は、弟子が訴訟に負けた場合当然報酬を払うべきだし、訴訟に勝った場合最初の約束にしたがって払わなくてはならないというものである。一方弟子の方は、もし自分が訴訟に勝ったら当然報酬を払わなくても良いし、負けたとしても最初の契約のとおり払う義務はないと主張する。

犯人は内包的定義、論理的推論には責任はない

このように論理が怪しい結論を出してしまう場合は、論理そのものの責任ではなくて、内包的定義が孕む矛盾のせいなのではないだろうか。したがって、論理学に矛盾があると考えるのではなく、内包的な定義に矛盾がないか、すなわち、内包的定義とその否定形の両方が集合を定めることができるかどうかをはっきりとすることで、論理は思考のための強力な手段となり得ると思う。(2002/8/5)