自分自身を要素として含む集合

自分自身を要素として含む集合

自分自身を要素として含む集合とはどんな集合だろうか。かりに A がそのような集合だったとする。A の要素のうち A でないものを仮に b, c, d とすると A = { A, b, c, d }である。

集合の解体

ここで、集合の枠を取り去ってその集合の要素を取り出す操作を、仮に、「集合の解体」と名付けることにしよう。もちろんこのような用語は数学にはない。著者が勝手に考えたものである。例えばペット動物の集合の要素が犬の集合と猫の集合でできていたとする。そこでペット動物の集合を解体すると犬の集合と猫の集合ができる。犬の集合と、猫の集合をそれぞれ解体すると、個々の犬と猫の個体が現れてくるが、これらはもはや集合ではない。

一般に概念というものはこのような階層構造をしていると考えられる。個々の要素の集合が一つの概念を作り、その概念を集めたものが高位の概念となる。高位の概念を解体すると低次の概念が現れ、解体を継続して行くと、最終的には個々の要素にたどり着く。

自分自身を要素として含む集合は解体できない

それでは、先程述べた、自分自身を要素として含む集合 A を解体するとどうなるだろうか。A を解体すると A と b, c, d が現れる。しかし、A は集合なので更に解体すると A, b, c, d, b, c, d となる。ここでもまだ A は集合である。つまり、どんなに解体の操作を続けて行っても要素だけにすることができないのだ。この点からも、自分を要素とする集合というのがおかしな集合であることが分かる。

もっと問題点を浮き彫りにするために、自分自身だけを要素とする集合 B を考えてみよう。このような集合 B は次のような再帰的な定義をすることができる。

B = { B }

右辺の B に { B } をどんどん代入していくと、

B = {{{{{{{{{{{{{{{{{{{{{{ B }}}}}}}}}}}}}}}}}}}}}}

と無限に皮の剥けるタマネギのようになってしまうのだ。

よく考えると集合と言うものは、その要素が確定してはじめて定義できるものである。つまり、要素 a と要素 b が確定していてはじめて、集合{ a, b }を作ることができるのである。ところが、まだ出来てもいない自分自身を要素としてどうやって集合を作ることができるのだろうか。

深刻なラッセルのパラドックスの意味

素朴集合論ではこのように変な集合(?)を次々に作り出してしまう。また集合は「自分自身を要素として含む」か、「自分自身を要素として含まない」かのどちらかであるはずである。ところが「自分自身を要素として含む集合の集合」も「自分自身を要素として含まない集合の集合」も作ることができないとすると、集合という概念そのものに問題が有ることになる。ラッセルのパラドックスの意味は深刻なのである。

公理的集合論によって自分自身を要素とする集合の発生を防ぐ

自分自身を要素とする集合や、ラッセルの集合のように、自分自身が内包的定義を満たす集合を集合として認めるとおかしなことになる。また、このような変な集合を含む論理的に整合的な集合の体系を作るのができないのは、ラッセルのパラドックスからも明らかである。公理的集合論では内包的定義については、 A = { x ∈ W | P(x) } というふうに集合の要素にだけそれを適用するという方法で、自分自身が内包的定義を満たす集合を除外するようにしている。

要注意の内包的定義

素朴集合論にでてくるパラドックスは必ず、内包的定義を含んでいる。無限集合の要素を数え尽くすことは原理的に不可能なので、無限集合を捕まえるのには、その集合の要素間に共通の性質つまり内包的定義に頼らなくてはならない。したがって、問題点はこの内包的な定義にあるのである。内包的定義を無制限に適用することは必然的に矛盾を孕んでしまう。無限集合を扱うのは結構デリケートなのである。公理的集合論は巧妙に自己言及性を避けることによって、当面は数学の土台となることができているように見える。しかしながら、将来的には、無邪気に無限の要素を持った集合を考えるのではなく、無限集合を扱うためのもっと厳格な洞察が必要なのではないだろうか。(2001.06.12)