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高島易断・高島呑象先生・高島嘉右衛門
このたび紀藤さんから、高島嘉右衛門伝を上梓刊行するので、嘉右衛門の遺族である
私に、序文を書いて貰いたいと求められました。わたしは、嘉右衛門の次男として生
まれ、家を承け事業をついでまいりましたものの、種々の事情から、父が終生研鑚し
普及に勤めて来た「易」の普及には力を致すことが出来ず、その意味では本書の序文
を書く四角が無いように思いました。しかも当年八十二才の老齢、その上平素文筆の
わざには遠いくらしをして居りましたので、紀藤さんの希望に副うことが出来るかど
甚だ心許ない次第でありました。しかし紀藤さんとは面識の間柄であります。紀藤さ
んは昨年春、その居住地大阪における先哲真勢中州先生の顕彰を首唱された篤志のひ
とでありいま亦其の属として居られる汎日本易学協会が、父嘉右衛門の遺徳を顕彰す
るため終焉の地ここ高島台に記念碑を建立するという始業発起の端緒をひらいた「近
世易学豪伝・呑象・高島嘉右衛門」の筆者であります。易学研究に二年有余連載され
つつありますそれは、私達も毎回愛読させて貰っています。それによって紀藤さんの
意図も真剣な努力もよく知っています。わざわざ私をたずね、ことの真否を糺したり
児玉呑象、小倉正恒等嘉右衛門凍遺弟の諸氏に逢って逸話を聞いたり、なみなみなら
ぬ研究を続けられました。それは紀藤さんが、最も真摯な易学研究団体である汎日本
易学協会、創立当時からの役員で、父を「道」の先駆者として崇敬している上に、郷土
の先輩として其の死後五十年も経たぬうちに、訛伝・誤信が横行しているのを嘆かれ
ての啓豪運動と察しられます。実業家として父の事蹟を伝えるものとしては、植村澄
三郎の「呑象高島嘉右衛門伝翁伝」や大野太衛の「高島翁言行録」があり、横浜に関
する功労者嘉右衛門については「横浜市史」に記録されているが、高島易断の著作と
しての父は、再三刊行された同書が今は町にもあまり見掛けず、有ったにしても父を
側面から客観的子描いたものではないので、ついに一貫した伝記が無く、父の人間像
半面だけしか知られなかった憾みがありました。易断に詳しい伝記筆者がなかったわ
けであります。ところが父は「易は高島」ということで世に広く知られているのであ
ります。その殆ど記藤さんの云うようの訛伝が多く、私共の父であり「高島易断」の
著者であった父は却って知られていないのであります。当時高島家では占業に携わる
者はなく、亦占業免状のようなものを発行した覚えも無いのに「易は高島」という一
般通念を利用して世の顰蹙を買うような人々も有るやに聞き及びます。それは正しい
嘉右衛門伝が世に普及していないせいで、私共近親の者が、そうした人々とは何の狗
りもないと云うことを、口を酸くして世に訴えても、到底世間の誤信を解くことは不
可能でありましょう。正しい高島嘉右衛門伝の出現待望していた所以であります。紀
藤さんは高島嘉右衛衛門顕彰事業の執行委員であり、自ら易占を嗜まれる人で、父の
嘉右衛門の多彩だった人生をここまで活写されました。本書の文学的価値は知らず、
父の生涯を綴って剰すところなく、其の点現存の嘉右衛門遺弟の人達にも異存の無い
伝記になっていると思います。世の識者が其の伝記に誤りがあれば、本書によって匡
していきたいと思います。(易聖高島嘉右衛門傳・紀藤元之介著より)
高島嘉右衛門
・・………明治のいわゆる貴顕紳士と広く交わり、政商と見られる一面もあったが四十
半ばで政財界との交わりに嫌気が差し、隠退して易研究に専念したのは流石であり、
稀有の大器であった。その子孫は占業を営まず、したがって彼及び彼の子孫と、いわ
ゆる「高島易者」とは一切無関係である。(歴史読本・占い・予言より)
易聖・高島呑象先生
高島呑象先生
本の政治、経済の発展に影響を与える存在でした。先生と交流のあった文化人は多く
大隈重信、伊藤博文、山県有朋、根元通明、福沢諭吉……と枚挙にいとまがありませ
ん。晩年著書に「高島易断」があります。ただし、先生は弟子はとられていませんで
した。また、数名の側近の方々は終生、自分の名前名乗られました。したがって易聖
高島呑象先生と高島易断と名乗る人とは何の関係もありません。(「易学研究」紀元
書房、昭和31年1月号)

| 易聖・高島嘉右衛門 | ||
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| 乾坤一代男 人と思想 紀藤元之下介著 に上記の事が詳しく載っております。 |
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