宮崎の神話と伝説


御池(みそぎが池)

宮崎市阿波岐原産母128「市民の森」東端にあり、その南側には伊ザ那伎尊、伊ザ那美尊を祭神とする江田神社がある。

石碑の碑文(抜粋)

古来より、この地はチク紫日向橘小門之阿波岐原と呼ばれ伊ザ那伎大神が禊祓されたと伝えられています。我が国最古の歴史書である古事記には伊ザ那伎大神が禊祓をされ天照大神をはじめ多くの神々が誕生されたと記されています。
(コードがなく漢字で表記不能の文字はカタカナで表記した。)

御池の石碑

御池 江田神社


皇 宮 屋

宮崎市下北方町の丘陵地に位置し、神武天皇が東征するまでの”宮”の跡地とされており、域内には古くから皇宮神社がある。また、すぐそばに「皇軍発祥の地」の塔が建っている。

皇宮神社 皇軍発祥の地


景 清 廟

宮崎市下北方町皇宮屋の北方向に景清廟がある。
文治元年(1185)3月14日、源平最後の合戦は長門壇ノ浦で終焉となったが、悪七兵衛景清は、悪運つよく戦禍を脱出して報復の機を待っていた。しかし建久6年(1195)3月13日、奈良東大寺供養のため上洛していた源頼朝をねらって、警護の武士に捕らえられた。頼朝は景清の武勇を惜しんで、源氏に重用せんと考えたが、景清は固持して西国への流人を所望した。
落魄の降人ははるばると日向勾当となって宮崎郡下北方に草庵を結び仏門に帰依していた。
この時、源氏一門の栄を見るに耐えず、「この拙者の健眼が敵であるぞ」と叫んで自ら両眼を抉って投げた。その地が生目であり、生目神社に祭られている。
景清の娘人丸は鎌倉の亀ケ谷の長者の家に預けられていた。人丸は父景清を訪ねて西下した。はじめ人丸が草庵を訪ねた時、景清はわが身を偽った。しかし、人丸はその草庵の主が景清であることを知って、再会の涙をよせ合った。人丸はこの地にとどまって盲目の父を看取って建永元年(1206)9月、24歳で病死した。
景清はその後建保2年(1214)8月15日、霧島神宮参拝の帰途62歳で病没した。その遺骸が持ち帰られ、景清廟に祭られている。廟内には孝女人丸の墓もある。(比江島重孝・竹崎有斐著、宮崎の伝説より抜粋)

景清廟


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